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2019.10.14

130年を超える「駅弁」の歴史。食生活の変化を受け、存在価値はどのように変化するか

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駅弁には謎が多い。

どうして、同じ弁当でも、駅弁を車内で食べると格別に旨いと感じるのか。
固いごはんでも、冷めたおかずでも。ゴトゴト揺れてあわやこぼしそうになったとしても。

人は、やはり列車の中で、駅弁を食べてしまうのだ。

しかし、そんな駅弁も、ひたひたと迫る食の変化の波は避けて通れないらしい。これまで駅弁と共に歩んできたJR時刻表から、なんと駅弁を示す「弁」の表示が消えてしまったのだ。

今、駅弁のあり方が変わろうとしている。

130年を超える駅弁の歴史、その始まりは?

さて、駅弁とは読んで字のごとく、駅や車内で販売されている弁当のことである。

駅弁の歴史は諸説あるが、現在の定説は、明治18(1885)年に宇都宮駅で白木屋が販売したのが始まりといわれている。上野と宇都宮間に日本鉄道が開通し、その旅客向けの販売だった。

弁当の中身は、至ってシンプル。竹の皮に包まれた握り飯2個、たくあん2切れのみ。現在の駅弁からは到底想像できない必要最低限の「ガチ車内飯」だったようだ。それでも、当時はまだ列車の本数も少なく、営業は赤字覚悟。当時の価格で、5銭という高額での販売も頷ける(※天丼は4銭ほどの値段とのこと)。

さて、現在の駅弁に多く見られる幕の内弁当が出てくるのは、もう少し先。駅弁が始まった3年後の明治21(1888)年だ。もともと幕の内弁当は、歌舞伎見物の際に客がその幕間に食すことで名付けられたことに由来する。駅弁での最初の幕の内弁当は、山陽線の神戸、姫路間の延伸がきっかけに姫路駅でつくられた。

その後、着々と各地の鉄道が開通するに伴って、明治末期から大正初期にかけて多くの駅弁が誕生する。以降、各地で様々な工夫を凝らした駅弁へと進化していくのである。

源ますのすしミュージアムに展示されている全国津々浦々の駅弁の掛け紙コレクション

いつでもどこでも誰とでも

駅弁の進化は、弁当の中身だけにとどまらず販売スタイルにも及んだ。

ひと昔前、古き良き昭和の時代では、肩から下げた駅弁売りや、移動式ワゴンでの販売の光景が、当たり前に駅のホームで見かけられた。団塊の世代にきけば、ホームで駅弁を買っていて、気付けば列車に乗り遅れたという苦い思い出がきっと披露されるに違いない。多分、10人に1人くらいの割合だろうか…。

昭和中期、富山駅での駅弁の販売の様子

しかし、今や駅弁は駅だけの弁当ではない。
「はあ?」という読者の声が聞こえそうだが、現実的な言い方をすれば、駅弁を「駅弁」として食する時代は終わったといえる。

というのも、時代が進むにつれ、移動式の販売から店舗型の売店、そして全国の駅弁を扱う駅弁屋が駅構内に次々と誕生した。それだけではない。駅弁の「駅」の意味を、場所ではなくブランドとして捉えるようになったのだ。駅とは関係のない全国のデパートやスーパーにおいて、「駅弁大会」と称して、全国の駅弁が簡単に手に入ることが実現した(ちなみに「簡単」には語弊がある。人気の駅弁を手に入れるには、開店前から並んで整理券をゲットしなければ即売り切れる)。

進化はこれだけにとどまらない。さらに究極の食べ方、上には上が存在する。

それが、「お取り寄せ」である。

自宅にいながら駅弁を食べる。それも、好きな時に好きなだけ。旅に出なくても誰とでも駅弁を楽しめる。「明日の晩御飯…ちょっと贅沢したいなあ。新しくできたイタリアンのお店にする?あっ。でも、旅気分で、家で豪華な駅弁とかありかも?」エンゲル係数を抜きに考えれば、お手軽に旅気分を味わえる駅弁は、自分へのご褒美として「褒めご飯」なる新たな地位を確立する可能性を十分に秘めている。

JR時刻表から駅弁の文字が消えた理由

こうして、駅弁が「駅や車内で食べる弁当」から「お手軽に地方の特産物などを楽しめて旅気分に浸れるプチ贅沢弁当」へと変化した背景には、IoT時代特有の「便利さ」がある。

