卓上で調理しながら食べる鍋料理は、立派な日本の食文化。その土地に歴史があり、風土に根ざす食材があり、それを慈しむ人の手があって長く続けられてきたもの。ここでご紹介するのは偉大な文豪たちの愛した鍋です。作家の舌を唸らせた鍋がこんなにも贅沢で多彩だったとは驚き! 長い歴史をもつ名店の名店たる理由も鍋の中には隠れていました。
末げんの「わ」鍋
最後の晩餐に二度も訪れたのは家族で親しんだ心の故郷
末げんは、文明開化花盛りの明治42(1909)年に創業。高級食材である鶏料理の名店として、初代文民宰相の原敬や歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎など、著名人が贔屓にしました。とりわけ印象的なのは、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと最後の晩餐をした逸話です。実はその直前にも家族と来店し、「『わ』鍋のコースを堪能されました」と、3代目店主・丸哲夫さん。戦後、詰め襟姿の学習院時代から家族ぐるみの常連で、長じて有名作家となってからも、妻子と足を運んだとのこと。長年親しんだ味への特別な想いがうかがえます。
三島由紀夫を幼少から育んだ味!
地養鶏のむね、もも、砂肝、レバー、ハツと特製挽き肉のつくねがつまった素朴ながら贅沢な味。鶏はよく火を通してから、醬油またはぽん酢でいただく。オーダーはコースのみ、写真は2人前。
そんな三島氏の心を捉えた「わ」鍋は、特製の鶏ガラスープをベースに、鶏と合鴨、江戸ねぎや肉厚のしいたけなどを大根おろしでいただく、昔ながらの素朴な味わいが特徴です。特筆すべきは3種の鶏によるこだわりの挽き肉。 「埼玉の合鴨、歯ごたえと濃厚な風味の肉質で知られる奥久慈の軍鶏、千葉の地養鶏を練ったもので、これが独特の旨みをかもします」。飽きのこない薄味のスープで最後までのどごしよく食べられて、腹からしゃんと力が湧いてきます。
♦︎末げん(すえげん)
住所 東京都港区新橋2-15-7 エスプラザビル1F
公式サイト
大市の「◯鍋」
店専用に飼育されたイキのいいすっぽんを心ゆくまで召し上がれ
秋が深まるころから京都の鍋といえば、すっぽん鍋(通称◯鍋)。なかでも別格として知られるのがここ「大市」です。「元禄年間から創業当時の館が残る」「年間を通して◯鍋ひと筋」「新撰組も訪れた」など人の心を惹きつける物語が多数あるのに加えて、志賀直哉、芥川龍之介、川端康成といった文豪たちが通った時代は、店のそばの千本通が京都のメインストリート。花街・上七軒も近く、よく食べ・遊ぶ作家たちにとってこの店は天国だったのかも?
志賀も芥川も夢中になった?! 自慢のスープ
先付、鍋、雑炊、香物、水物のコース。鍋は2回にわけて供され、部位の異なる計5切のすっぽんをひとり分味わえる。スープと燗酒を同率で割った「スープ酒」は常連客が必ず頼むという裏メニュー。写真は2人前。
300年以上にわたって支持されてきた鍋の味を守るのは18代目店主・青山佳生さん。すっぽんのだしと身の入った鍋をコークスで1600度を超えるまでひと息で炊き上げる調理法が、現在はベストだとか。「ゆっくり旨みを引き出すとスープの味は増すけど、すっぽんの中身はスカスカになる。高温で炊き上げることですっぽんの旨みを閉じ込めます」。そのため、新しい鍋を使う場合は醬油と酒を1ヶ月沸かしてから用いるといった工夫も。煮えばなのスープの芳醇な香り! このひと口から夢のコースが始まります。
♦︎大市(だいいち)
住所 京都府京都市上京区下長者町通千本西入六番町
公式サイト