「池を泳いでいる鯉の中から、金色の鯉を見つけることができれば幸運になれるんですよ」
そんなことを教わって、さっそく池を覗いて見るとそれらしき鯉が泳いでいた。
「見つけましたよ」
そう指さすと、嘆息された。
「あれは違いますね」
金色と黄色、いったいどう違うのかよくわからなかった……。
和歌山県は紀勢本線新宮駅。少々南国ムードのある駅前から見える風景には知らない人にはちょっと異質なものが混じる。中国そのものの楼門がそびえているのだ。
公園の名は徐福公園という。
始皇帝が求めた不老長寿の秘薬
徐福(じょふく)は二千年以上も前に中国にいた不思議な人物だ。その存在は日本古代史の謎である。
徐福の事績は『史記』「淮南衡山列伝」に記されている。紀元前三世紀、中国全土を統一した秦の始皇帝は次第に、神仙に傾倒するようになった。統一国家の成長を見届けぬままに寿命が尽きることを愁い、不老不死になることを求めたからだともいう。そんな始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」と奏上したのが方士(ほうし)の徐福であった。方士とは瞑想や気功などなどの方術を用いる人々のこと。古代中国において、方士は特殊な術を用いることで時の権力者からも信頼される存在であった。
そんな地位にある人物が奏じたのだから、始皇帝も本気になった。徐福のいう三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(ほうらい・ほうじょう・えいしゅう)のこと。それは渤海の(遼東半島と山東半島に挟まれた内海)の先にある神仙が住むとされた山のことである。さっそく徐福は命を受けて東の海へと出発した。その時には3000人の童男童女(若い男女のこと)と百工(多くの技術者)と財宝に五穀の種子を詰めこんでいた。こうして船出した徐福一行が帰ってくることはなかった。「淮南衡山列伝」では、平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となったと記述されている。
この出来事は紀元前219年頃のことと考えられている。日本ではようやく長い縄文時代が終わり弥生時代を迎えた頃である。卑弥呼が登場するのは、ようやくこれから400年ほど後のこと。まだ日本には文字で記録されるような文明はなかった。そのためか『古事記』『日本書紀』には徐福に関する記述はない。
ただ不思議なことに古来より日本の各地には徐福が暮らしたという伝承が残っている。冒頭で述べた新宮市の徐福公園もその一つだ。ここには公園が整備される以前、江戸時代前期に紀州徳川藩初代の徳川頼宣の命でつくられた「秦徐福之墓」の碑が立っている。
20世紀後半まで伝説だと思われていた徐福
あくまで、伝承の人物だったはずの徐福研究が活気づいたのは1990年代初頭からだった。長らく徐福は『史記』に記されながらも、存在が疑問視されてきた。『史記』は歴史書として名高いが、一方で批判的な視点での読解が求められる書物である。なにしろ作者である司馬遷も自分で見たり聞いたりしたことを書いているわけではない。徐福も司馬遷の生きた時代からは100年あまりも前の人物である。
『史記』のほかにも徐福の記述がある史書は多かったが、話の荒唐無稽さもあって、あくまで伝説上の人物という見方が強かった。
その認識が覆されたのは1982年のことである。当時『中華人民共和国地名辞典』編纂に携わっていた徐州師範学院教授の羅其湘は江蘇省の連雲港市郊外に後徐阜村という地名があるのを見つけた。調べてみると、この村は清の初め頃までは徐福村と呼ばれていたのだという。
これを契機に秦・漢代の造船所跡などの遺跡も見つかり、にわかに徐福の実在性は高まったのである。今では、この村は廟も建てられ徐福生誕の地として観光地になっているという。
徐福伝説と日本のお米との関わり
日本で徐福に興味が注がれているのは、日本の文化ともいえる稲作にある。稲作は水田をつくり水の管理も必要な高度な技術を用いる農法だ。これが大陸から日本列島へもたらされたものであることは明らかだ。ただ、その伝播ルートをめぐっては多くの説が提唱されている。朝鮮半島を経由したというもの、南西諸島を島伝いに伝えられたというもの。そして、大陸から直接伝来したというものである。
徐福の伝説は、大陸から直接海を渡って渡来したという説を裏付けるものとも考えることができる。そして渡来したのも徐福だけではない。徐福が始皇帝に海の向こうに三神山があると奏上したのは口から出任せをいったわけではない。数百年後の史書である『隋書』には九州の阿蘇山について触れた部分がある。ここでは阿蘇山が活火山であり、これを人々が祀っていることを記している。既に古代中国には海を越えた向こうに活発に活動する火山を持つ島があることは知られていたわけだろう。
これを聞いた徐福が三神山がある島と考えたという想定もできる。
徐福に限らず、戦乱を避けるなど様々な理由で日本列島にやってきたり、交易によって文物を伝えた人々は多かったと考えられる。おそらく日本列島のあちこちに、かつて大陸から人がやってきて稲作や鉄器を教えて貰ったというエピソードが何代にもわたって語り継がれていたはずだ。それが、後の時代になり中国の史書に書かれた徐福の逸話と結びついて「徐福が来た」という伝説に変化していったのではないだろうか。
全国で20カ所近くある徐福が寄った土地
もしかしたら、徐福もせっかく連れてきた三千人あまりの人々と暮らす新天地を求めて日本列島各地を彷徨ったのかもしれない。それにしても、全国で徐福伝説を伝える土地は20カ所以上あるわけだから、立ち寄りすぎである。そして、それぞれの土地で伝説は変わった形で進化している。佐賀県では徐福を雨乞いの神様として祀っている土地がある。はたまた、山口県の祝島では特産のコッコーという木の実が徐福が求めた不老長寿の霊果だと信じられている。
そうした中でも、冒頭の新宮市を含む熊野地方は徐福が上陸した土地として極めて有力だ。なにしろ、熊野は徐福のみならず、神武天皇も東征の過程で上陸した土地である。2016年に世界遺産となった阿須賀神社は背後に蓬莱山という、いかにもな形をした山もある。なにより、徐福公園をはじめとした力の入れかたが「ここぞ徐福が上陸した土地」と信じさせてくれる。ちなみに、徐福公園の売店では徐福が探し求めた天台烏薬をブレンドした徐福茶を売っている。天台烏薬はクスノキ科の低木で、その成分は胃の調子を整えたりするらしい。確かに健康にはいいのだが、なぜか不老不死の薬として珍重されたという。
この徐福茶、番茶をブレンドしていてとても美味いのだが、まだ不老不死になった気分はしない。
不老不死を求めた始皇帝は、それが実現したらどうするつもりだったのだろうか。
そんな権力者を利用して船出した徐福は、最初から新天地を目指すことが目的だったのか。
まだまだ謎に満ちた歴史のロマンは多い。