この変化を象徴するがごとく、今秋よりJR時刻表の駅弁表示が削除された。

もともと、JR時刻表には、各駅名の横に「弁」という文字が表示されていた。「弁」とは駅弁の略語である。その駅で発売している駅弁があれば「弁」のマークが入り、銘柄と値段が一番下の欄外に併せて表記されていたのだ。しかし、2019年9月号を最後に、駅弁表示は時刻表から姿を消してしまう(※なお、JTB時刻表を確認するとそのまま表示は継続されている)。

その理由を、JR時刻表を発行する交通新聞社に取材すると、以下の返答があった。
メール文をそのまま引用する。

JR 時刻表「駅弁情報」掲載終了につきまして
お問い合わせいただきました、駅弁情報掲載終了につきましてご回答いたします。
近年、インターネットや SNS の普及に伴い、お客様がいつでも情報を簡単に手に入れられる時代になっており、駅弁を取り巻く環境も大きく様変わりしております。駅売店のコンビニ化や「駅ナカ」の出店などにより、お客様の選択肢も広がりました。このような時代背景を考慮し、やむを得ず掲載を終了する苦渋の判断となりました。

駅弁をどのように食するか、この選択権が駅弁を提供する側から受ける側へと移ったといえる。もはや駅弁は、発売された「駅」という枠を超えた一つの「食文化」なのだ。

駅弁の存在価値はどこに向かう?

それでは、駅弁の作り手側としては、食の変化の波をどのように感じているのだろうか。

話を伺ったのは、駅弁屋として100年の歴史を持つ富山ますのすし本舗『源』。

ますのすし本舗『源』が販売している駅弁「特選ますのすし」

『源』が駅弁として、ますのすしを販売し始めたのは、大正元(1912)年。当時はなかなか売れず、初日の販売数はサンドイッチやあんころもちなど全て合わせて26食。戦時中も鉄工所の炊事場を借りて駅弁を作っていたという。

そもそも、そこまでして駅弁を作る思いはどこからきているのだろうか。
創業者が駅弁を始めた理由。それは、長旅をしてきたお客様、観光客を郷土の味で癒したいという純粋なおもてなしの気持ちからだったという。そのため、もともと経営していた高級料亭でも鱒寿司を出してはいたが、より美味しいモノをとの思いで、自ら門戸を叩いてまで鱒寿司の修行に出たエピソードが残っている。

ますのすし本舗『源』の広報担当者はこう話す。
「『旅人の心を郷土の味で癒したい』本当にいい言葉です」

その『源』も食の変化の波にさらされている。現在、『源』では、全国の百貨店やスーパーでの販売が売り上げの半分を占め、沖縄県以外の全国に発送もしている。駅弁屋が全国的に厳しい産業となりつつあるとの自覚はあるが、富山の郷土食がここまでの地位を得たのは、駅弁という販売スタイルゆえの結果だという。

今後ももちろん、駅弁を守り続けながらますのすしを作り続ける。
「お弁当も進化してきています。否定はしませんが、昔の人がお弁当にこめた特別な思いを伝えていきたいです」

駅弁は今や、1つの日本の食文化を形成し、さらに海外へと輸入されるところまで歩み続けている。ただ、個人の見解としては、駅弁ならではの趣きが置き去りにされているような気がしてならない。もちろん、食すことを考えれば、弁当の中身も大切だ。そこに全くもって異論はない。

しかし、中身がくっきり映し出された写真ではなく、地域の旅情が感じられる包み紙を開ける楽しみを味わいたい。わざわざ駅まで列車に乗ってたどり着く、その行程を味わいたい。そして何より、作り手の思いを一口ずつ噛みしめたい。

欲しいものが簡単に手に入る世の中だからこそ、駅弁を「駅弁」として食べたいと思う。

基本情報

店舗名:Tokyo Station City Central Street 駅弁屋「祭」
住所:東京都千代田区丸の内1-9-1 JR東京駅構内 グランスタ内
営業時間:5:30~23:00
電話番号:03-3212-1889
公式webサイト

店舗名:駅弁屋「頂」新宿店
住所:東京都新宿区新宿3-38-1 JR新宿駅内南口コンコースJR新宿駅(改札内)
営業時間:6:30~22:00
電話番号:03-3370-4080
公式webサイト

店舗名:JR東海パッセンジャーズ 新大阪旬菜 乗換店
住所:大阪市淀川区西中島5丁目16番1号(新大阪駅/新幹線乗換口改札内)
営業時間:5:45~22:00(金曜日は22:30) 
電話番号:0120-596-010
公式webサイト