もうこれは廃線かもしれない――。2019年、台風により橋が流されるという事態を迎え、箱根湯本ー強羅間の運休を余儀なくされた箱根登山鉄道。箱根を象徴する公共インフラの大打撃に地元の人々、観光客は衝撃を受け、廃線の二文字もささやかれていたと言います。
あれから1年……2020年7月23日、ついに全線が復旧。新型コロナウイルスの影響も深刻なさなかではありますが、この明るいニュースは広くメディアに取り上げられました。
なぜたった1年で蘇ることができたのか。
その根底には、創業当初から箱根登山鉄道に息づく「不屈の精神」がありました。
70年ぶりだった……夜間に起きた橋の崩壊
今回、箱根登山鉄道本社にお邪魔し、社員の菅原さんにお話を伺ってきました。(※相互にマスク装着、窓を開けた部屋にて、机を挟んだ距離で取材)
―2019年の台風被害はすさまじいものでしたね。
菅原さん(以下、菅原):倒木や山崩れも凄かったですし、何より蛇骨陸橋はレールや枕木ごと流されました。崩壊が大きかったというのはショックでしたね。
―約9ヶ月という、長丁場の運休となりました。箱根登山鉄道は創業1888(明治21)年、130年の歴史の中で、関東大震災などで運休していますね。
菅原:実は、台風での運休というのも、70年ほど前にもあったんです。1948(昭和23)年のアイオン台風。この時にも約10か月ほど運休しました。
―そうでしたか!今回はほぼそれ以来とも言うべき長期運休となってしまい……ただ、人的被害はほとんどなかったようですね。
菅原:もともと台風ですから、運休などの準備はしていました。しかし、ここまでの被害はさすがに想定外で……。橋が崩れたのは夜の8~9時くらいで、まず変電所に通知が来て、停電が判明したのですね。何か起きているだろうと思っていたら、翌朝詳細がわかって驚きました。聞いた話ですが、踏切音が豪雨の中鳴り響いていたようです。
―被害が判明してからは、すぐに対策にかかられた。
菅原:翌朝、すぐに対策会議を行いました。まさに(今取材を受けている)この部屋で。被害の状況を確認して、どのように工事するか……社外の建設会社の方々まで駆け付けてくれましたね。
―はじめからどうやって復旧するか、のみにフォーカスされていたんですね。
菅原:そうですね。公共インフラはあって当たり前です。特に箱根登山鉄道は観光客にご利用いただくだけでなく、地元の方が使う電車ですから。運休中はバスを出しましたが、やっぱり輸送力が違いました。もしかしたら廃線じゃないか……とご心配頂きましたが、我々の頭にはもう復旧することしかなかったです。地元のお客様から励ましの声を多くいただいたことが励みになりましたね。
無理だと言われながら。箱根登山鉄道の歴史
箱根登山鉄道は1888(明治21)年、馬車鉄道として誕生しました。江戸時代から宿場町として栄えてきた小田原が、東海道線幹線から外されてしまったこと、箱根への湯治客減少を憂いたこともきっかけだったようです。
その後、電化を検討し、1900年に電気鉄道の運転を開始。さらに1907(明治40)年、スイスの登山鉄道を視察した名士から、「箱根に観光誘致するべく、登山鉄道を敷設せよ」という強い勧めを受け、1910(明治43)年調査・研究が始まりました。
どうやって登るんだ?と思われた急勾配、美しいがために守られるべき山の景色……。ショベルカーもない時代、全てが人力です。中でも早川橋梁(通称「出山の鉄橋」)は大変な工事だったようです。川から架設部まで43メートル。クレーンなどない時代、足場を組むだけでも大変な労力と日数がかかります。しかもなんと、足場は竹製!工事の方々が日々上り下りしていたなんて、想像しただけで震えます。
橋自体も材料の輸入ができず、やむなく国鉄のお下がり、天竜川橋梁を転用。この件に関しても、県から横やりが入るなど困難続き。なお、橋が完成した直後に天気が荒れ、翌朝に足場がすべて流されていたという話も社内には残っているそうです。
「無理では」と懸念されつつも9年後、念願の箱根登山鉄道が開通しました。
関東大震災と第二次世界大戦―歴史の海に揉まれながら
ようやく開通した箱根登山鉄道ですが、わずか4年後、関東大震災に見舞われます。7割の戸数が全半壊する大惨事に。登山鉄道もレールが壊れるなど甚大な被害を受け、1年4ヶ月休業することになります。奇跡的に、震災発生時に電車は走っていなかったとのこと。
