19世紀ドイツの孤高の哲学者、ニーチェはこのような言葉を残している。
「あなたが出会う最悪な敵は、いつもあなた自身であるだろう」
いや、ホント。
まったくその通りで。
ぐうたらな私には非常に耳の痛い言葉である。
というのも、ダイソン、恥ずかしながら告白するが。
とにかく自制心がない。
驚くほど自分に優しい、超甘々な人間なのである。
自分を律することができず、欲望に負けた例は数知れず。例えば、ダイエット。失敗続きはもちろんだが、一昨年、奇跡的に初めて成功したものの、まさかの1年でリバウンド(早くね?)。さらには、体重がマイナスからプラスへと逆振りという最悪な結果となってしまったのである。
自制心って。
お金で買えないかな。
そんな妄想が何度も頭の中でリフレイン。
前置きが長くなってしまったが、要は「自分の心に暴れ馬を飼っている」タイプの人間なのである。
いやいやいや、もちろん。
これを読まれてニヤニヤしているあなただって。
飼ってるでしょ? 大層ご立派な暴れ馬を?(勝手に決めつけるのダメじゃね?)
そんなダメな私と、ダメなあなたに(だから勝手に……)。
早速の朗報である。
ここは、やはり、手っ取り早く自制心の強い方々の教えを乞うのが一番。
ということで、今回は、厳しい戦国の世を生き抜いた方から「自制する」コトを学ぶという企画である。
さても、どのような「自制心」強めの戦国武将が登場されるのか。
珠玉の逸話と、冒頭のニーチェ先生からの大事な言葉も添えて、ご紹介しよう。
※本記事は「蒲生氏郷」「細川忠興」「伊達政宗」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
蒲生氏郷と細川忠興の奇妙な関係
まず、お1人目は。
キリスト教の洗礼名「レオン」との呼び名がある、超男気溢れる戦国武将、蒲生氏郷(がもううじさと)である。
元々、氏郷は人質として織田信長の元へと連れてこられたのだが。
あまりの気に入り様に、信長が自分の娘(冬姫)を嫁がせ、故郷の日野(滋賀県)に帰らせたほどの逸材。勇猛果敢でありながら人情味も厚く、将来を嘱望されていたが、惜しくも天下人になるにはタイミングが合わず。秀吉に臣従し、小田原征伐の戦功、そして奥州(東北)征伐により、最終的には加増され会津92万石の大大名となる。
そんな彼の自制心の強さが分かるエピソードをご紹介しよう。
じつは、蒲生家には代々受け継がれてきた家宝があるという。
それが「佐々木の鐙(あぶみ)」。
鐙とは、馬具の1つで、乗り手が足を踏みかけるものである。
ただ、単なる鐙ではなさそうだ。
「佐々木の」って、なんだかよく分からん修飾語がついている。
一体、佐々木って誰なんだと思われた方。
調べてみると、どうやら、あの誉れ高い鎌倉時代の武将「佐々木高綱(たかつな)」を指すのだとか。
「佐々木高綱」とは源頼朝の家臣で、平家物語にも登場する「宇治川の合戦」で先陣争いを繰り広げた人物だ。
そう、あの名場面。
平家物語では「佐々木、鐙踏ん張り立ち上がり、大音声をあげて……」と、佐々木高綱が先陣争いを制し、敵方に自分が何者であるかを名乗るシーンがある。
その踏ん張る足元にある「鐙」こそ、まさしく蒲生家の家宝「佐々木の鐙」なのだとか。
確かに。
恐れ多くも平家物語に登場する「鐙」ならば。
そりゃ当然、家宝になるだろう。
そんな名高い鐙を、である。
いとも簡単に所望した男がいる。
それが、同じく秀吉の家臣である「細川忠興(ただおき)」だ。
忠興は、細川藤孝(幽斎)の長男で、明智光秀の娘(ガラシャ)を嫁にしたことでも有名だ。そんな義父がまさかの謀反「本能寺の変」を起こした結果、主君の信長が自刃。この窮地を細川家は機転を利かせて無事に脱し、のちに秀吉、家康に臣従。「関ケ原の戦い」では軍功をあげ、豊前、豊後39万石に加増転封、中津城ついで小倉城に移っている。
それにしても、である。
えっ?
どういうコト?
