和樂web編集長セバスチャン高木が、日本文化の楽しみをシェアするためのヒントを探るべく、さまざまな分野のイノベーターのもとを訪ねる対談企画。第1回は、茶葉ブランド「EN TEA」主宰の丸若 裕俊さんです。
ゲスト:丸若 裕俊(まるわか ひろとし)
1979年、東京生まれ。アパレル勤務などを経て、2010年に株式会社丸若屋を設立。2016年に茶葉ブランド「EN TEA」を立ち上げ、2017年4月、東京・渋谷にカフェ「GEN GEN AN」をオープン。
お茶も雑誌も届かなかったら意味がない
高いきなり僕の悩み相談からなんですけど、今の時代は誰でも情報発信できるから、出版社じゃなくても、一定レベル以上のコンテンツをつくれるじゃないですか。Webメディアも山ほどある。じゃあ、僕らはどうやって競合と差別化をしていくべきか、ずっと悩んでます。茶葉ブランドとして、EN TEAはどんな点で他と差別化していますか?
丸EN TEAのオリジナリティは何かというと、まずは圧倒的な品質の高さ。お客さんは非常に敏感ですから味の追求を第一にしていますね。そこにきっかけとなる意外性を加えています。意外性がないと、僕たちのお茶は本当に飲んでもらいたい人へ届かないんです。
高それは雑誌も同じですね。いくら良いものをつくっても、手にとるきっかけがなくて読まれなかったら意味がない。
高今、丸若さんはEN TEAの活動を通じてお茶の世界の入り口をつくられていますが、僕が出会った頃の丸若さんは、お茶の世界ではなく工芸の世界にいましたよね?
丸はい。2010年から伝統工芸を再構成して新しいプロダクトを生み出す「丸若屋」として工芸の世界で活動しているんですが、市場とか価格をあまり気にせず良いものをつくれば評価されるみたいな発想の時期もありました。
高印伝のiPhoneケースとか九谷焼の髑髏の菓子壷とか、ずいぶん尖ったものをプロデュースされていましたよね。
丸想いが強すぎたのかな、当時は。とにかくつくりたいものをつくっていました。今も丸若屋は続けているんですが、軸足はすっかりEN TEAですね。
最強のオリジナリティは人そのもの
高丸若さんは、なぜ工芸の世界からお茶の世界へ?
丸きっかけは、松尾さんとの出会いですね。当時、僕は工芸の領域だけでできることに限界を感じていました。例えば、どんなに美しい急須をつくっても、お茶を淹れなければただの鑑賞物でしかない。ある分野に大きな変化を起こそうと企んでも、一次産業から手がけないと行動を起こせない。そんなモヤモヤを抱えていたとき、松尾さんと出会ったんです。
丸彼はお茶づくりの可能性を広げる活動に注力すべく、実家の茶畑から独立したところでした。話を重ねていくうちに、ふたりで協力してお茶の一次産業から六次産業を一貫してプロデュースしたら、新しい世界を切り拓けると、確信が持てるようになったんです。
高なるほど、それで茶葉ブランドを立ち上げることに。
丸そうなんです。彼のすごさは、みんなが避けるような「人の手がかかる作業」をちゃんと大切にしているところなんです。大きな茶畑では当たり前のように使われている肥料や機械を使わないですし、だからといって完全に野生の力に頼るわけでもない。手間暇を惜しまず、味を追求しています。
丸茶葉って、同じ品種や産地であっても、誰でも同じ味を再現できるものじゃないんですね。だからこそ、松尾さんの真似のできない技術や努力が、競合との本質的な差に繋がっているんです。
高品種や産地以前に、EN TEAのオリジナリティを決定づけているのは、松尾さんと言っても過言ではありませんね。
ペットボトルのお茶が教えてくれたこと
丸きっかけは松尾さんとの出会いでしたが、実は僕コーヒーが苦手で。飲むのはもっぱらペットボトルでしたけど、もともとお茶が好きだったんです。それもお茶の世界に入った理由のひとつにありました。
高僕もペットボトルのお茶を飲んでいるほうなんですけど、ペットボトルがなかったら、とっくにお茶の世界は終わっていましたよね。大衆にお茶を飲む文化が浸透しているのはペットボトルのおかげといって過言ではないし、 気楽に買えるお茶の功績は大きいなとつくづく感じています。ただ、その役割とは全く違うお茶も必要で、お茶の多様性に気づくきっかけを、丸若さんはつくろうとしているんじゃないかと推測しているのですが、いかがでしょう?