そして、第二次世界大戦中。箱根登山鉄道自体は強羅へ疎開する人々の移動手段だったこともあり動いていましたが、ケーブルカーは不要不急として休止させられました。終戦、高度経済成長……戦争が終わったとしても、歴史は常に激動でした。
激しく変化する中で困難を乗り越え、走り続けてきた箱根登山鉄道。その原動力には、地元民の深い愛情がありました。
再開を迎えてー地元の人々と箱根登山鉄道
箱根登山鉄道は観光列車であると同時に、地元に深く根ざした鉄道。全線開通日には、函嶺白百合学園(かんれいしらゆりがくえん)の生徒が招かれており、ニュースでも広く取り上げられていました。強羅にある白百合学園の、ほぼ唯一の通学手段。長い生徒だと小中高と12年間、登山鉄道で通うそうです。通学時間、列車内はほぼ貸し切り状態で、先輩後輩の交流の場でもあるのだとか。今年度の卒業生は運休のまま卒業してしまったということで、再開をとても喜んでいたそうです。
もちろん観光業にも影響が大きく、今回、各ホテルでもさまざまな記念プランが組まれました。箱根湯本『小田急 ホテルはつはな』岩見副支配人にもお話を伺いました。
―現在『ホテルはつはな』さんでは箱根登山鉄道のオリジナルグッズ(ノベルティー)詰め合わせつきの記念プランを実施されています。グッズがとてもかわいい!登山鉄道再開というのは観光業の方にとっても喜ばしいことでしたか。
岩見副支配人(以下、岩見):観光業は、新型コロナウイルスの影響で大変厳しい状況が続いています。盛大に行う予定だった各種全線運転再開イベントができないのは残念ですが、久しぶりに慶事と言える明るいニュースで嬉しかったですね。
―運休中はバスも出ていましたが、やはり箱根登山鉄道が必要とされていたのですか。
岩見:そうですね。実は地元住民にとって、公共インフラ、生活の足としての存在が大きいんです。箱根登山鉄道は、地元住民、箱根のシンボルです。再開して皆さん喜ばれていると思います。
―70年ぶりの運休と伺いました。
岩見:あんな状態は初めて見たので、衝撃でした。地元の方にもショックが大きかったと思いますよ。
―よくぞ復旧されたと思います。まだ箱根の賑わいが蘇ってほしいですね。
岩見:今、我々はガイドラインに沿って、お客様が安心してお過ごしになれるよう、万全を期して対策しています。今、皆様が外出を怖いと思われるのは仕方ないのですが、我々はみんなで待っておりますから。
―確かに、あらゆるところに消毒液が置かれていますし、エレベーターパネル横には綿棒とティッシュがあり、直接階数ボタンを押さなくて良くなっていました。
岩見:本当に転換点なのだと感じています。緊急自体宣言中はホテルも随分閉めて……はつはなだけの話ではなく、箱根全体がそんな感じでした。これから、お客様をどのようにおもてなしするのか……ガイドラインを遵守しながらできるだけのことをやっていきたいですね。
―先を見据えてらっしゃる。箱根登山鉄道の復旧は励みになりましたか。
我々箱根の人間にとって、登山鉄道は特別な存在です。取りかかるのも大変だった列車が無事に復旧してくれたというのは励みになりますね。
ホテルの入り口には、箱根登山鉄道復旧のポスターが飾ってあり、箱根湯本駅前にはのぼりもはためいていました。地元民、観光業、宿泊施設、地域が待ち望んでいた瞬間がようやく訪れたという、喜びをそこかしこに感じました。
鉄道と住民は似たもの同士?逆境からまた立ち上がる、その強さ
地元密着であり、観光資源でもある箱根登山鉄道。お話を伺う中で、地元に深く根付き、愛されている鉄道なのだとしみじみ感じました。換気された登山鉄道に揺られていると、何もかもが元通りになったように思えます。箱根の街には徐々に人が戻ってきていました。ただその痛手はやはり大きく、登山鉄道の再開を盛大にお祝いすることもできなかったそうです。だからといって、箱根の皆さんは決して諦めたわけではありません。観光業の方は、ウィズコロナを見据えた対策を考えておられましたし、箱根登山鉄道も次の周年を目指して、さまざまな取り組みをしていらっしゃいます。
もしかしたら適切な距離を見極めることが重要な日本の接客業のこと、世界の規範となるような「新たなおもてなし基準」のガイドラインを生みだせるかもしれません。
逆境を迎えても何度でも挑戦する。地元民のその姿勢は、あらゆる苦難の山を乗り越えてきた登山鉄道と重なりました。