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2019.09.12

やっぱり「とらや」でしょ!500年の歴史を調べてみたら伝説がありすぎた!

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創業 室町時代後期『とらや』

今をさかのぼること約500年前、室町時代の後期に京都の地で創業した和菓子の老舗が「とらや」です。

16世紀の終わりごろには、禁裏御用菓子屋として既に御所御用を勤める存在となり、以来、歴代天皇や皇族をはじめとして、徳川将軍家や歴史上に名を刻むあまたの文人たちに愛され、和菓子界のトップブランドであり続けています。

とらや1 DMA-_EDC2298-Z「とらや」を代表する和菓子が羊羹。中でも、切り口の表面に小豆の粒が顔を覗かせる『夜の梅』は、長い歴史の中で数多の著名人たちを唸らせてきた名品中の名品。

和菓子界最強のエスタブリッシュメント「とらや」が不動の名店である理由

「とらや」は永きにわたり、和菓子の最高級ブランドとしてあり続けています。それは、和菓子を通じて常に時代の先端を行く文化の担い手として存在していたからにほかなりません。

「とらや」が、そんなトップブランドとしてあり続けていることを証明するのが、あまたの著名人たちに愛されてきたことを物語る数々のエピソードです。時の権力者はいうに及ばず、財閥や実業家、作家や俳優など、時代を彩った文化人たちとの逸話の数々は、それこそ枚挙にいとまがないほどです。

とらや1 DMA-大正14年正月店頭風景写真/大正14年正月の店頭風景

江戸時代にその名を高め、「綺麗(きれい)さび」と呼ばれた遠州(えんしゅう)流は、小堀遠州が三代将軍家光(いえみつ)の茶道指南役となったことから武家社会に浸透した流派です。

遠州流の中でも多くの書物を著したことで知られる遠藤元閑(げんかん)の著書『茶湯評林(ちゃのゆひょうりん)』には、茶の湯に関わる店の紹介の中で菓子屋については「虎屋近江」のみが記されていることから、当時の高名な茶人たちの間で「とらや」が高い評価を得ていたことがうかがえます。

また、黄門様として知られる水戸光圀は、東南アジアの珍しい柑橘類を栽培したり、蕎麦やうどんは自ら麺を打つなどしたほか、日本で初めてラーメンを食したともいわれるなど、大変な食通として知られています。そんな黄門様も「とらや」の菓子が大変な好みだったようで、貞享5(1688)年に霊元上皇(れいげんじょうこう)が能を催した際には、「とらや」を通じて大饅頭100個を献上したという記録が残っています。

とらや4 DMA-虎屋の看板 左甚五郎江戸時代の虎屋の看板。虎、饅頭、羊羹などの意匠がかたどられている。

このころ、江戸時代を代表する芸術家のひとりとしてあの尾形光琳(おがたこうりん)が活躍していますが、彼も「とらや」の菓子を注文していたひとりでした。宝永7(1710)年の記録には、光琳のパトロンだった中村内蔵助(くらのすけ)に『友千鳥』や『花かいどう』、『千代見草』といった風情のある意匠の菓子を贈った記録があり、光琳の美意識を伝えるひとつの手段として「とらや」の菓子が機能していたことを物語ります。

元勲や財閥に愛され、やがて広く一般へ

明治になると時代の変遷によって顧客の層も多様化していくことになるのですが、こうした中で「とらや」の菓子を重宝したのが、伊藤博文や大隈重信(おおくましげのぶ)、山懸有朋(やまがたありとも)といった明治の元勲(げんくん)や政治家であり、当時の日本の経済界をリードした三井家、岩崎家、渋沢家などの旧財閥グループなどでした。

近代化を推し進めた彼らが顧客となったこともあってか、それまでは見られなかったレモン水入りの『水仙粽(すいせんちまき)』やバナナ形をした生菓子など、斬新な菓子も登場します。その中のひとつに、ゴルフ最中『ホールインワン』があるのですが、これは旧三菱財閥四代目岩崎小弥太夫人のアイディアによって誕生した、まったく新しいスタイルの最中であり、現在でも高い人気を誇る「とらや」の名品に数えられています。