丸そうですね。均質的なペットボトルのお茶とは違った多様なお茶の味とか楽しみ方を伝えられたら。そのとき、ペットボトルのような分かりやすい比較対象があるのは、非常にありがたいことなんです。誰でも味の差に気づけるので、シンプルに僕たちのお茶を味わってもらうだけで感動してもらえますから。
丸あとは茶室で着物を身につけた状態だと、風味よりも先に文化が体にとりこまれてしまうので、できるだけ日常的な場所で飲んでもらうことも、大切な要素のひとつです。それが渋谷でこういうスタイルのお店をやっている理由でもあります。
入り口に必要なものは「分かりやすさ」
高丸若さんがEN TEAを始めるとき、シェイクする水出し茶を飲ませてもらいましたよね。その見た目も味も、とても衝撃的だったのを覚えています。人間の脳は分かりやすい体験を与えられると、脳全体が活性化されて多幸感を感じられる…と茶師の松尾さんに伺いました。まさにシェイクするアクションが、多幸感を与えてくれたんですよね。
丸ありがとうございます。これはEN TEAの象徴的なお茶のひとつなんですけど、シェイクして30秒で完成する水出し茶なんです。最近、こうやってシェイクするのを見た女性が「茶葉がかわいそう」っておっしゃっていたんですが、 攪拌(かくはん)して甘みを出すって原理は、抹茶と一緒なんですよ。
高お湯入れて攪拌する抹茶のほうが痛そうですけどね。それにしても、シェイクする水出し茶なんて、イノベーションですよ。これ見て思い出したんですけど、僕、今の時代はプロダクトもメディアの一部として機能させていかなくちゃいけないと思っているんです。
丸プロダクトもメディアの一部。おもしろいですね。
高オーディエンスに「これは自分のメディアだ!」「自分も参加できる!」と感じてもらえたら、一気にその世界に踏み込んでもらえるじゃないですか。そういうきっかけとなる装置が、プロダクトそのものなんじゃないかと。なので、この水出し茶のように分かりやすいアクションがあると、お茶の世界の入り口として機能しやすくなるんじゃないでしょうか。
丸ありがとうございます。おっしゃるとおり、お茶の世界の入り口としてこれは非常に優れた機能を果たしています。お客さんひとりずつにお茶の楽しみ方を話せたらいいんでしょうけど、ミッションがいかに多くの人の既存のお茶のイメージを変えるか?だとすると、シェイクする水出し茶にかなり救われています。もし急須でお茶を淹れるだけしか方法がなかったら、お茶のおいしさは伝わるけど、楽しみ方に関しては旧来のお茶のイメージにとどまっていたかもしれません。
高お茶に限らず、いろんな日本文化の入り口にこういった分かりやすいプロダクトがあったら、もっと多様な楽しみ方が伝わるんでしょうね。
常識だと言われても諦めない
丸お茶の世界の入り口をつくる一方で、もうちょっと広くお茶の世界を見渡して、問題解決することも考えています。例えば、これは放棄された茶畑からつくったお茶なんですが、いろんな可能性を秘めているお茶なんです。
丸放棄された畑の茶葉って、痛んだ髪の毛のような状態なんです。どんなに手をかけても緑茶はつくれないから、今まで誰も相手にしてきませんでした。それを僕たちが試行錯誤して加工してみると、全く新しいお茶が生まれた。緑茶とは全く違った味わいなんですけど、このままでも飲めるし、ハーブのベースティーにもなるって分かったんです。しかもこれ「製造特許」が出願受理されたんですね。つまり、お茶の歴史上つくりかたも成分も存在しなかったものなんです。
高エコな発想ですしハーブティーとしての可能性も拓けるなんて、今の時代にすごくマッチしたお茶ですよね。
丸ラーメンの世界って、時代や素材にインスパイアされた新しい商品が次々登場するじゃないですか?そういう可能性がお茶の世界にもたくさん眠っているんですよ。
