突然ですが、2019年は日本・オーストリア外交樹立150周年記念ということで、あちこちでオーストリアの芸術を目にすることがたくさんです。
クリムトの絵画もそのひとつで、いろんな本が出ているなーなどと思いながら近寄ってみると「源氏物語」と書いてありました。
え、どういうこと?
不思議に思いながら手に取ってめくってみると「なんだこれおもしろい!」
というわけで、その本、『源氏物語 A・ウェイリー版』についてご紹介します。
アーサー・ウェイリー英訳の源氏物語を知っていますか?
世界最古の小説といわれる紫式部の『源氏物語』は、古文の授業で取り上げられることも多い作品。けれどもあまりの大作で、すべて読み切った人の方がめずらしいのではないでしょうか。明治時代以後、さまざまな作家が現代語訳を行っていますが、それらもちょっと読み切るのは難しそう。かくいうわたしも、大ファンである大和和紀先生の『あさきゆめみし』という漫画で見たり、天海祐希さんが光源氏を演じた映画で見知っている程度。
そんな日本の古典に挑んだのがイギリスの東洋学者、アーサー・ウェイリー(1889~1966年)でした。彼が手がけた『The Tale of Genji』は『源氏物語』の世界初の英語全訳として、1921年~1933年に6巻に分けて出版。これが源氏物語が世界中に知られるきっかけとなり、その流麗な文体が称賛され、先日亡くなられた日本文学者のドナルド・キーンさんも絶賛されていたそうです。
ウェイリー版は「逆輸入」される形で以前に一度日本で出版されたことがありました。そして、姉妹で翻訳家の毬矢まりえさんと森山恵さんが新たに翻訳を手がけたのが2017年。第1巻を左右社から出版し、2019年7月の第4巻の出版で完結しました。
1冊が5センチほどの厚みを持つ書籍なので、やっぱりちょっとひるみはするのですが、読んでみたら、これがおもしろいのです。みなさんがよくご存じの冒頭部はこんな感じです。
<ウェイリー版 毬矢・森山訳>
いつの時代のことでしたか、あるエンペラーの宮廷での物語でございます。
ワードローブのレディ(更衣)、ベッドチェンバーのレディ(女御)など、後宮にはそれはそれは数多くの女性が仕えておりました。そのなかに一人、エンペラーのご寵愛を一身に集める女性がいました。その人は侍女の中では低い身分でしたので、成り上がり女とさげすまれ、妬まれます。あんな女に夢をつぶされるとは。わたしこそとグレートレディ(大貴婦人)たちの誰もが心を燃やしていたのです。
ましてや同じような身分だった仲間の侍女たちは、一躍、引き立てられた彼女を許せません。揺るぎない寵姫の地位を得たとはいえ、彼女は妬み、そねみに曝されます。 心痛で憔悴し、やがて里に下がっていることが多くなりました。病気がちで鬱ぎこむ彼女に、エンペラーの熱は冷めるどころか、ますます彼女に溺れ、たしなめる周囲の にもいっさい耳を貸しません。そのことは次第に国中の噂となっていきました。
<原文>
いづれの御時(おおんとき)にか、女御(にょうご)更衣(こうい)あまた侍(さぶら)ひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれてときめき給うありけり。
はじめより我はと思ひあがり給へる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉み給ふ。
同じほど、それより下﨟(げろう)の更衣たちは、まして安からず、朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえはばからせ給はず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり
いかがでしょうか。ちょっと変わった雰囲気の文章ですが、ビジネスの場などでカタカナ言葉に慣れてしまった現代人には、かなりしっくりくると思いませんか。なお、主人公の光源氏は「ゲンジ」「シャイニング・プリンス」、女性たちの多くは「レディ・フジツボ」「レディ・ムラサキ」などと呼ばれます。ちなみに、光源氏の友人である「頭中将」は「トウノチュウジョウ」です。
また、文中に登場する和歌は意味を上手に文章にいれたうえで原文が記されています。
「その井戸に引き寄せられて、ひどく悔やんでいるものもありましょう。今度の人も悔やむことになるか、影法師はわたしに教えてくれるでしょうか」
(原文)汲み初めて、くやしと聞きし山の井の 浅きながらや 影をみるべき
これらの和歌も流れがスムーズです。入れ方が工夫されているので本文のカタカナとのコントラストが際立ち、よい感じに陶酔できます。
また、帖ごとに扉があるのですが、そこには英語と日本語のタイトルが併記されれています。「桐壺 Kiritsubo」から「夢浮橋 The Bridge of Dreams」まで、読者はこれが平安時代の日本の話なのか、それとも別のどこかとまどいつつも、楽しくページをめくっていくこととなるでしょう。
翻訳者の毬矢まりえさん、森山恵さんインタビュー
3年半にわたり翻訳を手がけた毬矢まりえさん(左)と森山恵さん(右)
本を読んだ私は、その本を訳した方にも興味が湧きました。表紙はクリムトという点も気になります。なぜこんな本ができたか、訳者のひとりである森山恵さんにいろいろ伺ってみました。
――ウェイリー版にであったきっかけやその時の印象は?
