人はなぜ空を見上げるのでしょうか。悲しい時、辛い時、瞬く星に癒やされることがあります。現在の不透明かつ不安定な時代、私も思わず天に願いを込めてしまいます。かつて尾張名古屋の人々が見上げたのは、名古屋城天守の上で黄金に輝く金鯱でした。なぜなら、人々を数々の苦難から救ってくれていたのがこの金鯱だったからです。
江戸時代「熱田湊の宮の浜に魚がいないのは、金の鯱が光っているからだ」と歌われた金鯱は、人々の誇りであり、名古屋城の象徴として受け継がれてきました。鯱を城に取り入れたのは織田信長が最初と言われており、豊臣秀吉の大阪城にも金の鯱が飾られました。しかし鯱にこれでもかと金を使ったのは名古屋城だけです。徳川家康が名古屋城築城の際、財力を知らしめるべく天守に施した金鯱。これが「尾張名古屋は城で持つ」と言われる理由の一つでもあります。
2021年、3月20日から4月2日まで開催された『名古屋城 金鯱展【守り神降臨、海と山の祈り】』では、広大な名古屋城二之丸広場に金鯱が降臨、人々の気持ちを明るく照らしました。そして現在は、さらに多くの市民の目に触れられるよう名古屋の中心地、久屋大通公園内に鎮座しています。コロナ禍ではありますが、名古屋の人々にとって金鯱はアマビエにも相当する、祈りの象徴。連日、多くの人々が金鯱にあやかりたいと訪れているのです。かくいう私も光輝く金鯱を一目見ようと名古屋城へとはせ参じました。そしてその眩い光と神々しさに、改めて金鯱の凄さを思い知りました。一体、どのくらいの金が使われているのだろうかと。
光輝く黄金の金鯱。お値段はなんと14億円!!!
「名古屋城金鯱展」公式ドキュメントブックによれば、創建時の高さは雄が約2.57m、雌が約2.51m、使用された金のうろこの枚数は雄が194枚、雌が236枚だとか。金鯱には金の大判を引き延ばした金の板が貼られているのですが、これを江戸時代に使われていた慶長大判に置き換えると1940枚分、重さにしてなんと215.3キロの金が使用されていたのです。まさに大判小判ザックザクの量です。現代の相場(1g=約7,000円)で換算すると、およそ14億円以上という膨大な金額になります。
のっけから、お金の話ですみません。しかし金鯱とお金は実に深い関係があるのです。なんと江戸時代中期、藩の財政が苦しくなる度に金のうろこが目当てにされていたのです。
人々を救うために降ろされてきた金鯱の歴史
紀州藩の財政改革を成功させ、徳川8代将軍に就任した徳川吉宗が倹約に明け暮れた「享保の改革」。尾張藩にもそのしわ寄せは重くのしかかっていました。
名古屋城綺伝によれば、
1726(享保11)年、天守閣の修理が行われることになり、主として五層、四層、三層、二層の屋根周りについて補修が施行となり、特に金鯱に手を加え、その頭部の真木を取り換え、下地すべて鉛板で包み、上を銅板で張り、その上に金板を張り付けるという作業が行われた。慶長の築城以来、はじめて金鯱の修復が行われたということで、実は金鯱のうろこを鋳直し、純度の低い金に取り換えをした。
表向きは天守閣の修理としていましたが、財政が苦しくなる度に金のうろこは、明治になるまでに3度も改鋳が行われていました。改鋳とは金板を薄くして、金の純度を落したものと取り替えることを言います。象徴である金鯱のうろこを当てにするとは!!と思ってしまいますが「背に腹は代えられぬ」状況だったのです。
考えてみれば、この金はまさにお宝。財政難に陥った藩主が金策の一つに使用したのも無理もありません。「こんなにたくさんある金のうろこ、少しぐらい薄くしてもいいだろう」ということだったのでしょう。
当時は、飢饉や大火による炎上で、世の中に不吉な事柄が続いていたのです。そのため江戸幕府だけでなく、財政難でどこの藩も苦労していたため、金鯱はまさに身を持って人々を助けていたと言えるのです。2度目は1827(文政10)年、3度目は1846(弘化3)年にも行われ、そのたびに金鯱は純度を下げ、その形状も痩せ細っていったと言われています。
この時の金鯱の気持ちを代弁すれば、「私は敬われているのか、金づるにされているのか、もはやわからない……」といったものだったのかもしれません。
