伊藤若冲の足跡を訪ねて、京都のゆかりの地へGO!

伊藤若冲の足跡を訪ねて、京都のゆかりの地へGO!

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伊藤若冲が活躍したのは京都ですが、実は市井(しせい)に生まれ育った若冲の人生についての文献は少なく、いまだ多くの謎だらけ。そんな中にあっても、若冲の足跡が確かな場所が、京都にはいくつか残っています。錦市場、相国寺(しょうこくじ)、糺(ただす)の森、石峰寺(せきほうじ)。若冲の足跡が残る地を訪ねながら、その人生をたどっていきましょう。

若冲が生まれ育ち、若冲が守った、錦市場

若冲が生まれたのは江戸時代中期の1716年。錦市場の青物問屋「桝屋」当主・伊藤源左衛門の長男として生まれています。富裕な町衆の跡取り息子ながら、若冲は読み書き手習いよりも絵を描くのが得意。友達と遊ぶよりも絵を描いて過ごすことの方が多く、近所では変わった子として有名だったようです。

それは長じてからも変わらず、酒を飲まず、遊興も好まない若冲は20代後半になって、狩野派の絵師に大岡春卜(しゅうぼく)について絵を習い始めたとされます。しかし、手本に忠実に描く狩野派の教えは若冲にとって退屈で、当時の最新流行だった宋元画(そうげんが)の模写にも飽き、やがて錦市場に並ぶ魚や野菜、自宅の庭で飼っていた鶏を丹念に写生するようになり、動植物をありのままに描くという若冲独自の画法の礎を築くのです。

伊藤若冲

若冲が写実的な作画法をつちかった錦市場は、今も昔と変わらない一本道。八百屋や魚屋が軒を並べ、買い物客でにぎわう様子は昔から変わりません。その店頭で人目もはばからず、魚や野菜に目を凝らし一心に筆を運んだ若冲。そのときの姿を想像すると、変わり者といわれるのも無理からぬこと。そんなこと思い浮かべながら錦市場を歩いていると、原色に彩られた通りのそこかしこに若冲の絵で見たモチーフが見え隠れ。通りの様子がいっそう色鮮やかに感じられるようになってきます。

また、近年発見された文献には、50代の若冲が錦市場の町年寄(まちどしより)を務めており、錦市場が陰謀によって閉鎖の危機を迎えた際には、身を賭して守り抜いたことが書かれています。若冲の活躍がなかったら、今の錦市場の繁栄はなかったかも……。そう考えると、若冲がいかに錦市場を大切に思っていたのかよくわかります。

伊藤若冲左/錦市場にあった青物問屋「桝屋」の跡。右/錦市場の東側に位置する錦天満宮。

錦市場の詳細はこちら!

相国寺に移り名作『動植綵絵』を完成

若冲が23歳になったころ、父親が急逝。若冲は「桝屋」4代目を継ぎますが、依然として一番の関心事は絵。写生や模写に明け暮れ、30代を迎えた若冲は、博覧強記で書画にも通じた禅僧・大典禅師(だいてんぜんじ)から絵の才能を認められ、励まされたことからますます絵に熱中。やがて禅に帰依し、弟へ家督を譲ることを決めて、相国寺に移り住みます。

江戸時代の禅寺は現在の大学のような存在で、学問や芸術文化の中心地。そこで本格的に絵に取り組んだ若冲は、最高傑作『動植綵絵』30幅を10年の歳月をかけて完成。絵師としての名声を不動のものにした若冲はさらに『釈迦三尊蔵(しゃかさんぞんぞう)』3幅とともに相国寺に寄進します。それは、生涯独身であった若冲が家族と自分の永代供養を願ってのことでした。

伊藤若冲

『動植綵絵』は相国寺が明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で疲弊していた際に皇室に献上し、相国寺は危機を免れたという逸話があり、『動植綵絵』は皇室の御物となったからこそ散逸を免れ昔のままの美しさを保つことになったのです。

かつては広い寺域を誇っていた相国寺。禅寺らしい質実剛健な伽藍が並びます。そこには絵に対する若冲の情熱が時を超え、今も寺のすみずみに宿っていると言っても過言ではありません。

伊藤若冲江戸当時、一流の文化人が集った禅寺・相国寺は足利義満が建立した京都五山第二位に列せられる臨済宗の古刹。堂宇は新しくなっているものの、厳粛な雰囲気は昔のまま。境内には永代供養の際に若冲が遺髪をおさめた寿蔵(生前に建てる墓)があり、堂内の位牌には今も毎日お経があげられている。

相国寺公式サイト

売茶翁ゆかりの糺の森

『動植綵絵』の完成後、若冲は売茶翁(ばいさおう)へ強く心酔していきます。売茶翁とは大典禅師と交友があった還俗(げんぞく)した禅僧で、禅を説きながら茶を煎じて飲ませる翁のまわりには多くの知識人や芸術家が集まり、売茶翁に接待されることが一流の風流人の証でもありました。

その売茶翁が茶を煎じていた場所のひとつが糺の森。売茶翁がそのとき用いていた注子(水注)が今も残っていて、そこには「去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌」という『老子』の言葉が記されています。

伊藤若冲

これは大典禅師が授けたとされる若冲のという号の出典で、意味は「本当に充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」。まさに言い得て妙です。

若冲が売茶翁の茶を服したとされるのは糺の森の小川の畔。世界遺産・下鴨神社の境内にある糺の森は広々とした原生林のおおわれていて、小川のまわりの景色はおそらく昔のまま。若冲と売茶翁の交友を偲ぶのにも最適な場所です。

伊藤若冲売茶翁と若冲の交友を今に伝える糺の森の小川。原生林が江戸の息吹を伝えてくる。

糺の森=下鴨神社公式サイト

石峰寺の五百羅漢石像

還暦を間近にした若冲は、そのころ知遇を得た萬福寺の中国僧・伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)への感謝のしるしとして、同じく黄檗宗(おうばくしゅう)の石峰寺で五百羅漢石像の制作に取り組んでいます。

若冲が下絵を描き、石工が彫った五百羅漢石像は石峰寺の本堂裏の竹林に配されています。釈迦の誕生に始まり、托鉢(たくはつ)、涅槃(ねはん)、賽(さい)の河原、入滅などの場面を再現した五百羅漢像は風雨に洗われ、苔むしていて、穏やかな表情が印象的。それはまるで、永代供養をすませて安らいだ若冲の心を反映しているかのようです。

伊藤若冲左/穏やかなお顔をした羅漢像が並ぶ石峰寺の竹林。右/若冲も眺めたに違いない鴨川を飛び交うサギやカモなどの水鳥たち

しかし、安らぎも束の間、相国寺が天明の大火で焼失し、焼け出された若冲は大坂の知人宅を転々とするはめになり、ようやく腰を落ち着けたのが五百羅漢石像をおさめた石峰寺の古庵でした。70歳を過ぎての隠棲も若冲にとって決して悲劇ではありませんでした。なぜなら、無心に絵を描く時間を得ることができたから。若冲はそこで享年まで絵に没頭し続けたのです。

石峰寺にある若冲の墓は、市街を眼下にした見晴らしのいい場所に位置しています。立ち寄ってみると、心安らぐ雰囲気に満ちていて、天才絵師とうたわれた若冲の生涯が、何ひとつ悔いのないものであったことをうかがい知ることができるでしょう。

石峰寺公式サイト

写真/篠原宏明

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