「いかの塩辛は何百年も前からあるのに、たこの塩辛はない。なぜだろう」。始まりはいたって素朴な疑問でした。「生のたこといかは見た目も歯ざわりも似ているのに……」
似て非なる食材を前に首をひねっていたのは、生鮮水産加工食品を手がける、あづまフーズ(三重県菰野町)会長の宅間昭雅(たくま あきまさ)さん。今から30年ほど前、居酒屋向けの新商品開発を模索していた専務時代の出来事です。
この職業的な疑問はやがて、たことわさびを和(あ)えた居酒屋の人気メニュー「たこわさび(たこわさ)」の登場を促します。たこわさは大手居酒屋チェーンが正式メニューとして採用したことをきっかけに、たちまち全国の居酒屋に広まりました。
たこわさのような商品は一般的に珍味と呼ばれます。主に水産物を原料とし、味付けしてそのまま食べられる食品です。今や居酒屋の定番メニューに数えられるたこわさですが、その歴史は古来の国内三大珍味(このわた・からすみ・粒うに)には及びません。
今回は新旧の珍味のうち「たこわさ」と「このわた」にまつわる逸話をご紹介しましょう。
放置プレーで深まった味わい
口に入れたときの感じも色もよく似ている。だから、いかの塩辛に代わる、たこの新商品ができるはずだとにらんだ宅間さんは、さまざまな試作に挑みました。
まず、中国料理で使う調味料、豆板醤(とうばんじゃん)を和えた商品を売り出しました。しかし、思うように売れません。なぜか。いかは白いので、赤い豆板醤と合わせると鮮やかな色になり、見るからに食欲をそそります。ところが、たこはグレーなので見た目がよくありません。従って、売れ行きが振るわない。
売れないまま4カ月が過ぎ、そろそろ在庫を処分しようかと考え、試しに一口つまんでみると、初めのころよりおいしくなっていました。放置していた4カ月の間に熟成が進み、味が深まっていたのです。
とはいえ、色合いは悪いままです。宅間さんは、豆板醤の代わりに彩(いろど)りのよい緑色のわさびを組み合わせようと考えました。ところが、どれくらいのわさびを入れたらよいのかという加減が分かりません。
あまりの刺激で罰ゲームアイテムに
このため、初めのころはとりあえず、できるだけたくさんのわさびを加えてみました。あまりに刺激が強いので、社内の罰ゲームアイテムとして使われたこともあるのだとか。
こうして、最もおいしいわさびの量が決まるまでに半年間を要しました。何度も試作を繰り返したたこわさは、新製品展示会で大手居酒屋チェーンの社長の目にとまり、全国デビューを果たします。
同社は国内ばかりでなく、米国やカナダ、中国にも生産工場を展開しています。特に中国では生産だけでなく、現地販売にも力を入れています。
同社は現地での売り上げを伸ばすため「日本向けと同じ製品ではなく、中国人が好む香辛料を加える工夫も大切。受け入れられるために、現地の人が喜ぶものを揃えること」を心がけています。
宅間さんは「珍味は、その名の通り、珍しい味でなければなりません。ですから社内ではいつも、ありふれたものは決して作るなと注意しています。この気持ちを忘れず、たこわさに負けない代表製品を作りたいと思います」と自信を覗かせます。
日本の三大珍味とは
すでに触れたように、珍味は主に水産物を独自の風味を生かして加工したもの。貯蔵性もあり、そのまま食べられる食品です。一般的には、燻製(くんせい)や塩辛、さきいか、のしいかなどを思い浮かべがちですが、魚の漬物や小魚の揚げ物、せんべい、あられなども仲間です。
数ある珍味の中でも日本の三大珍味と呼ばれる「このわた・からすみ・粒うに」はそれぞれの材料と塩だけでできています。手間ばかりでなく、少しずつしかできないため、どうしても高価になりがち。文字通り、日本の食文化を伝えるために珍重されています。
このわた
