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永遠のふたり 白洲次郎と正子

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Culture
2024.04.19

死人を抱いて寝た男たち。生者と死者の叶わぬ恋物語集

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人というのは、なんて孤独で寂しい生きものだろう、と思う。孤独を感じなければ、寂しさも感じなくてすむのに。でも、だからこそ人を愛するのだし、人を愛するからこそ孤独でも生きていけるのだ、と思う。

死んだ人間が生きている人間と愛し合う「幽霊譚」は、限りある時間を生きる人間のなかに唯一、永遠を見ることのできる物語だ。死者との再会を切に願う生者の気持ちは今も昔も変わらない。心を残して去らざるを得なかった者たちの、その後の物語を紹介しよう。

骨と皮だけになっても愛しい人

鈴木春信『外出の支度』(The Art Institute of Chicago)

今は昔、京に身分の低い侍があった。長年の貧乏暮らしだったが、思いがけず出世し、遠方へと出向くことになった。侍には長年連れ添った優しい妻がいたが離別し、ほかの裕福な女を妻に迎えた。

満ちたりた生活を送る侍だったが、ふと捨ててきた妻が恋しくなり、思いがつのって会いに出かけた。「京に帰ったら、その足で妻のもとへいって一緒に暮らそう」そう心に決めて、旅装束のままかつての家へ駆けつけた。

家の門は開いていた。しかし家は驚くほど荒れ果てている。奥では妻が一人、座っていた。「いつおつきになられましたか」妻は侍を見るやうれしそうに聞いた。「これからはふたりで暮らそう」侍の言葉に、妻はほんとうにうれしそうだった。二人はそのまま夜更けまで語りあった。

目を醒ますと外は明るくなっていた。そして、男は自分が抱いて寝た女が、からからにひからびた骨と皮ばかりの死人であることに気づいた。身震いする恐ろしさで隣の民家に駆け込み、事情をたずねると家の者は答えた。
「あの方は、長年連れ添った夫に見捨てられ深く悲しみ嘆いているうちに病気になってしまいました。看病する人もなく、この夏に亡くなりました。いまは恐がって近寄る人もなく、家は空き家になっております」
話を聞いた男はすべてをあきらめて帰っていったという。(「今昔物語集」より)

再会を願う死者たち

喜多川歌麿『流行模様歌麿形』(The Art Institute of Chicago)

生きている男と死んでいる美女。そんな二人が愛し合うのだから、穏やかな結末は迎えられそうにない。仏教説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)』の「唐土帝子事」は、野中を行く男が荒れた家のなかで琴を弾く美女と添い寝するも、朝になると美女は遺骸だったという話。

上田秋成作の読本『雨月物語』の「浅茅が宿」でも、何年ものあいだ夫の帰りを待ちつづけた妻が、ようやく戻ってきた夫と一晩を過ごしたのち、夢幻となって消えていく。あとに残されたのはあばら家のみ。夜明けの白い光りのなかで、夫は昨夜の妻が既に亡くなっていることを知るのだ。

死人を抱いて一晩を過ごした件の男たちは、さぞかし身の震える思いをしたことだろう。とはいえ、かつての妻に落ち度はないし、新しい妻に悪意があったわけでもなさそうだから、男たちの身勝手さを思えばすこし胸がすくような気持ちもある。それでも彼らはまだ幸運だったといえる。少なくとも、愛する人の亡骸は残っているのだから。

骨すら残さない想い人

一筆斉文調『おはつ徳兵衛』(The Art Institute of Chicago)

鎌倉初期の説話集『続古事談』には、夢のなかで憧れの相手と契りを交わした男の話がある。

楊貴妃の事を伝え聞いて憧れていた張喩という男がいた。あるとき、夢に童子が現れて張喩を宮殿へと誘った。そこにいたのは、思い悩むほど焦がれた貴妃だった。手を執り、床の上に登ろうとするも、人間の身であるせいか体が重くて登れない。貴妃が香湯を設けて洗浴してやると、不思議と体が軽くなった。

睦まじい時間を過ごす二人だったが、張喩は人間界に戻らなくてはならない。「再び会ひ見ることを得ん」という契りの言葉を得て、夢は醒めた。十五日の後、張喩は貴妃と交わした約束の野原へ赴いた。そして牧童から「天女から預かった」という一通の手紙を渡されるのであった。

『続古事談』によれば、楊貴妃は「尸解仙(しがいせん)」なのだという。仙女が化けて人となる尸解仙は、生きているときは人と変わらない姿をしているが、この世に屍を留めない。だから楊貴妃の骨は求めても手に入らない。骨すら残らないんじゃ、愛しあうことも叶わない。

愛する人の帰りを待ちつづける妻

喜多川歌麿「風俗美人時計」「寅ノ刻」「契情」(The Art Institute of Chicago)

こうした幽霊譚を男に捨てられた女の執念による怖い話、としてしまうのではつまらない。そうではなくて、愛する人の帰りを待ちつづけた女の姿に、私はかすかな哀しみのようなものを感じるのだ。

化けて出るでもなく、恨みの言葉を吐くでもなく、呪いもしない。ただ愛する人と和やかに会話をし、朝になると満足して消えていく。恐ろしくはあるけれど、待ちくたびれた女たちが会えてうれしいと素直に喜ぶだけで、どんなに悲劇的に見える物語でも救われたように感じられる。

重たい愛とか、どろどろした嫉妬ではなくて、女の人生にはたしかにこういうこともあるのだ、という愛のてざわりのようなもの。すこし孤独で、すこし退屈で、すこしのじれったさが骨と皮になってもなお、女を家に繋ぎ止めていたように私には思えるのだ。

さいごに

幽霊譚を読んでいると、思いのほか愛と死の距離が近しいことに気づかされる。土葬が一般的であった時代には、墓をあばくという行為が実際にありえただろうし、亡骸や白骨はいまより身近にあっただろうから、幽霊譚はそうした環境のなかで生まれたのかもしれない。

幽霊譚がこれほど人を惹きつけるのは、読者に生への執着を呼び覚ますからだ。骨と皮になった死骸を前に、語り手はいつも生前の美しい姿を思い描く。迷っているのは死者の霊ではない。きっと、生きている者のうちなる声が死者に姿を与えてしまうのだと思う。

【参考文献】
武石彰夫『今昔物語集 本朝世俗篇(下)』講談社学術文庫、2016年
山田昭男『久保田淳著作選集』岩波書店、2004年
西尾光一校注『撰集抄』岩波書店、1970年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。