それ以外にも、江戸時代、芝居の演目にもなった柿木金助が大凧にのってうろこ3枚を盗んだとされる金鯱怪盗事件や、明治時代にも盗難が相次ぎ、1937(昭和12)年には、保存調査のために足場が組まれた金鯱のうろこをペンチで58枚も剝がされるという事件も起きました。やはり、人の目をくらませるほどの金であり、いつの時代も光ものに人は弱いのです。この波乱にとんだ金鯱の歴史を知ると、愛らしさだけでなく、人々のために苦難を生き抜いてきた姿が有難く、お守りにして崇める人々の気持ちがわかります。
波乱の金鯱、遂に海を渡る
その後も金鯱には試練が訪れます。徳川幕府が終焉を迎え、明治維新の幕開けとなった新生日本で、無用の長物となった城は廃城とされていきます。名古屋城も類にもれず、明治政府の陸軍省の管轄となり、ついに金鯱は解体の危機にさらされたのです。まさに時代に翻弄される金鯱。
ところがまたもやここで、奇跡が起こります。降ろした金鯱の神々しさに当てられたのか、宮内省は金鯱を潰すことなく、なんと国内外の博覧会に出展させたのです。これも金鯱の魅力が人々を思いとどまらせたといえるのかもしれません。
1872(明治5)年、日本初の博覧会とされる東京湯島聖堂博覧会に雄の金鯱が登場。神々しい黄金の金鯱に魅せられ、これが大評判となりました。また、1873(明治6)年、鎖国の解けた日本が積極的に海外の博覧会へと日本の工藝品を出展させます。雌の金鯱は明治政府が始めて参加した公式の博覧会であるウィーンの万国博覧会に出展されるため、海を渡りました。巨大な金の鯱はエキゾチックであり、博覧会でも絶賛され、日本ブームの火付け役にもなったのです。
ここまでくると、エポックメイキングと呼べる転換期に、金鯱はいつも地上に舞い降りているのです。さらに危機的状況の中にありながら、国難にこそ強いのが金鯱なのではという気さえしてきます。そんな金鯱パワーが今回のコロナ禍でも大きな反響となって人々の熱気を生んでいるのでしょう。
なぜ、こんなにも金鯱は人々を熱狂させるのか
この金鯱パワーの謎に迫るべく、名古屋城下での『名古屋城 金鯱展【守り神降臨、海と山の祈り】』を開催した名古屋市観光文化交流局名古屋城総合事務所主査の吉田祐治さんにインタビューさせていただきました。
―公式ドキュメントブックが発売され、金鯱が降臨する様子も含め「名古屋城金鯱展」の展示風景の撮りおろしフォト・ドキュメントや金鯱の歴史が詳細に綴られています。金鯱でガイドブックを作ってしまうというのは、やはり名古屋にとって、金鯱というのは特別なものなのでしょうか。
吉田:現在の金鯱は、戦災で焼失した後、1957(昭和34)年に、市政70周年記念事業として天守閣再建と共に制作されました。この天守閣の外観は、戦前に残されていた詳細な図面をもとに再現されたものです。ということは、今私たちが見上げている天守も金鯱も400年以上前に江戸時代の人々が見ていたものとほぼ同じものなんです。そういったロマンもあり、尾張名古屋から続く歴史や文化を現代においても体感できる点は誇りですよね。
―名古屋と言えば、名古屋城と言えるほど大きな資産ですが、その魅力はどこにあるのでしょう。
吉田:1615年(慶長20)年に江戸幕府が一国一城令を公布し、それ以降、城を作ることが禁じられるんですが、名古屋城が興味深いのは、この直前に築城されているということです。1610(慶長15)年から築城を開始された名古屋城は、結果、戦国時代から江戸時代へと移り変わる時に起きた築城ラッシュの中で、最終期に築かれた城であり、近世城郭の完成形とも言えると思います。また、1873(明治6)年の廃城令では、全国で100以上の城が破却されますが、名古屋城は保存されることになりました。戦災で天守も金鯱も焼けてしまいますが、昭和まで生き延びた城であり、多くの貴重な資料が残された城ということなんです。
―2018(平成30)年に名古屋城の本丸御殿を復元できたのもそのお陰ですよね。
吉田:貴重な資料をもとに、職人の手によって忠実に復元しましたが、全国的にも珍しいことだと思います。本丸御殿の復元にあたっては、戦災を免れた1,049面の障壁画をはじめ、戦前の古写真や実測図、金城温古録などの文献が重要な役割を果たしました。国の重要文化財にも指定されています。復元された天守、金鯱も含め、歴史が脈々と受け継がれた結果を今、私たちは見ることができているのだと思います。
名古屋城の本丸御殿復元の話はこちら
金シャチ横丁にオペラ!スゴいことになっている名古屋城を目撃せよ!
