意外にも、サッカーの起源は「蹴鞠(けまり)」だそうです。
その論拠となったのは、古代中国の歴史家であった司馬遷が著した『史記』。その中で、春秋戦国時代に斉という国の首府・臨淄(りんし)で、蹴鞠が行われたとの記述があり、今のサッカーに近い競技ではなかったかとされています。
この蹴鞠が行われたのは、紀元前300年頃とはるか昔。2004年、国際サッカー連盟(FIFA)は、臨淄をサッカー発祥の地と認定しました。
日本の蹴鞠も、中国から伝来したものです。ということは、日本では古くから蹴鞠というサッカーが行われてきたことになります。
こう言われると、蹴鞠がぐっと身近で興味深い存在に思えてくるから不思議。今回は、日本の蹴鞠について、ざっくりしたあらましをお伝えしましょう。
蹴鞠大会での出合いがきっかけでクーデター成功
7世紀半ば、飛鳥の法興寺で貴人を交えての蹴鞠大会が開かれました。
競技に熱中するあまり、参加者の1人である中大兄皇子の履いていた沓(くつ)がすっぽり脱げ、飛んでいきました。
それを拾ったのが、当代きっての秀才官人・中臣鎌足です。
この出来事をきっかけに、二人はやがて意気投合し、当時専横を極めていた蘇我氏を打倒します。これが大化の改新です。
蹴鞠大会が、クーデター実行の最初のきっかけとなったわけですが、この時の蹴鞠は、実際はポロのような球技ではないかともいわれます。
平安時代には今に伝わる蹴鞠が確立
今に伝わる蹴鞠が、いつ中国から伝来したかはわかっていません。ですが、平安時代中頃には、殿上人クラスの役人らが蹴鞠の会を催していたことが文献から確認できます。
例えば、『西宮記』には、905年に内裏の仁寿殿(じんじゅでん)で蹴鞠の会が開催され、「鞠を206回、蹴り上げて落ちなかった」との記述があります。
このことから、当時の蹴鞠は、サッカーのように地面で砂ぼこりを立てながら蹴り合うタイプの球技でなく、上に蹴り上げながら相手に渡すのを繰り返すものだとわかります。サッカーのリフティングを多人数で行う感じでしょうか。でも、ルールはそれとは結構異なります。
蹴鞠の基本ルール
蹴鞠は、8人(狭い場所では6人)で行う球技です。競技場は「鞠庭」とか「鞠場」などと呼ばれ、時代によって変遷はありましたが、一辺が約13メートルの平坦な砂の撒かれた地面です。そこの四隅の近い場所にそれぞれ、桜、柳、楓、松の木を1本ずつ植えておきます。これを式木(しきぼく)といいます。
もともと式木は、鞠が遠くへ飛んでしまうのを防ぐ目的で、何本も植えられたらしいのですが、平安時代後期から4本だけになったのはなぜでしょうか?
こんな話が伝わっています。蹴鞠の達人として名を馳せた藤原成通は、千日におよぶ厳しい蹴鞠修行を終えた日の夜、夢枕に「鞠の精」が出現。鞠の精が言うには、普段は林の木に住んでいるが、蹴鞠があるときは式木を伝って鞠に移り、蹴鞠が続くのを手助けするとのこと。以来、鞠の精が来やすいよう各方角に式木が植えられたとされます。
さて、蹴鞠の基本的なルールですが、最初に「小鞠(こまり)」が行われます。これは、8人の各プレイヤー(鞠足)が、数回蹴って鞠のクセをつかむというもの。しかる後、最初に小鞠をした鞠足が蹴り上げてスタート。鞠庭の中で、八角形になるよう程良い距離に散った鞠足たちは、最初のうちは決まりにしたがい、定められた相手に蹴り上げますが、それが一巡すると好きな相手に蹴っていきます。
競技といっても、勝ち負けにこだわらない、できるだけ長く蹴り続けることを旨とするものなので、いかにも貴族好みなゆるい遊びに思われるかもしれません。
ですが、「誰にでもできそう」と思ったら大間違いで、自分は例年1月初旬に開催される下鴨神社の蹴鞠始めを観覧したのですが、鞠のリレーが続くのはせいぜい数球。なにしろ、およそスポーツには不向きな鞠装束・烏帽子姿で動き回るのにくわえ、蹴るにも作法(後述)があるのです。そのため、平安時代の貴族と違って、毎日練習はできない21世紀の鞠足たちは、かなり大変だったように見受けられました。
蹴るにも幾多の作法がある
平安時代から鎌倉時代にかけて、蹴鞠のルールは洗練・複雑化し、鞠の蹴り方にも多くのルールが設けられました。
例えば、フォームの点でいえば「右脚で蹴る」、「膝を曲げずに蹴る」、「上半身は動かさない」など。
「鞠庭に背を向ける」のもNGです。ならば、鞠庭の外へ行ってしまった鞠はどうすればいいのでしょうか? この場合は、転がる鞠を追い越してしかる後、鞠庭に向き直って蹴るが正しい作法。鞠が転がるスピードを考えれば不可能に近く、一時的に鞠庭に背を向けて鞠を蹴り上げ、即座に向きを変えて、二足目に鞠庭に向かって蹴るという例外が認められました(これも相当な難易度に思えますが)。
さらに、精神的な心得もあり、その中でも難しいのが「のどかに蹴る」。難しい鞠が飛んできても、顔には出さず、のどかに蹴っているように見せなくてはなりません。なおかつ、観客が退屈しないよう、面白く蹴るようにとも。また、不機嫌な顔を見せるのは禁止されています。ここまでいろいろな約束事があると、貴族階級の優雅な遊びとはとても言えません。
鞠の守護神が祀られる神社
平安期に本格的にプレイされるようになった蹴鞠は、続く鎌倉時代、室町時代にかけて、貴賤を問わず流行しました。
しかし、戦国時代に入ると人気は陰りはじめ、茶道や華道のように鞠道(きくどう)として様式化します。江戸時代に入って、京都の一部地域で庶民の娯楽として栄えましたが、明治時代になって日本の伝統文化が顧みられなくなると、蹴鞠人口も激減。今は京都の一部神社が、正月などに蹴鞠の会を開催し、その時は大勢の観客でいっときのにぎわいを見せます。
その神社の1つが、蹴鞠の公卿宗家であった飛鳥井家の邸宅跡に創建された白峯神宮です。鞠の守護神として精大明神が祀られ、蹴鞠保存会が設立百周年記念に建立した「蹴鞠碑」があります。例年、4月と7月には蹴鞠奉納がなされ、盛大に蹴鞠が行われます。
白峯神宮のもう1つの顔は、スポーツ全般の守護神が鎮座する場であることです。サッカーをはじめとする多くの球技のチーム・選手らの崇敬を受け、日本サッカー協会など各種球技において、使用された公式球が奉納されています。
行ってみると、ここ20年余りの間に開催されたサッカーワールドカップで日本代表が使用した公式球など、数々のボールが奉納されているのが目に入りました。
この地に立つと、古代中国で発祥したサッカーの元祖、蹴鞠は、現代は別の形で多くの人に愛され続けるスポーツとして、そのスピリッツは息づいていると思わずにはいられません。
未来へ続く歴史の流れは、今大流行のサッカーをも廃れさせるかもしれません。しかし、球体を見ると蹴って遊びたくなる、われわれの本能(?)があるかぎり、有史以来続く蹴鞠の伝統は、決して滅びることはないでしょう。
参考・引用図書
『日本の蹴鞠』(池修著/光村推古書院)
『中世蹴鞠史の研究―鞠会を中心に』(稲垣弘明/思文閣出版)