常夏の楽園・ハワイ。誰でも気軽に楽しめるリゾート地として老若男女を問わず大人気ですよね。思い返せば僕の両親も新婚旅行はハワイでしたし、僕自身も友人や親戚の結婚式に出席するために渡航し、ワイキキビーチでのんびりしたりオプションツアーで島巡りを楽しんだりした思い出があります。
戦後日本人にとって非常に馴染み深い観光地となったハワイですが、意外なことに日本とハワイの交流が始まったのはほぼ明治維新と同タイミングの1868年。ハワイ政府の求めに応じて、日本から約150人の移民がハワイへと送られたのです。その後、ハワイがアメリカに併合された後も日本からの移民は1920年代まで続きましたが、1941年に太平洋戦争が勃発すると、真珠湾攻撃によってハワイは日米戦争の戦場にもなります。
このように、日本とハワイの間には、観光以外にも「移民」や「戦争」といった様々な切り口で交流の歴史がありました。本展「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」では、ハワイへの日本人移民150周年を記念して、日本からハワイへ移住した人々の歴史を解説パネルや当時の写真、資料を使って徹底解剖。ハワイの近現代史、日本・ハワイ交流史と合わせて展示し、日本人移民とその子孫たちがどのように激動の150年を生きてきたかを検証していきます。
それではもう少し詳しく展示を見ていきましょう!
企画展示「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」の6つの見どころ
展示では、ハワイ大学、スタンフォード大学など海外の歴史資料、国内の移民関係コレクションなど、ハワイ移民に関する多彩な資料を見ながら、「移民」や「戦争」といった、ハワイの意外な近現代史が明らかにされていきます。そこで、和樂Webでは見どころを6つピックアップ。順番に紹介していきたいと思います。
注目点1:ハワイへの移民は日本政府主導だった!「官約移民」のはじまり
元年者の名簿 1871年 ハワイ州立文書館蔵/東京大学史料編纂所提供
日本人労働者が移民として最初にハワイに足を踏み入れたのは、明治改元とほぼ同時の1868年6月20日。約150人の一団は「元年者」と呼ばれ、明治政府の渡航許可を得ずにハワイへと上陸。その後、厳しい労働環境に耐えかねて希望者42名は帰国しましたが、ハワイに残留したり、さらなる新天地を求めてアメリカ本土へと転航した人々もいたそうです。展示では、まず日本からの最初のハワイ移民についてクローズアップしています。
大槻幸之助とロバート・アーウィンの約定書 1885年 JICA横浜 海外移住資料館蔵(大槻幸之助資料)
1871年、日本とハワイの間で正式に「日布修好通称条約」が締結されると、ハワイ王国は、サトウキビ・プランテーションで働くアジア人労働者として、日本政府に労働力の提供を要請。こうして、両政府公認のハワイへの集団労働移民である「官約移民」の送出が1885年から始まりました。展示では、この時に日本・ハワイ両政府の間で締結された約定書の原紙が登場。
日本語、英語両国語で書かれた約定書によると、渡航費用は不要であること、3年間の契約で労働することが定められ、労働時間は1ヶ月あたり26日間、1日の労働時間は耕地の場合10時間、砂糖製造所の場合12時間・・・等々、詳細な条件が書かれています。しかしそれにしても今だったらブラック企業として大問題になるレベルの過酷さですね・・・。
注目点2:ハワイ王国滅亡後、アメリカによる併合が日系移民に与えた影響とは?
ハワイ併合時のイオラニ宮殿 1898年8月12日 ハワイ州立文書館蔵
日本が殖産興業・富国強兵を目指して国力をつけていく一方で、カメハメハ一世の建国以来続いていたハワイの王政は1894年に崩壊し共和制へ移行。ついで1898年にハワイはアメリカ合衆国に編入されることになりました。それまでに日本から渡航した「官約移民」は延べ約3万人に達したといいます。
アメリカによるハワイ併合後、1900年からアメリカ合衆国の法律がハワイにも適用された結果、それまでの「官約移民」は非合法化され廃止となります。しかし、移住者個人の意思によって移住する形を取る「自由移民」によって、日本からのハワイへの移民は継続。ハワイには日系人社会が形成されるなど、日本人・日系人の存在感が高まっていく一方で、アメリカにおける排日運動の背景にもなっていきました。展示では、ハワイにおける政治体制の変化などに焦点を当てた、当時の貴重な写真や資料を観ることができます。
注目点3:日本人・日系人はどうやって生計を立てていたの?
ところで、ハワイに渡った日本人・日系人の移民たちはどのような手段で生活の糧を得ていたのでしょうか?