このように「とらや」は、5世紀の永きにわたって常に時代の中心にいる人々と交流を図りながら、和菓子と日本の文化を支え続け、現在においても不動の名店の地位を確保しているのです。

とらや4 DMA-明治42年御用場の風景明治42(1909)年の御用場(工場)の様子。当時の店舗に工場が併設されており、場所は現在の東京工場がある元赤坂1丁目だった。

そもそも、なぜ「とらや」は日本随一の和菓子屋に なったのでしょう

「とらや」の歴史をたどることは、すなわち和菓子の歴史を探ること。それほどまでに「とらや」と和菓子の歴史は直結しています。

室町創業と言われる「とらや」ですが、その創業年は定かではありません。しかし、室町時代の後期には京都で創業していただろうと考えられています。

それは、後陽成(ごようぜい)天皇の在位中(1586〜1611年)から、御所に菓子を納める御用を勤めていたという、元禄14(1701)年時点での記録文書からも推察できます。

当時、京都の街で御所の御用を勤めるには、質の高い商品を2代、3代と代を重ねて納入できる社会的評価のある商家だったと考えられるからです。

また、京都妙心寺の歴史を記した「正法山誌(しょうぼうさんし)」によれば、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦の際に、西軍の犬山城主・石河備前守を「とらや」がかくまったとの記録もあり、このころ既に現在に続く屋号を名乗っていたと考えられます。ちなみに、当時の店主は黒川円仲(えんちゅう)で、この人物を中興の祖としているため、現当主はそこから数えて17代目に当たります。

皇族や将軍家と歩んだとらやの歴史

江戸時代初期、「とらや」は御所に次のような菓子を納入していたことが、現存する最古の御用記録『院御所様行幸之御菓子通(いんのごしょさまぎようこうのおかしかよい)』からうかがい知れます。
 
これは寛永12(1635)年、明正(めいしょう)天皇が後水尾(ごみずのお)上皇の御所 へ、多くの公家とともに行幸し、5日間にわたる宴を催した際に納めた菓子の記録として残っているものですが、そこには、大饅頭2500個、薄皮饅頭1475個、羊羹538棹、カステラ66斤、カルメラ10斤……昆布14本などとおびただしい種類と量が書かれています。

ここで興味深いのが、昆布が菓子として扱われていたこと。さらには饅頭や羊羹などに混じって、当時ポルトガルを通じて日本にもたらされたと考えられるカルメラやカステラなどの、南蛮菓子と呼ばれるものがお目見えしていることです。この時代が、和菓子の大成期と言われる元禄時代に先立つこと半世紀前で、まだ素朴な菓子が中心だったことが見て取れます。

「とらや」でも、元禄時代になると菓子の意匠を描いた菓子見本帳『御菓子之畫圖(おかしのえず)』がお目見え。京都の公家や僧侶、また武家や上層町衆たちの間で文化サロンが形成されたこととも相まって、菓子を味覚や触覚、嗅覚ばかりではなく、意匠そのものを視覚でも味わい、『源氏物語』や『古今和歌集』に登場する和歌にちなんだ菓銘を聴覚で楽しむという、現代に連綿と続く和菓子文化が大成したと考えられています。

とらや4 DMA-江戸時代の絵図帳写真/とらやで用いられた江戸時代の絵図帳。

そんな江戸時代には、公家や御所の御用ばかりではなく、江戸幕府五代将軍綱吉や、八代将軍吉宗に菓子を贈ったという記録も残されていることから、「とらや」が時の権力者たちにもふさわしい菓子屋だったことがわかります。

生類憐れみの令で知られる綱吉の治世中には、金平糖や飴など日保ちのする干菓子が江戸城本丸に贈られたと、元禄10(1697)年の『諸方御用之留(しょかたごようのとめ)』に記されており、また吉宗の時代にも、寛保2(1742)年の『諸方御誂物寸法帳(しょかたおんあつらえものすんぽうちょう)』によれば「水の葉」「吉野川」と銘打たれた干菓子などが、三重の桐箱に詰められて江戸に運ばれたことがわかっています。

このように、天皇をはじめとする朝廷や、権力の頂点に君臨した江戸幕府の将軍にも重宝されていた「とらや」は、常に時代のトップランナーとして走り続け、また日本随一の和菓子屋として存在し続けたのです。