さっきの水出し茶も同じような発想でつくっていて、もともと「水出し茶は3時間くらい置いておくもの」というのが業界の常識だったから、誰もそれを短くしようとしないし「それならペットボトルでいいじゃん」と言われてしまうものだったんです。それを僕たちはシェイクすることで時間を短縮する努力をしてみた。たぶんお茶に限らず、世界の内側にいる人たちのほうが、努力で市場の課題を解決できることに気づいていなかったり、大衆のニーズに応えることを諦めているのかもしれません。逆に、僕は農業や製造ができるわけじゃないから、新しい可能性を発掘することくらいしか努力できないんですけど。
高これからの時代、日本文化に必要とされるのは、丸若さんのような努力ができる人なんですよ、きっと。
道を外れたら居場所がみつかった
高日本文化って全般的に「こうあるべき論」が多いんですけど、お茶の世界は特に入り口が狭いんですよね。それがちょっともどかしくて、僕も和樂の特集で「茶の湯☆レボリューション」とか「茶の湯ROCK!!」とか、入り口を広げるための努力をしてみたんです。
丸お茶って、日本で1300年くらいの歴史がある古い飲み物ですし、昔はもっと土地ごとの楽しみ方、それぞれの時代の味わい方があって、多様性の象徴だったはずなんですけどね。
高そうそう。和樂をずっと編集してきて、感じていることのひとつが、日本文化の本質は多様性にあるってこと。そもそも日本ってサンマリノ共和国が300個あるみたいなカオス状態だったわけですよ。あまりに多様だったから、江戸から明治にかけて超画一的な教育を強いたわけですよね? もちろんその教育による良い面もあるんですが、弊害のひとつが均質的な思想じゃないかと。
丸本当はもっとテキトーな民族だったはずですよね。着物もそうじゃないですか? ある程度くずれてもOK、そういうゆるい発想じゃないと着れない服です。
高そうなんですよ。そういうおおらかな発想が、今の日本は欠けているというか。なので僕みたいな「こうあるべき論」から外れた人が、ちょっと生きづらいんですよね。僕、そういう意味でうらやましいんです、丸若さんが。お茶の世界に居場所をみつけたじゃないですか。
丸たしかに。今の自分にとって、お茶の世界は居場所ですね。
高外から見ていると、工芸の世界にいたときよりも楽しそうです。
丸工芸の世界でもアウェー感を楽しんでいましたけど、なんで今お茶の世界が居心地よいか…考えてみると、僕たちの活動は、茶道から離れているからなのかもしれません。
丸お茶の世界って、さっき高木さんがおっしゃっていたように、日本文化の中でもとりわけ入り口が狭いのですが、何の「道」も通らなければ、何をするにも対等な立場で、誰にも何も言われず挑戦できるんですよ。
高EN TEAは、既存の「道」とは全く違う場所を歩いていますもんね。
丸はい。そうなると全く新しいお茶を作ってもいいし、お茶をシェイクしちゃってもいいし、職人たちもガス抜きみたいなかんじで、新しい試みに協力的なんです。今はすごく自由な状態ですけど、ただひとつ気を使っているのは「僕たちのやりかたを誰にどう伝えるか」。この人に理解してもらえたら世界が変わるだろう、というキーマンはいるんですけど、その人たちには、僕らのお茶を飲んでもらわないといけない。体験してもらわないと信じてもらえないです。そのための努力は惜しみません。まあ、この努力もまた楽しい活動のひとつなんですけどね。
高結局、楽しそうなところにしか人って集まらないじゃないですか。今の丸若さんはすごく楽しそうにお茶の可能性とその楽しみ方を模索されていますよね。
和樂がやっていることって「日本文化の入り口をつくる活動」なんですけど、その活動を広げるためのヒントが、丸若さんのまわりにはたくさんあるなと改めて感じました。これからお茶を楽しむ時間を、和樂でも一緒につくっていけたら嬉しいです。
撮影/有吉晴花