サトウキビ・プランテーションでの契約労働を終えた後、ハワイ定住を選んだ日本人は、1890年頃から次第にホノルル市をはじめとする都市部に移住し、日本人の集住地(日本人街)がダウンタウンの各地区に形成されていきます。日本人は、そこで当初理髪店、玉場(ビリヤード場)、薬屋などの業種を手掛け、経済的な成長を手に入れたその子孫たち(日系二世など)は、レストランやベーカリー、靴屋、宝石屋、家具屋といった様々な店を経営するようになりました。
モイリリマーケット(モイリリ地区) 1938年6月18日 Hawaii Times Photo Archives Foundation提供
また、20世紀に入るとハワイ島の「コナ」を中心とするコーヒーの産地では、多くの日本人移民やその子孫達による小規模なコーヒー農家がコーヒー農園をあいついで開墾。経営者としてハワイでのコーヒー生産を今日まで支えてきたのです。
展示では、こうしたハワイ移民たちの都市や農村での当時の日常生活がよくわかる写真や資料が多数登場。コーヒー農園で当時農家が使用していた手廻しの焙煎機などもハワイから取り寄せて展示する力の入り方は凄いの一言。このセクションは特に必見です!
注目点4:戦前の日本人の移民社会を資料で振り返る
ワイアケア日本語小学校 1903〜04年頃 JICA横浜 海外移住資料館蔵(大槻幸之助資料)
日本人社会が現地に形成されると、現地で必要となるのはその子孫たちの教育ですよね。そこで、ハワイでも読書、習字、作文、修身など日本の小学校で開講されていた科目が日本語学校で教えられるようになりました。展覧会では、ハワイに開設された日本語学校の当時の写真や授業で使われていた教科書などの資料を展示。ハワイで独自開発された教材も見どころの一つです。
注目点5:太平洋戦争勃発!日本人・日系人に迫られた究極の選択とは
引用:Wikipediaより
ハワイへ移住した日本人・日系人社会に暗い影を落としたのが、1941年12月7日(現地時間)の真珠湾攻撃によって始まった太平洋戦争でした。アメリカと日本が戦争状態に入ったため、ハワイは戒厳令下に置かれ、厳しい軍政が敷かれます。そうなると、非常に困った立場に置かれるのが日本人や日系人たちであることは火を見るより明らかですよね。
当然、彼らは敵性外国人として差別的扱いを受けたり、拘束・抑留されることもありました。日本人としてのアイデンティティを残しながらも、否応なくアメリカ人として戦時を生きることを求められた当時の人々の複雑な心情や立場を様々な資料を通して見ていくことで、「移民にとって国家とはなにか」「人々にとって戦争とはなにか」を否応なく考えさせられますね。
注目点6:現代の観光スポットでめぐるハワイ歴史の旅はいかが?
マキキ聖城キリスト教会(オアフ島ホノルル)2018年11月 原山浩介撮影
展覧会では、こうして日本人移民を軸として約150年の日本-ハワイの関わりを見ていきますが、エピローグとなる展示ラストは歴博ならではの好展示。「ハワイ旅行」に行った際、ハワイの近現代史や日本人移民の歴史を学べる歴史観光スポットを写真パネルなどで一括紹介。観光ガイドに掲載されているような有名スポットはもちろん、ホノルル空港の中など、意外なところにある記念碑や展示など歴博ならではのオススメ見学スポットも紹介されています。展示をきっかけに、ハワイ現地でのフィールドワークを行うとより立体的に本展のテーマが理解できそうですね。
日本-ハワイの交流史からディープなハワイを再発見できるシブい企画展!
日本人移民の150年を掘り下げてハワイを特集した本展を通して、ハワイには、戦後に庶民あこがれのリゾート地として栄えた「観光地」としての顔だけでなく、多文化が衝突する中で発生する「戦争」や「移民」問題を抱える移民国家としての顔も持っていたことが明らかになります。労働者として海を渡り、新天地でゼロから居場所を開拓して社会を作り上げてきた日本人移民の歴史を通じて、より深くハワイを知ることができる好展示です。国内・海外から幅広く一級資料が集められた歴博ならではの丁寧に歴史を掘り下げた企画展示、ぜひ味わってみてくださいね。
展覧会基本情報
展覧会名:企画展示「ハワイ:日本人移民の150年と憧れの島のなりたち」
会場:国立歴史民俗博物館 企画展示室A・B(〒285-8502 千葉県佐倉市城内町117)
会期:2019年10月29日(火)~12月26日(木)
公式HP:https://www.rekihaku.ac.jp