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2024.12.09

借りたものを返さないと…死んでも取り立てに来る、討債鬼の恐怖

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中国に古くから伝わる怪談のひとつに討債鬼がある。討債鬼はその辺の鬼よりずっとめんどうくさい。なにせ生前に回収できなかった債務を支払ってもらうため、死んでなお、あの手この手で取り立てようとしてくるのだから。その方法というのも、かなりたちが悪い。借りたものは返しましょう。できれば、生きているうちに。

母に子どもを投げ棄てるように命じた行基の話(『日本霊異記』中巻三十)


生前に貸りた財物を返さずにいるとなにが起こるか。まずは、借財にまつわる古い物語を『日本霊異記』から紹介。

行基が難波の堀を開いて法を説いていた頃のことです。
聴衆の中に一人の女がいて、抱いている乳飲み児があまりに泣くので法話が聴けずにいました。その子はいつも泣きわめいて、食べてばかりいました。行基は母に告げました。
「その子をすぐに川へ投げ棄てなさい」
けれど母は子どもを捨てることができません。翌日も子どもが泣き叫び、説法を聴くことができませんでした。行基はふたたび母に子どもを棄てるように告げます。
母は怪しみながらも子を投げました。母が子を深い淵に投げ込むと、子は水の上に浮かび、目をカッと見開いて言いました。
「ねたましい。あと三年はお前から取り立ててむさぼり喰ってやろうと思ったのに」
行基は女に問いました。
「あなたは前世でこの者に借りをつくり、返さなかったのだ。そのためにこの者はあなたの子どもに生まれて負債の分を食いあさったのです。今あなたが淵に捨てたのは、前世の貸主ですよ」

転生して復讐する討債鬼

「月岡芳年新聞小説插絵」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

「討」には要求の意味があるから、討債鬼は書いて字のごとく債権を要求する鬼ということになる。現代でもお金を奪われたとか借金を踏み倒されたなんて話を聞くけれど、相手が死んだら返さなくてもいいと考えるのはおおまちがいだ。彼らはどんな状態にあっても奪われた分をきっちり取り返しにくる。清算のつかない貸借契約はあの世へと持ち越されるのである。

亡者が怨みを晴らすために講じる手段はいくつかある。『日本霊異記』の話みたいに子どもにとり憑くのもそのひとつ。ほかにも子どもを病気にさせることで多額の治療費を消費させようとしたり、遊び人に生まれついて財産を使い尽くしたり。仇の子どもに転生して、奪われた額と同じだけ親の財産を蕩尽することで復讐を遂げるというのがお決まりのパターンだ。そして目的を達成すると、早死にするのだという。

鬼の不幸と親の不幸

「月岡芳年新聞小説插絵」(国立国会図書館デジタルコレクションより)

討債鬼譚には、(ごくごく個人的に)二つの読みかたがあるように思う。一つは、人間関係における復讐劇として。復讐する側からしたら、悪事を働いた人間が悔しがっているさまはなんとも爽快だ。そしてもう一つが、子どものために苦労する親の物語としての読みかた。

この放蕩無頼の子となり、父の財産を蕩尽して仕舞つてから死ぬるのは、親として最も苦痛とするところであるから、放蕩息子を罵るには「貴様は討債鬼だ」といふ言葉を以てするのである(永尾龍造『支那民俗誌』)

そう中国民俗研究の書にも書かれているように、討債鬼が願うのは債務者の身の破滅である。もちろん返さずにいる方が悪いので、親たちの不幸には同情できない。とはいえ。とはいえ、である。復讐するために生まれてきたとしても、親からすれば自分の可愛い子どもなのだ。復讐を果たせば我が子は死んでしまう、かといって生かしておけば自分たちが苦しむことになる。私はここに親の悲しみを感じずにはいられない。

討債鬼はあきらめない

被害者が復讐のために加害者の子どもに生まれるというのは、いささか突飛な発想に思えるかもしれない。借金の貸し主が借り手の子どもに転生して追いつめるという話は近世的で、いかにも人間社会らしい題材だ。世間話のようにも聞こえる怪談で、読んでいると身につまされる思いがする。

討債鬼は中国に伝わる怪談で、そしてこの物語は輪廻転生の話でもある。中国における輪廻の観念では、現在の不条理な出来事は前世の報いであり、来世で相応の報いを受けるはずのものとして受けとめられてきた。そこから誕生したのが輪廻をめぐる復讐である。つまり討債鬼とは、人間関係における「貸し借り」に怨念がまとわりついて発生した、文化的土壌のもとで育まれた壮大な輪廻復讐譚といえる。

返済ができずに討債鬼に殴られた男の話(『菜花郎』)


討債鬼はなにせしつこいので、何度だって取り返しにくる。それでも返さずにいると最終的にはどうなるか。借りたものを返さなかった男の末路を語った話がある。

李二という男は、甥からこっそりと四十元を借りていましたが、返すことなく甥は病死してしまいます。
これで返さなくてすんだとほくそ笑んでいると、ある晩、死んだはずの甥が返済を求めて訪ねてきました。李二は苦しまぎれに大晦日の正午までには工面すると約束し、帰ってもらいました。しかし金の工面はつきません。
巫師をしている者に相談したところ、任せておけと言います。当日は堂中に菩薩を講じて祈祷しよう。これで甥の亡霊は入れないはずだ。
当日、祈祷のせいで甥の亡霊は外で待つことになりました。いくら呼んでも返事がないことに腹を立てた甥は、ついに仲間を呼び集めて騒ぎたて、李二と巫師を殴りつけました。
李二は二十元を甥の老いた母に渡し、残りの二十元で紙銭を買い、甥を弔いました。以後、亡霊は二度とあらわれなくなったということです。

まだまだある討債鬼譚

討債鬼譚に似た話はかなり古くまでさかのぼることができる。そして物語の数だけ催促の方法があって、語り口もさまざまで読んでいるとずいぶんおもしろい。

たとえば役所に訪ねて来た亡霊がお金を返してもらっていないと訴え出るとか(『太平広記』)、僧のお金を盗んだことで親子二代が殺される話(『括異志』)、ネズミにとり憑いて噛みついたり(『果報聞見録』)、腹の中からご馳走を要求し、気に入らないと臓腑を引っ張るなんて者もいて(『曹州府志』)、この手の類話は尽きない。

古典落語の『もう半分』もまた、討債鬼を思わせる内容だ。この噺は、居酒屋夫婦に金を奪われた老人が夫婦の子どもに転生して復讐するというもの。生まれてきた子どもというのが白髪を生やした、まさに金を奪われた老人そっくりの顔で、子どもを見た女房は恐怖のあまり血がのぼり、死んでしまうのである。

おわりに

執拗な怨念のせいか暗い雰囲気が漂う討債鬼譚だが、人間の欲深さ、業の深さ、あさましさをこれほどさらけ出した物語はそうないように思う。いつまでも忘れてくれないあたりに人間ならではのしつこさと、怪異の狂気を感じる。
なかには自嘲とも捉えられるような話もあって、なにより隣の家で起こっているような人間味のある物語がそろっているところがいい。そしてやっぱり、世の中には(あの世においても)お金の恨みほど恐ろしいものはないのだなあ、とつくづく思わされるのである。

【参考文献】
沢田瑞穂「鬼趣談義 中国幽鬼の世界」中央公論社、1998年
堤邦彦「江戸怪談と富」(「鯉城往来」第2号)広島近世文学研究会、1999年
「日本古典文学全集 日本霊異記」小学館、1975年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。