家宝ってまさに、代々その家に伝わる大事なお宝じゃないのか。
欲しいといってもらえるものなのか。
ここで気になるのは、両者の関係性だ。
じつは、蒲生氏郷と細川忠興は、共に信長、秀吉に臣従し、さらに千利休より茶の湯を直伝された弟子でもある。
つまり、利休の高弟子7人を意味する「利休七哲」のメンバーなのだ。それも、この「利休七哲」の顔ぶれは年代により入れ替わるのだが。一貫して「利休七哲」より外されることがなかったのが、この2人なのである。
そういう意味では、共に高弟子で良きライバル。
ある程度、気心の知れた間柄と言えなくもない。
ただ、さすがに、ねえ。
欲しいといわれてもねえ。
それよりもさらに謎なのが。
フツーに「家宝だから」と断ればよいものを、なぜだか蒲生氏郷は承諾したというのである。
これにはさすがの家臣たちも困り顔。
だって「佐々木の鐙」は他にはない無双の名物なのだ。似通った鐙を贈ればいいと、家臣らは代案を提案したという。
さあ、ここで。
かの蒲生氏郷はなんと答えたのか。
心の中の暴れ馬の手綱をグッと引いて、読んでいただきたい。
氏郷は「『なき名ぞと人には言ひてやみなまし心の問はばなにと答へん』という歌の心の恥ずかしさよ」といって、この鐙を忠興に贈った。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
ちなみに、蒲生氏郷は文武両道に秀でた武将である。
こういう大事なところをサラッと和歌で返すなんて。
さすがだといいたいところだが。
現代人の私たちには、内容がサッパリ分からない。
調べると、どうやら、これは平安時代の『後撰和歌集』巻十一にある歌だという。
意味はコチラ。
「人に偽りをいった場合、あるいはそれで通ることがあるかもしれぬが、もし、われとわが心が、それは誠かと問うたとき何と答えたらよかろう。嘘か誠かは自分がいちばんよく知っている」の意。
(同上より一部抜粋)
なるほど。
大事な家宝を渡すか、それとも似ている鐙を渡すか。
恐らく似ているモノであれば相手に気付かれず、家宝も守ることができる。氏郷もそんな選択肢が一瞬頭をよぎったのかもしれない。
だが、「われとわが心」だけはホントのことを知っている。家宝を守っても、己に嘘をついて生きることになってもいいのか。いや、いかん。という感じだろうか。こうして、氏郷は邪な考えを制したのである。
自分自身に真っ向から向き合って、正直になる。
そして、自分を大切にする。
とてもシンプルなコトなのだが、実行するのはなかなか難しい。
ただ、それが己を制する第一歩なのかもしれない。
やってくれた政宗のムチャな自制心
1人目を、やや真面目に書き過ぎたようで。
ここからはテンポよく、より自制心がモノをいう方たちにサクッとご登場いただこう。
2人目は、奥州の覇者といわれる仙台藩祖、伊達政宗である。
こちらも1人目の蒲生氏郷と同様、実力がありながら天下人になることができなかった武将といえるだろう。ただ、政宗はどちらかというと、タイミングというよりは、生まれが遅すぎたきらいがあるといえる。というのも、天下人の秀吉との年の差は30歳ほど、徳川家康とは25歳ほど。既に天下が取られ、新たな世を築き始めたところで、頭角を現してもただ煙たがられるだけである。
それ故、幾度か窮地に陥ることもあったが、家康など周囲の武将らの助けもあり、秀吉の怒りを買うことなく無事に切り抜けたのはさすが。奥州(東北)という遠方の出でありながら、詩歌・書・能・茶道などの実力は当代一級のもの。多くの武将より一目置かれていたようだ。
そんな政宗のエピソードをご紹介しよう。
残念ながら、どの時代かは不明だが。
政宗が名物の茶碗を見ようとした矢先、ついうっかり、落としそうになった時の話である。
その刹那、酷く心が動揺したというのである。
動悸、息切れ、めまいってヤツか?