それ自体が珍味である「なまこ」の腸が原材料。水洗いして砂を抜いたなまこの腸を20~30%の食塩水に漬けて作ります。長い腸でべっこう色のものが良品とされており、特に冬場に作ったものが上等とされる日本特有の珍味です。愛知県、福井県、岡山県産が有名。腸ばかりではなく、卵巣を塩漬けにした「このこ」と、これを用いた「ばちこ」も珍味として重宝されています(別項で詳述)。
からすみ
「ぼら」の卵巣を乾燥させたものです。塩に漬けて、20~40日くらい天日で干します。脂肪の多い濃厚な味で、未成熟な卵巣で作ったもののほうが上等とされており、長崎県や高知県産が有名です。価格は1キロあたり約5万~10万円します。あまりにも高価で、なかなか流通しにくく、多くの人の口に届かないのが難点。このため、もっと手軽に味わえるように、他の魚の卵や卵黄などを用いたものもあります。
粒うに
材料と製品の名前が同じなのはこの珍味だけ。夏に獲れた「うに」を塩に漬けて作ります。良質なエゾバフンウニの宝庫である北海道の礼文島、福井県、山口県下関市、佐賀県の呼子などで作られています。お寿司屋さんのネタケースで見かける、浅い箱に整然と敷き詰められたうにとは一線を画する、野趣に富んだ味わいが特徴。獲れる場所や環境の違い(うにが食べているものや海水温)によって、香りや味も異なります。
中部地方の代表的珍味、このわた
「日本の三大珍味」の中でも、このわたは中部地方と最も関わりの深い珍味です。このわたの原料はなまこです。全国各地の海岸で獲れますが、特に有名なのは愛知県の三河湾もの。水成岩で構成される内湾の環境が、なまこの成育に適しているからです。
古い記録によると、網にかかって腹の割けたなまこの腸を瓶に入れていたのをすっかり忘れていた漁師、山本八右衛門が3日ほど経って口にすると、これまでに味わったことのない珍味になっていたのだとか。
この噂は瞬く間に広まり、三河湾一帯の他の漁師も競ってなまこ漁に精を出すようになりました。このわたの評判は知多四国巡り34番札所である真言宗 豊山派 宝珠山 性慶院(しょうけいいん)を通じて徳川幕府にもたらされます。徳川将軍御用達食品に指定された三河湾のこのわたは「島わた」と呼ばれ、珍重されました。
黄金並みに扱われた、献上このわた
「島わた」は献上品として江戸に向かう船に乗せられても、決して下におろされることなく、担がれていました。まさに黄金並みの扱いです。「献上このわた」は将軍家に年2回、京都御所に年1回運ぶ定めになっていて、この習慣は明治の初めまで続きました。
今日でこそ「このわた」という名前が定着していますが、献上されるまでは決まった名前がありませんでした。初めての献上の折り、将軍から名前を聞かれた同行者は「この腸(わた)は、このわたは……」とつぶやきました。適当な名前が浮かばないので、なんとかその場を取り繕(つくろ)おうとしたのです。
しかし、それを聞いた将軍は「そうか、このわたと申すか」と納得し、以来、なまこの腸、すなわち「海鼠(なまこ)」の「腸」を海鼠腸と書いて「このわた」と読ませるようになりました。
5キロのなまこから、わずか100グラム
このわたの製造工程で重要なのは、なまこの腸を取り出す「なまこ引き」です。なまこの腹部をナイフで割き、長さ1メートルもある腸を取り出します。
なまこは海底の微生物を捕食する時に砂を飲み込むので、腸の中には砂がいっぱい詰まっています。この砂を吐かせるために、なまこを一昼夜、生簀(いけす)に入れてから作業にかかります。
5キロのなまこからは、わずか100グラムのこのわたしか取れません。しかも、鮮度が勝負の商品ですから、どうしても高価になってしまいます。近年なまこの水揚げが激減していることも、高値に拍車をかけている理由のひとつです。
高価であるばかりでなく、若い人の味覚にもなじみにくいことから、このわたが遠からず「幻の珍味」になってしまうと心配する向きもあります。