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2019.12.09

東京にお城の跡が100もあるって知ってた?おすすめの7城を観光ガイド

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戦国時代初期の名将・太田道灌の登場

そこで頭角をあらわすのが、扇谷上杉家の家宰(かさい)・太田道灌(おおたどうかん)でした。家宰とは家政をとりしきる役職で、筆頭重臣が任じられます。道灌は公方(当時、鎌倉から下総〈しもうさ、現、千葉県北部・茨城県西部〉の古河に移り、古河公方と呼ばれる)に味方する下総の千葉氏を抑えるべく、利根川下流域に築城します。それが康正2年(1456)頃、江戸氏の旧領地に築いた「江戸城」でした。また江戸城と岩槻(いわつき)城(現、埼玉県)を結ぶ城として、「稲付城」も築きます。

東京23区内で城めぐり! 歴史ロマンあふれる7つの城跡を徹底紹介
稲付城跡碑と急こう配の石段

おすすめの城1

「稲付(いねつけ)城」

(北区赤羽西1丁目)
「いなつけ」「いねつき」とも読みます。赤羽台地の先端に位置し、JR赤羽駅西口もしくは南口からすぐの、静勝寺(じょうしょうじ)境内から南側の台地が城跡。静勝寺の建つ平坦部分が主郭と見られ、山門へと上る北側が急な崖、東西も崖となっています。南側からは空堀が検出され、南に続く平坦面と城を遮断するものでした。東に岩槻街道が走ります。地形に面影を残す稲付城は太田道灌の築造とされ、静勝寺は太田氏の菩提寺です。
アクセス:JR「赤羽」下車 徒歩約5分

やがて、山内上杉氏の重臣・長尾景春が家宰職の継承をめぐって主君の上杉家に不満を抱き反逆、古河公方と結びます(文明5年〈1473〉、長尾景春の乱)。これも主君と補佐役の対立でした。しかも長尾景春に、武蔵国で最大勢力を誇る「石神井城」の豊島氏が呼応します。古河公方、長尾景春、豊島氏の連携を前に、山内・扇谷両上杉家は苦境に立たされました。道灌は和解の周旋に努めますが、決裂。

「それならば」と戦(いくさ)上手の道灌は、各個撃破をねらいました。江戸城の留守を「世田谷城」の主・吉良成高(きらなりたか)らに託すと、文明9年(1477)3月、まず長尾景春方の相模(現、神奈川県)の城を二つ落とします。次に勢力が江戸城に近い豊島氏を4月13日に江古田・沼袋の戦い(中野区)で破り、間髪入れずに石神井城を同28日に陥落させて、豊島氏の勢力を追い払いました。

東京23区内で城めぐり! 歴史ロマンあふれる7つの城跡を徹底紹介
石神井城址碑と三宝寺池

おすすめの城2

「石神井(しゃくじい)城」

(練馬区石神井台1丁目)
東京23区は中世の頃、大半は豊島氏の支配下にあり、点在する熊野神社や氷川神社がその名ごりだといいます。一族には葛西氏、板橋氏、志村氏、赤塚氏などがいました。石神井城は豊島氏の本拠で、石神井川に水を供する三宝寺池に臨む台地に築かれています。豊島氏が長尾景春と古河公方に味方すると、敵対する太田道灌は豊島氏の練馬城を挑発し、追ってきた豊島泰経・泰明兄弟と江古田・沼袋で戦って泰明を討ち取りました。敗れた泰経は石神井城に籠るも、道灌の攻撃に城を捨てて落ちのびます。一方で落城の際、泰経が白馬に黄金の鞍をつけて三宝寺池に入水、父の跡を追って娘の照姫も身を投げたという伝説も残ります。城跡は主郭の堀や土塁の保存状態が良好。隣接する氷川神社も城域でした。なお、豊島氏の支城に練馬城(練馬区のとしま園内)、平塚城(豊島城とも、北区)などがあります。
アクセス:西武池袋線「石神井公園」下車 徒歩約20分

次に同年5月14日、道灌は長尾景春をおびき出して用土原(ようどはら)の戦い(現、埼玉県)で破ると、景春の諸城も落として勢力を一掃。さらに翌文明10年(1478)12月、古河公方を支える千葉孝胤(のりたね)を境根原(さかいねはら)の戦い(現、千葉県)で破り、文明11年(1479)7月には堅城・臼井(うすい)城(現、千葉県)をも攻略しました。

この情勢に、同族によって不当に下総を追われ、扇谷上杉家に庇護されていた千葉氏当主の千葉自胤(これたね)が下総に返り咲こうとしますが、千葉孝胤の巻き返しにあい、失敗。やむなく引き上げてきた自胤らを、道灌は「赤塚城」「志村城」に迎え入れています。

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赤塚城跡碑と本丸

おすすめの城3

「赤塚城」

(板橋区赤塚5丁目)
板橋区高島平の北西に、地下水が溜池となった池があります。この池を見下ろす丘に築かれたのが赤塚城ですが、築城時期や築城者などはわかりません。中世には豊島氏の支配下にあり、豊島氏の一族赤塚氏の城であった可能性が高いでしょう。城の北に荒川の早瀬の渡しがあり、また武蔵国の南北を結ぶ鎌倉道を押さえた、水陸交通の要衝でした。太田道灌は赤塚城に、下総から逃れてきた千葉自胤を入れます。城跡は本丸跡の碑が建つ一の曲輪、現在、梅林になっている二の曲輪、その西側に三の曲輪という構成であったと推定されますが、詳細は不明です。アクセス:都営三田線「西高島平」下車 徒歩約15分

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熊野神社境内に建つ志村城跡碑

おすすめの城4

「志村城」

(板橋区志村2丁目)
城跡に建つ熊野神社社伝には、長久3年(1042)に志村将鑑が熊野より勧請(かんじょう)したとありますが、築城に関しては不明。豊島氏の一族志村氏が築いた可能性が高いでしょう。城は荒川を北に望み、西・南側に荒川の支流・出井(でい)川が回り込む東西に長い台地上に築かれています。推定される城域は南北200m、東西450m。城内は2つの堀切によって3つの曲輪に分かれ、熊野神社の西に空堀と土塁が残ります。太田道灌によって赤塚城に千葉自胤が入った際、志村城にも千葉一族が入り、赤塚城の支城になったともいわれます。その後、赤塚城、志村城の千葉氏は小田原北条氏に従いました。なお千葉氏が拠った城には、石浜城(台東区)もあります。アクセス:都営三田線「志村三丁目」下車 徒歩約5分

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徳川家の葵紋

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。