あ、あぶねーって、落ちそうになった茶碗を両手で大事に持ち直す。
確かにドキドキはするだろう。だって、間一髪だったし、緊張してアドレナリンが大放出してるはずだ。
フツーなら、これで終わりだ。落とさないで良かったねとなるところ。
だが、政宗は違う。
己の動揺について、客観的に考察を試みたのである。
そして、彼の出した結論はというと。
「名器とはいいながら残念なことだ。政宗は一生驚くことがなかったが、この茶碗の値段が何千貫目と聞いて、それに心が奪われて驚いたとは、口惜しい」といって、その茶碗を庭石に打ちつけて微塵に砕いて捨ててしまわれた。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
えっ?
なんで?
いや、マジで。さっぱり理由が分からない。
ふと、これに似た話を思い出してしまった。恋人に振られそうになって、先に自分からあえて振るっていう……。
あれ、微妙に違うか。
それにしても、やはり伊達政宗。
これまで窮地の際には度肝を抜くパフォーマンスを繰り出してきたが。
日常においても安定の、規格外の行動である。
割れそうになった。で、驚いた。で、口惜しい。で、自ら茶碗を割る。
彼は一体、何が口惜しかったというのか。
情報が少ないため様々な解釈が成り立つが。
ダイソン的に、政宗の気持ちを整理してみると。
まず、一生驚くことがない自分(政宗)が驚いたとなっている。まあ、これには総ツッコミが全方位から来そうだが。いったん、脇に置いておこう。
それよりも、どうやら「驚いた内容」について我慢できなかったようだ。というのも、「名物の茶碗」ではなく、じつにその値段、相当高額な値段に心奪われ、動揺したからである。
ちなみに、ここでいう「何千貫目」は、数字によってかなり幅があるが、もちろん億超えの可能性もある。
つまり、彼の中では「名物の茶碗、あぶねー」ではなく、「億超えのカネ、あぶねー」となったコトに腹を立てたと解釈できる。茶の湯を愛する政宗からすれば、そんな現金主義的な己の姿は到底許せない。さらに、これまで厳しい戦いで生き残ってきた自分が、「カネ」ごときに動揺するというのも、なんとも情けない。
恥ずかしさ、自己嫌悪、そして、自分の真の姿に気付く恐怖。
そんな複雑な感情が入り混じり、政宗はさぞ胸の内をかき乱されたに違いない。
そこで、彼は己の心を制するために。
茶碗を割るという、ありえない行動に出たのであろう。
ふむ。なるほど。
確かに、壊してしまえば簡単だろう。
ただ、私としては、己のマイナスな感情を消すために、実物のモノを消し去るという選択はしたくない。
やはりマイナスな感情を潔く認め、暴れ馬やらなんやら一切合切を含めて、共存したいのだ。
そこで、冒頭でご紹介したニーチェ先生の出番である。
ニーチェはニヒリズムや反宗教的思想などのイメージが強いが、一方で非常に前向きで明るく、力強い言葉も多い。
そんなニーチェ先生からの言葉を厳選して彼に授けよう。
伊達政宗に贈りたい言葉。それがコチラ。
──恐怖心は自分の中から生まれる
この世の中に生まれる悪の四分の三は、恐怖心から起きている。
恐怖心を持っているから、体験したことのある多くの事柄について、なおまだ苦しんでいるのだ。それどころか、まだ体験していないことにすら恐れ苦しんでいる。
しかし、恐怖心の正体というのは、実は自分の今の心のありようなのだ。もちろんそれは、自分でいかようにも変えることができる。自分自身の心なのだから。『曙光』
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著 白取春彦編訳 『超訳ニーチェの言葉』より一部抜粋)
結局、類友のような政宗と秀吉
蒲生氏郷、伊達政宗とご紹介してきたが。
最後は、やはり、この人に締めていただこう。
下剋上を体現した天下人、豊臣秀吉である。
っていうか。
キーボードを叩く手が止まる。
この人選。これでホントに合っているのか。
だってさ。これまで秀吉の記事を散々書いてきたが、じつに自制心とは無縁な男である。特に、ある分野、異性関係の方面ではそれが顕著だろう。
どうして彼を、それも最後の大事な締めで登場させたのか。
なんなら、前半の蒲生氏郷の心に残る和歌が吹っ飛んでしまうではないかと心配したが。今回も、やはり、秀吉は見事やってくれました。
ただ、蒲生氏郷、伊達政宗ほどスペースを割く必要もないだろう。
ということで、サクッとおまけ程度に、秀吉のエピソードをご紹介しよう。
時は天正18(1590)年の小田原征伐の頃。
既に関白となり、九州征伐を終えた秀吉。主君、織田信長の野望を引き継ぎ、彼もなしえなかった天下掌握をほぼ成し遂げたというところだろうか。残るは、一向に上洛に応じない小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政(うじまさ)、氏直(うじなお)父子。そこで、徳川家康をはじめ、西国の大名らを動員し、小田原城のみならず関東の支城を包囲、攻撃したのである。世にいう小田原征伐だ。
この最中に事件は起きた。
具体的にどのような状況だったのかは不明だが。どうやら敵方が籠城している城の近くを通った際に、撃ってきた弾丸が頭をかすったというのである。秀吉はこれに非常に驚いたとか。
いや、まず、天下人になろうとする人が。あまりにも無防備だろう。
それに、さすがに頭をかすめれば、誰だって驚く。だって、人は当たれば死ぬ。天下取り寸前といえども、ビビるのは当たり前。いわば生理的反応なのだ。
だが、秀吉は違う。
あれ?