吉田:今回の展示は浮世絵に注目したのですが、東京湯島聖堂博覧会に出品された時に、鯱の前で人々がずっこけている様子が描かれているんです。それがとても可愛い。みんな金鯱を見て、驚き、喜んでいるんですよね。やはり昔も人々にとって金鯱は愛すべき存在だったのだと思います。
―大きさもそうですし、金のきらびやかさ、さらには造形の美しさもありますね。
吉田:工藝の一種ですよね。初代の金鯱は木製ですので、木彫の職人の手によって造られたのだと思います。そこに金の板を張った。だから単なる飾りではなく、その精巧さや優美さが見る人の心に深く残るのかもしれません。
―今回の金鯱展で特に力を入れられたのはどういうことでしょうか。
吉田:今回の展示では、今まであまり語られることのなかった金鯱のルーツを辿ってみました。もともと古来から、火除け、水の神獣として崇められてきた想像上の動物である鯱ですが、その歴史を遡ってみようと、国立民族学博物館・名誉教授の立川武蔵先生にお願いして、金鯱のルーツであるマカラについても展示しました。先生の研究によれば、バビロニア、エジプト、ギリシャ、インド、中国を経て、日本にたどり着いたもので、インドで「マカラ」と呼ばれていたものが、日本では鯱となって城や寺社の屋根に飾られるようになりました。世界中にさまざまな想像上の生物がいますが、自然と共に暮らし、災害や厄病などと向き合う中で、想像力を発揮し、こうした生き物が生み出されてきたことに改めて気づかされます。
―戦後生まれの私たちにとって、新型コロナウィルスの国難や災害はなかなか受け止めきれないものですが、金鯱の歴史を振り返ることで、多くの困難との闘いの歴史があったことにも思いを馳せ、乗り越えていきたいと思います。吉田さんは2005(平成12)年に開かれた新世紀・名古屋城博でも関わられていたということですが、今回の展示で感じたことはどんなことですか。
吉田:名古屋の人はやっぱり金鯱が大好きなんだなということです(笑)。コロナ禍という状況の中、名古屋城も1年間、入場者が少なかったのですが、展示期間中は多くの方にお越しいただきました。2週間で16万人弱の来場者があり、ヘリコプターで金鯱を降ろす様子もニュースとなりました。金鯱が地上へ降りたのは、戦後3回目となりますが、これからも名古屋の象徴として親しまれ、次世代へと受け継がれていくことを願っています。
参考文献 『金鯱展』公式ガイドブック
『名古屋城綺伝』 服部鉦太郎著
【公式】名古屋城 金鯱展 [守り神降臨、海と山の祈り](終了)
公式ホームページ(ドキュメントブック)
『名古屋城金シャチ特別展覧』
開催期間 7月11日(日)まで
開催時間 10:00~20:00(入場は閉場30分前まで)
開催場所 ミツコシヒロバス 特設パビリオン(久屋大通公園内)
観覧料金 500円
『名古屋城金シャチ特別展覧』公式ホームページ