今やうどんと言えば讃岐、讃岐といえばうどん、というほど有名になった香川県の讃岐うどん。休日には人気のうどん店に県内外から多くの人が訪れ、行列ができるのもすっかり日常の風景。讃岐うどんを特集したテレビ番組や雑誌の企画も定番となりました。全国的に有名になった“讃岐うどんブーム”には実は仕掛け人がいたことをご存知でしょうか? “讃岐うどんブーム”とはいったい何だったのか、歴史を振り返りながら検証します。
うどんを讃岐にもたらしたのは弘法大師?
うどんは小麦粉と塩と水だけで作れるシンプルな食品です。それだけに作る人の腕が問われる奥深い食べ物であると言えます。香川県でうどんを作る製麺所が多かった理由は塩や小麦などの原材料、いりこ、醤油などが、比較的手に入りやすかったからと言われています。ではいったいいつ、誰がうどんを作り始めたのでしょうか?これには諸説あります。
室町時代中期に、庶民の間で石臼が普及し、食生活が大きく変化していきます。小麦粉をひいた「お団子」が保存食として浸透していきます。最初は簡単な団子の形で食べていましたが徐々にぶつ切り、薄く延ばしたりしながら、現在の麺状になり、うどんへと進化したと言われています。
この説とは別に、香川県では「うどんは弘法大師(空海)様が広められた」という話が伝わっています。麺文化の発祥は中国です。遣唐使の留学僧として唐に渡った空海が、仏教や建築技術等の様々な学問と一緒に、うどん作りの技法も、香川県へ持ち帰ったといわれています。
空海の甥にあたる智泉大徳が、師でもある空海から「うどんの祖」を伝授され、故郷・綾南町滝宮の両親をうどんでもてなしたのが最初、と伝えられています。綾歌町滝宮神社近くにはうどん発祥の地として石碑も残っています。空海説の方が断然ロマンを感じますよね。
製麺所で食べ始めたのが現在のうどん店のルーツ
香川県では正月や祭り、法要などで客人をもてなす時、各家々でうどんを手作りするのが慣わしでした。
それが昭和になって小さい製麺所が発展します。当時は今のようなうどん店ではなく、製麺所から配達されたうどんを温めて提供する食堂ばかりでした。やがて製麺所の中にその場で客に食べさせるようなスタイルを取り入れるところが出てきます。最初はテーブルやいすも無く、ゆで釜の横の土間で立ち食いしたり、申し訳程度に置かれた簡易なテーブルやいすを使って食べる、といった光景も多く見られました。ある製麺所ではうどんが茹で上がった、という目印に、長い竹竿の先に白い布を付けて掲げ、それを見て人々が食べに行っていたそうです。
讃岐うどんの定義をおさらい
全国生麺類公正取引協議会の表示に関する基準では「(1)香川県内で製造されたもの(2)加水量40%以上(3)加塩量3%以上(4)熟成時間2時間以上(5)15分以内でゆであがるもの。この5項目をもって名産、本場讃岐うどんとする」とあります。日本各地に名物うどんが数あれど、多くの人が讃岐うどんを愛する背景には、これらの基準を満たし、かつ讃岐地方独特の製造法があるからだと思われます。大きな秘密は塩加減と足踏みです。「土三寒六常五杯」といって、土用のころは塩1に対して水3、寒のころには水6、春と秋は水5の割合で塩水を作って小麦粉に混ぜていました。四季それぞれの塩加減をした生地をゴザにくるんで踏む、この足踏みが讃岐うどんの命である「こし」を生み出すために欠かせない作業なのです。
第1次うどんブームは1960年後半
地元のいわば郷土料理であった讃岐うどんが脚光を浴びはじめたのはいつ頃からだったのでしょうか。最初は1960年代後半~の約10年間です。その象徴として語り疲れているのが香川県の高松港と岡山の宇野港を結んだ宇高連絡船(現在は廃止)のうどんの営業です。連絡船のデッキで、潮風に吹かれ、瀬戸内の島々を眺めながら食す「連絡船うどん」が多くの旅行者や帰省客に愛され、讃岐うどんの名前が全国に広まっていきます。併せて1970年に大阪で開催された万国博覧会で讃岐うどんの手打ちの実演が披露されたこともブームに拍車をかけたといわれています。香川を代表する特産品に育てるべく、大平正芳元首相や金子正則元知事も尽力したといいます。
瀬戸大橋ブームに乗って第2次うどんブームの到来
1988年に岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋が完成。瀬戸大橋博覧会も開かれ開通フィーバーに沸きあがる香川県へ、年間観光客が初めて1千万人を超えました。多くの観光客が地元香川で讃岐うどんを食べようとうどん店に列をなします。しかし売り手市場であったため、法外な値段で売る店も現れます。強引で横柄な商売は県外客の不評を買い、大橋観光の陰りと共に第二次ブームはあっという間に下火になりました。当然と言えば当然の結果ですが、何か物悲しいものですね。
第3次ブームは、地元タウン情報誌の編集長が仕掛け人
第3次ブームのきっかけは1995年頃。香川県内のタウン情報誌「TJかがわ」(ホットカプセル)内で知られざるうどんの名店を発掘し、紹介する企画「ゲリラうどん通ごっこ」が話題に。更に情報をまとめた「恐るべきさぬきうどん」が発行されると、全国的に大ブームを巻き起こしました。有名店はもちろん、近所の人たちだけしか知らなかった穴場を次々に発掘し紹介。当時の編集長・田尾和俊さん(元四国学院大学社会学部教授・麺通団団長)は「エッジが立った」「ガシッと締まった」など讃岐うどんを表現する名言も多く生み出しました。
田尾和俊さんにうどんブームについて聞きました。
―― 田尾さんから見た讃岐うどんブームとは?
田尾:大きな局面としては1980年代までは讃岐うどんは主に「郷土料理」として情報発信されていました。1990~2000年代に怪しい小さな製麺所型うどん店巡りという「レジャー」としての讃岐うどんが情報発信され、「讃岐うどん巡り」がブームになりました。2010年代に「讃岐うどん巡り」というレジャーをベースに、讃岐うどんが「グルメ」と「ビジネス」の観点から語られ始めた、という認識です。
―― これからの讃岐うどんはどうなっていくとお考えでしょうか?
田尾:「うどんを作って提供する業界関係者」と「それをプロモーションするプランナーや情報発信者」の両分野において、センス(斬新な発想力)とエネルギー(決断力と実行力)のある若い世代が出てくるかどうかにかかっていると思いますので、予測できません。それぞれの時代でそれぞれの人たちがそれなりに満足する形態であればいいと思います。
第4次はブームから文化へ
第4次ブームといわれている2010年代~現在。後継者問題などでお店を閉じてしまう老舗店もある中、若い経営者が新たに開店する店も。週末になれば全国からSNSなどを通じて情報を得たうどん好きたちが香川に集まってきます。安くて美味しく、気軽に楽しめる「讃岐うどん」は全国に香川の文化として定着しつつあります。
讃岐うどんに関する知識の筆記試験、ガイドの実施試験、うどん打ちの実技など厳しい試練をクリアしたドライバーが運転し、効率よくうどん店を巡ることができる「うどんタクシー」(コトバスタクシー)も登場し、観光客から好評です。
また、実際に手打ちうどん作りを体験できる施設もあり、香川県では食べる以外にカルチャーとしてのうどんも楽しめます。