なんだか、雲行きが怪しいぞ。
先ほどの伊達政宗のような匂いが……しないでもないが。
このあと、秀吉は驚きの行動に出る。
それがコチラ。
それを無念に思い、一人で城のほうへ近くに寄り、鉄砲の激しいところでわざわざ小便をした。近臣が竹束をもってきて「もったいなきこと」といって矢面に立った。秀吉は「弾丸にあたるもあたらぬも運のひとつじゃ」といわれたということである。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
なんだろうな。
弾に驚く自分が無念だからと、わざわざ弾の来そうな場所に行くあたり。
そして、なぜかそこで小便をするあたり。
伊達政宗と似てないか?
たどる思考が同じというか、感覚が近いというか。
なんとなくだが、秀吉が何度も政宗を許した理由が分かる気がする。
結局、彼らは類友なのだ。
それにしても、はた迷惑なのは竹束を持って矢面に立つ近臣だろう。
仕事だとしても、あまりにも気の毒すぎる。
大事な主君なのだから仕方ない。それでも、家臣としては危険なコトはせず、どうか小田原征伐に集中してほしいと思うだろう。
そんな秀吉にも、もちろんニーチェ先生からの言葉を授けよう。
それがコチラ。
──人生について考えるのは暇なときだけにせよ
人生のことを考えてもよいが、それは休暇のときにすることだ。ふだんは仕事に専念しよう。自分がやらなければならないことに全力を尽くそう。解決すべき問題に取り組もう。それがこの現実をしっかりと生きることだから。
『生成の無垢』『ニーチェ自身に関して』
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著、白取春彦編訳 『超訳ニーチェの言葉 II』より一部抜粋)
最後に。
1人目の蒲生氏郷の逸話、その後日談に戻って終わりとしよう。
家宝の「佐々木の鐙」をもらい受けた細川忠興だが。
その後、彼は「佐々木の鐙」を蒲生氏郷に返そうとしたそうだ。
だが、氏郷は受け取らず。
困った忠興は、氏郷の死後、子の秀行に返したという。
結果的には、蒲生家に戻った家宝。氏郷も草葉の陰から喜んでいるに違いない。
それでは、本記事の締めくくりとして。
ニーチェ先生から最後の一言を授けよう。
今回は氏郷ではなく、氏郷を困らせた細川忠興に贈りたい。それがコチラ。
──満足が贅沢
今では享楽者とか快楽主義者という誤解された意味でのみ使われているエピキュリアンという言葉だが、その語源となった古代ギリシアの哲学者エピキュロスは、生きていく上での快楽を追求した。そしてたどりついた頂点が、満足という名の贅沢だった。『漂泊者とその影』
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著 白取春彦編訳 『超訳ニーチェの言葉』より一部抜粋)
参考文献
『もつとも分り易き常山紀談の解釈』 柴田隆著 日本出版社 1930年
『利休七哲・宗旦四天王』 村井康彦著 淡交社 1969年
『超訳ニーチェの言葉』 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著、白取春彦編訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2010年1月
『超訳ニーチェの言葉 II』 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ著、白取春彦編訳 ディスカヴァー・トゥエンティワン 2012年8月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月
『人生を変える哲学者の言葉123』アバタロー著 きずな出版 2023年4月