とらや4 DMA-昭和7年表町店写真/明治になって東京に店を設けた「とらや」は、昭和7(1932)年に青山通り沿いの表町(現在の豊川稲荷の境内)へと移転する。

やがて、明治維新を契機として京都から東京へと遷都が行われ、天皇陛下も現在の皇居へと住まいを遷されると、当時の店主十二代黒川光正(くろかわみつまさ)は、御所御用の菓子司として京都の店はそのままに、東京へと進出。

明治、大正、昭和という激動の時代にあっても御用菓子司としての勤めを果たしながら、「とらや」の菓子を愛する顧客の層を一部の上流階級のみならず、一般大衆へと広がっていきます。

こうして、「とらや」という老舗の和菓子司は伝統に安住することなく、さまざまな革新的な和菓子を生み出しながら、現在の最高級ブランドとしての地位を確立することになったのです。

「とらや」がもっと好きになる七つのエピソード

一、由緒正しき〝御所御用〟。それが持つ意味とは?

とらや6 DMA-百味箱(江戸時代)2写真/江戸時代後期、宮中でのお祝い事の際に納めた菓子(再現)。箱に「御用御菓子」の名が入る。

室町時代の後期に京都で創業した「とらや」は、それからほどなくした後、後陽成天皇の御代(1586〜1611年)には禁裏御用(きんりごよう)(禁裏とは皇居、御所のことを指し、かつては広く皇室のことを言った)を勤めていたとの記録が残っています。

以来、御所御用は言うに及ばず、正月や天皇の即位時、宮中での行事やお祝い事などの度に、菓子の献上をも行っていたとの記録が残るほど、宮中との関係は深いものがありました。

近代になると、宮内省による御用達制度のもと、皇室への菓子の納入は継続され、戦後になって御用達制度が廃止されて以降も、その関係は継続し、現在にまで至るのです。

二、ゴルフ最中『ホールインワン』の誕生秘話

とらや6 DMA-ゴルフとらや3 名称未設定-51

写真/今も高い人気を誇るゴルフ最中の最も古いパッケージには『ホールインワン』の名はまだ入っていない。

『ホールインワン』と銘打たれたゴルフ最中は、和菓子としては大変に斬新なアイディア。さらに、その誕生が日本にゴルフ・ブームがやってくる第二次大戦後よりもずっと前だったというのですから、伝統とは常に革新の上に成り立つものだと実感せずにはいられません。

実はこの最中、その誕生の背景には旧三菱財閥・岩崎家の存在がありました。あるとき、四代目総帥となった岩崎小弥太(こやた)の夫人がゴルフ後にパーティを催す際、友人たちを驚かそうと思い立ち、ゴルフボールの菓子はできないものかと、虎屋十五代目店主・黒川武雄(くろかわたけお)に相談。生菓子や干菓子でつくったのち、最中でつくることを思いつき、ゴルフ最中『ホールインワン』の原形ができあがったといわれています。

しかし、最中の皮にあのゴルフボールのディンプルを規則正しく再現するための木型の制作に手間取るなど、最初はなかなか上手くいかなかったというエピソードも伝えられています。 また、『ホールインワン』という絶妙なネーミングは当初からあったわけではなく、ゴルフ最中が徐々に世間に浸透していく中で、十五代が昭和 9(1934)年になって命名したという逸話が残されています。

三、 和菓子文化の 継承者としての 矜恃

とらや6 DMA-虎屋ギャラリー内観写真/1年に1~2回開催される「虎屋ギャラリー」の企画展では和菓子にまつわる資料を展示。※とらや赤坂本店の建て替えに伴い「虎屋ギャラリー」は2018年まで休館予定。

室町時代の創業以来、500年近くにも及ぶ歴史を誇る「とらや」には、創業家歴代にまつわる古文書や、代々大切に伝えられてきた和菓子の絵図帳など、日本の菓子文化を今に伝える貴重な資料が数多く収蔵されています。

こうした資料の保存と活用、ならびに和菓子に関する調査研究活動を行うため、昭和48(1973)年には「虎屋文庫」が開設され、同年より、併設の「虎屋ギャラリー」にて年に1~2回、企画展が開催されています。

四、とらや限定のアイテムにも注目!

