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2024.05.20

愛する妻を想い涙。道長の息子・藤原頼通の人生とロマンスの行方

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藤原頼通(ふじわらのよりみち)は平安時代の権力者・藤原道長の嫡男(ちゃくなん、正妻が生んだ長男)で、通称は宇治殿(うじどの)。世界文化遺産に登録されている宇治の平等院鳳凰堂を建立(こんりゅう)した人物としても有名です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、渡邊圭祐さんが演じます。

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藤原道長の後継者として摂政・関白50余年

頼通は道長とその妻・源倫子(みなもとのりんし/ともこ)との間に、正暦3(992)年に生まれました。
4歳年上の同母姉・彰子(しょうし/あきこ)は一条天皇の中宮(ちゅうぐう、后のこと)となって、のちに後一条天皇、後朱雀(ごすざく)天皇となる二人の皇子を出産します。

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長和5(1016)年に数え年9歳の後一条天皇が即位したとき、51歳の道長は幼い天皇に代わって政務を執(摂)る摂政(せっしょう)に就任しました。しかし健康に不安のあった道長は、わずか1年で26歳の頼通に摂政の座を譲ると、翌寛仁2(1018)年には出家してしまいます。

とはいえ、公卿たちは重要な決定事項があるたびに、道長の隠居先である法成寺(ほうじょうじ)に通って相談をしました。頼通もまた、何かにつけて父の意向を仰ぎ、それに従っています。道長は法成寺が「京極御堂(きょうごくみどう)」、「中河(なかがわ)御堂」などと称されたことから、「御堂関白」と呼ばれて、亡くなるまで実質的なトップの座に立ち続けたのです。

頼通は後一条天皇の弟の後朱雀天皇、後朱雀天皇の息子の後冷泉(ごれいぜい)天皇の代まで、50年以上にわたって摂政・関白をつとめましたが、父・道長亡きあとは姉の彰子を頼りにし、また公卿(くぎょう)の長老で右大臣の藤原実資(さねすけ)に相談をして物事を決めることが多かったようです。政治にはあまり熱心でなかったといわれることもありますが、協調性があったと評価されてもいます。

実資の孫にあたる藤原資房(すけふさ)は、日記『春記(しゅんき)』の中で頼通の政治を批判することもありましたが、「本来はめぐみ深く、やわらいだ心の持ち主で、これが第一の長所だ」と書き残しています。

妻は一人と望んだロマンスの行方

道長は万寿4(1027)年、頼通が36歳のときに亡くなりました。道長の生前、頼通が父に反抗することはなかったのでしょうか。
歴史物語の『栄花物語』には、頼通の結婚にまつわるこんなエピソードがあります。

頼通は寛弘6(1009)年、17歳で隆姫(たかひめ)女王という皇族の姫君と結婚し、とても仲睦まじく過ごしていました。道長は隆姫の父・具平(ともひら)親王が頼通を娘婿に望んでいると聞いたとき「男(おのこ)は妻(め)がらなり(男の価値は妻の家柄によって定まる)」と大喜びをしています。

しかし二人の間には結婚から何年たっても、子どもが生まれませんでした。長和4(1015)年、20代前半になった頼通に、三条天皇から二の宮(2番目の皇女)を降嫁させたいという話が届きます。

道長は良い話だと言って縁談を進めようとしますが、隆姫を愛する頼通は「どのようにでもなさってください」と道長に答えながら、目に涙をにじませました。

道長はそんな息子を見て「男が妻を一人しか持たないなどということがあるか、愚かしい。今は子を持つことを第一に考えろ。この内親王は子を生んでくださるだろう」と説き伏せました。

天皇の外戚となるチャンスを逃す

『栄花物語』ではその後、頼通は謎の病に倒れ、生死の境をさまよいます。その原因が隆姫を心配する亡き父・具平親王の霊障によるものだと分かり、道長は仕方なく、降嫁の話を諦めるのですが……。

実際のところは、父に叱られるまでもなく頼通にも、妻のほかに通う女性がいました。ただ、皇女と結婚するとなれば「正式な妻」としての隆姫の立場があやうくなり、あまりにも気の毒だと思ったのかもしれません。

確かに隆姫との間には子どもが生まれず、隆姫の弟の源師房(みなもとのもろふさ)を養子にして一時は後継ぎ候補としましたが、30代になってから別の女性との間に次々と実子が生まれました。

摂関家にとっては、後継者となる男子と同じくらいに、天皇家に入内(じゅだい)させることのできる女子の存在が重要です。

頼通も養女の嫄子(げんし)を後朱雀天皇へ、娘の寛子(かんし)を後冷泉天皇へ入内させていますが、どちらも皇子には恵まれませんでした。次世代の天皇の外戚となるチャンスは、得られなかったのです。

摂関政治から院政の時代へ

治暦4(1068)年、頼通は息子の藤原師実(もろざね)を将来的には関白にするという条件で、弟の藤原教通(のりみち)に関白の座を譲り、のちに平等院に改築される宇治の別荘へと隠居しました。

その年に即位したのが、摂関家を外戚としない後三条天皇です。後三条天皇は上皇になったのち、摂政・関白に代わって自らが政務を執ろうと考えていましたが、実現することなく崩御しました。その遺志を継ぐのが白河上皇で、時代は摂関政治から院政へとシフトしていったのです。

頼通が法成寺をモデルに建立したとされる平等院鳳凰堂『日本大観』より 著者:中沢弘光 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

アイキャッチ:頼通の邸宅に彰子、後一条天皇、敦良親王(後朱雀天皇)が行幸した際のようすを描いた『駒競行幸絵巻(模本)』出典:ColBaseより、一部をトリミング

参考書籍:
『新編 日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『藤原道長』著:朧谷寿(ミネルヴァ書房)
『藤原頼通の時代』著:坂本賞三(平凡社)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。