大学院でヴァージニア・ウルフを専攻したとき、彼女の文学・アートグループである「ブルームズベリー・グループ」に、『源氏物語』を翻訳したひとがいると知り、驚きました。そのときは一部しか読みませんでしたが、ヴァージニア・ウルフの文体に似た、流れの美しい文章だな、と思いました。姉(毬矢まりえさん)はフランス文学の専攻で、プルーストの文体にも似ていることに、後になって気づいたそうです。ウェイリーの英訳は詩的で心理描写が巧みです。
――あらためて翻訳しようと思ったきっかけはどのようなことですか?
ふたりで翻訳しよう! と決めたとき、既訳があるとは知りませんでした。でも取寄せて読んでみると、「これはまったくウェイリーの文体ではない…」と思ったのです。ウェイリーの文章は、明晰で流麗、かつ詩的ですから、俳句や詩などの創作を行っている自分たちなら(※姉のまりえさんは俳人、妹の恵さんは詩人としても活躍)、文学的作品としての翻訳ができるのでは、と考えました。翻訳を始めてからはとにかく夢中で、ひたすら完結させようという一心。「長いな…」とは思いつつも「必ずできる」という確信はゆらぎませんでした。
そんな大変な翻訳も、姉妹で作業だったので、よいことばかりでした。ふたりで納得するまで話し合うたびに「これ」という、よりよい言葉が見つかったのです。姉妹でなければ、これほど深く理解し合い、文章を磨き上げられなかったと思います。幕開けの最初の一文から激論となり、ずいぶん盛り上がりました。
とりわけ気に入っているのは「賢木」の有名な「野宮の別れ」の場面。秋の花野の美しさ、風情、恋人ふたりの哀しみと情感が溢れていて、特に印象深い場面です。それから「橋姫」以降のいわゆる「宇治十帖」は、姉妹の物語でもありますので、私たちにとって胸に迫るものがありました。
――なぜクリムトを表紙に?
『源氏物語』のスケールの大きさにふさわしい絵画をカバーにしようと思い、たくさんの絵画をコピーしては並べてみたのですが、どれもしっくりこない。そしてあるときにふと「クリムト……!」と閃いたのです。「接吻」の絵が浮かんだときには、「絶対これしかない!」と思いました。クリムトもジャポニスムの影響を受けているので、わたしたちの“ウェイリー源氏”のコンセプトともぴったりでした。
――ところで、ご自身がゲンジに口説かれたらどうしますか?
悩みますね。ゲンジは生身の男性の印象が薄いのです。「ヒカルゲンジ」「シャイニング・プリンス」というの名のとおり、光り輝く物語の中心ではあるのですが、彼はどこか空洞・真空のような存在なので、案外男性として魅力的ではなくて。むしろ頭中将や匂宮(プリンス・ニオウ)に惹かれます。姉妹のあいだでは柏木(カシワギ)も人気です。
――たくさんの女性が登場しますが、いちばん魅力的だとおもう女性はだれですか。
【まりえ】紫の上(ムラサキ)です。美しくて、音楽にも文学にも、なにもかも優れている。そのうえ優しくて、繊細で、心の機微に通じた女性です。ゲンジの話に、いつも静かに耳を傾ける姿などにも、周囲に気を遣いがちな姉として共感してしまいます。ちょっといい子過ぎるところが、胸が痛みますが。
【恵】初めて『源氏物語』を読んだときには、六条御息所(レディ・ロクジョウ)と朧月夜(オボロヅキヨ)が好きでした。六条御息所は生き霊となってしまう恐ろしい女性ですけれど、ほんとうは高貴で知的で美意識が高く、感受性が鋭く、異界的なものをまとう神秘的な存在であるところに惹かれました。でも今回翻訳していて、悪者とされる弘徽殿女御(レディ・コキデン)も含めて、どの女性も個性的で好きになりました。
『源氏物語』の新しい入門書として
――教科書程度の知識しかない人にも楽しめるますか?
ウェイリーは当時のイギリスの読者にわかりやすいように、イギリスやヨーロッパの文化・習慣も巧みに訳文に取り入れました。ロングドレスをまとい、馬車に乗って疾走し、ワインを片手に愛を語り、歌を詠み、涙するなど、登場人物はみな生き生きと躍動しています。また、ロマン派の詩や、シェイクスピア、聖書の言葉なども引用しているのです。でも『源氏物語』の情感はまったく失われていませんし、わくわくするストーリーとしても楽しめます。 世界観や言葉遣いに、ちょっと驚いたり笑ったりしながら読み進めてみてください。きちんと読めば、ただのプレーボーイの軽々しいストーリーでないことがきっとわかってもらえるはずです!
翻訳されたおふたりが一番伝えたいのは「ウェイリー訳が『源氏物語』の英訳としては、一番、文学的で素晴らしい」ことだそうです。「意訳」「抄訳」と誤解されることもありますが、ウェイリーは物語の魅力を余すところなく英訳したのです。これは素晴らしいことで、この大作を千年前に女性が書いたのはさらにすごいことです。
平安の王朝絵巻がカタカナであらわされ、それをクリムトで包み込むという一見トリッキーな『源氏物語』は、実に読みやすくてとてもおもしろい本です。日本の古典への入り口となる新たな名作ともいえるこの本、平安時代の貴族の生活の一端を知るにも最適です。ぜひ一度読んでみてください。