とらや6 名称未設定-19写真/「とらや」の古い絵図帳に載っている和菓子の図案をかたどった豆皿は5種類1セット3,780円(2016年現在)

季節ものも含めると、「とらや」で製造される和菓子の種類は、年間百を優に超えます。そのどれもが、老舗和菓子店としての威信をかけた美しくも気品溢れる和菓子たちです。

さらに、菓子の製造だけに留まらず、関連するさまざまなグッズを開発、販売しているのもさすが、「とらや」と言えるでしょう。

和菓子と関連の強いところでは、写真のような、和菓子のデザインを取り入れた豆皿などがありますが、ほかにも和菓子を贈る際に重宝する一筆箋、進物の際に活躍するシンプルなふろしきにトートバッグなど、「とらや」ならではのセンス溢れるグッズが数多く揃えられています。和菓子をさまざまに楽しむための趣向を凝らした商品にも注目です。

五、雛井籠(ひなせいろう)と 手提げ袋の 知られざる関係

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とらや6 名称未設定-18写真/安永5(1776)年制作の雛井籠の側面に描かれた虎は、今も「とらや」のシンボルマークとして手提げ袋などに用いられている。

普段何気なく目にする黒地に金の虎が描かれた「とらや」の手提げ袋ですが、そのルーツが江戸時代に使用されていた「雛井籠(ひなせいろう)」(雛菓子を入れる重箱)にあることをご存じでしょうか?

「とらや」では、菓子を入れて運ぶ通い箱のことを「井籠(せいろう)」と呼んでいるそうです。これは本来饅頭を蒸す蒸籠が、温かい菓子を早く届けるために運搬用にも使用されたため、同じ呼称になったと考えられています。

そんな井籠の中には、安永5(1776)年に制作されたという記録が残る、屋号の由来ともなっている虎が、五段重ねの重箱の側面に疾走するかのように描かれたものがありました。

現在の手提げ袋が誕生したのは昭和45(1970)年。当時、宣伝部に在籍していた金属工芸作家の永井鐵太郎(ながいてつたろう)氏は、黒川家の雛節句の際に偶然この井籠を目にし、「これこそ『とらや』にふさわしいデザイン」と考え、手提げ袋のモチーフとして取り入れることにしたのです。

それゆえに手提げ袋には重箱であることを示す金のラインが幾重にも入るのですが、過去において菓子を運んだ井籠が元となって現代の菓子を運ぶバッグが誕生したという逸話にも、老舗の風格が漂っているかのようです。

六、地域限定の「とらや」はこんなにすごい!

とらや 空港限定写真/羽田と成田の両空港のみで販売されている白小豆入羊羹『空の旅』。

日本各地に店舗を展開する「とらや」ならではの取り組みのひとつが、地域の独自性を強調した限定和菓子の数々。

赤坂店では虎斑(とらふ)模様の羊羹『千里の風』、工場もある静岡県の御殿場店では季節ごとに表情を変える富士山を題材にした季節の羊羹『四季の富士』などその店独自の限定商品を販売。また、名古屋、京都、さらには羽田、成田の両空港限定というように、それぞれの特性を生かしたさまざまな和菓子づくりも行われています。

七、和菓子屋の原点を見つめ直す「とらや工房」

とらや6 DMA-とらや工房写真/建築家・内藤廣氏による設計の木材を多用した、あたたかみのある「とらや工房」の外観。

「和菓子屋の原点を今の時代に再現してみたい」。そんな想いから構想され、2007年に静岡県・御殿場にオープンしたのが「とらや工房」です。ここには、ガラス張りの厨房に併設された喫茶があり、訪れた客は和菓子づくりの実際を目の前にしながら、ここでしかつくられない「どら焼き」や「大福」、「人形焼」といった、素朴ながら味わい深い和菓子を堪能することが可能です。

同じ敷地内には、戦後日本の建築界を代表する吉田五十八(よしだいそや)が設計し、第56、57代内閣総理大臣の岸信介(きしのぶすけ)が暮らした旧居が一般公開されているので、広い庭園とともに日がな一日を過ごすことができるのも魅力です。

-写真提供/虎屋-