今では大阪を代表するビジネス街となった大阪城周辺ですが、400年ほど前には大坂冬の陣・夏の陣が繰り広げられた歴史の大舞台。今でも当時の様子を伝える歴史スポットが数多く残り、歴史ファンにとっては街歩きが楽しいエリアです。
注目したいのは、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の娘で、細川忠興に嫁いだ絶世の美女といわれる細川ガラシャ(個人的には戦国1の美女だと思っている)。ガラシャが辞世の句を詠んだ後に壮絶な最期を迎えた場所も、大阪城の近くに残っています。
2016年の大河ドラマ「真田丸」ゆかりの地とあわせてご案内しましょう。
天王寺から玉造周辺 ~真田丸めぐり~
まずは大阪市内に数多く残る真田幸村ゆかりの地を訪ねましょう。大阪には秀吉亡き後の豊臣方と徳川方による「大坂の陣」の名残が各地にあり、大阪市内では天王寺公園内の茶臼山と、玉造周辺が特に知られています。
真田幸村の本陣 茶臼山
天王寺公園内にある茶臼山は、大阪夏の陣で真田幸村の本陣として「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった場所。山頂の標高は26メートル。山というよりは古墳のようなこんもりとした丘なので、あっという間に登頂できます。ちなみに茶臼山登頂証明書は近くの一心寺でもらうことができます。
山頂には大坂夏の陣に関するパネルや地図が展示されています。私が子どもの頃はこのようなものはなかったのですが、NHK大河ドラマ「真田丸」をきっかけに整備が進みました。
夏の陣ばかりに注目が集まりますが、実は冬の陣ではこの茶臼山一帯は徳川家康の本陣だった場所。あまり知られていませんが、近くの堀越神社には家康を救ったお稲荷さんがひっそりと祀られています。
家康をあと一歩のところまで追い詰め、豊臣家の忠義に散った真田幸村。「家康が恐れた、戦国ただ一人の武将」と誉れ高い真田幸村を、大阪人は太閤さん(秀吉)とともにことのほか贔屓にしているのです。ですから、家康を救ったこのお稲荷さんがひっそりと祀られているのも「さもありなん」といったところでしょう。
真田幸村最期の地 安居神社
茶臼山の北には真田幸村が最期を遂げた場所「安居神社(やすいじんじゃ)」があります。茶臼山からは歩いて5分程度ですのでセットで訪れるといいでしょう。幸村は神社近くの松の木の下で動けなくなっていたところを敵方に討ち取られたと伝わっています。境内には幸村の像と、「真田幸村戦士跡之碑」という石碑があり、石碑の前にはいつ訪れても日本酒や、5円玉を並べて作った六文銭がお供えされています。
真田の抜け穴伝説
玉造周辺には冬の陣ゆかりのスポットが多く残ります。
中でも有名なのが「真田の抜け穴」。大阪市内で生まれ育った私は小さい頃から周りの大人たちに「あそこは大阪城に繋がっていて、幸村が通ったんやで」と教えられておりました(笑)
六文銭を模した鉄扉で閉められていて中には入れませんが、歴史ロマンを感じるスポットです。
真田幸村出丸城跡
玉造周辺は真田丸があったとされる場所ですが、未だにはっきりとしたことはわかっていません。写真の心眼寺坂沿いには「真田幸村出丸城跡」という石碑がありますが、比較的新しいもののようです。
この辺りの地形は起伏が激しく、特に餌差町交差点を頂点にして東西南北に下り坂になっていて真田丸の怪しさプンプンです。真田丸の場所として有力な説は、三光神社から鎌八幡(餌差町交差点北西角)までの広い範囲というものです。
わからないからこそ楽しみもひとしお。実際にこの辺りを歩き回ってみてください。起伏の激しい地形に歴史好きはワクワクすること間違いなしです。
玉造から森ノ宮周辺 ~ガラシャゆかりの地~
真田丸めぐりが終わったらそのまま北(大阪城方面)へ。このまま徒歩で細川ガラシャゆかりの地をめぐることができます。
カトリック玉造教会
玉造カトリック教会の大聖堂前広場の両端には、キリシタン大名・高山右近と細川ガラシャの石像が置かれています。大聖堂で行われるミサはどなたでも参加できますが、観光目的なら信者の方に迷惑にならないように注意して、外から楽しむといいでしょう。
教会の植え込みには細川ガラシャや高山右近に関するパネルが置かれています。
織田信長や豊臣秀吉ら天下人にも仕えた高山右近は、千利休の弟子「利休七哲」の一人としても知られています。キリシタン大名としても有名で、黒田官兵衛や蒲生氏郷を入信に導いたのも右近だったといわれています。禁教令によって国外追放となった後はマニラでその生涯を終え、2017年になってローマ教皇庁から福者とされました。
戦国時代の美女と言えば、必ず名前が挙がるのが信長の妹お市と、明智光秀の娘で細川忠興に嫁いだ玉(のちの細川ガラシャ)。玉の美しさは、夫の忠興が他の男を近づかせたくないほどだったとか。忠興はエキセントリックな性格で、玉の美しさに見とれた植木職人を手打ちにしたという有名な話も残っています。
玉は父光秀が起こした本能寺の変の後、謀反人の娘ということで生活が一変。夫忠興によって味土野(京丹後)に幽閉されました。玉はのちに大阪の細川屋敷で暮らすことになりましたが、ここで忠興によって語られる右近のカトリックの教えに触れることになり、次第にその教えに傾倒していきました。そして、忠興の留守に教会を訪ねてからは洗礼を受けることを強く望むようになりました。
玉は美しいだけではなく非常に聡明な女性であったようで、後に教会の修道士が「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と、その印象を述べています。
道の真ん中に現れる「越中井」
玉造教会から1分ほど北へ歩くと、それまで真っすぐだった道が突然何かを避けるように不自然に曲がっている場所に行き当たります。ここが越中井(えっちゅうい)、細川大阪屋敷があった場所です。
道には「細川越中守忠興屋敷跡」の標し。越中守(えっちゅうのかみ)の井戸ということで「越中井」と呼ばれていて、今の大阪城の堀から歩いてほんの3~4分の場所です。
屋敷内で見張られていて外出することができなかった玉は、先に洗礼を受けさせた侍女のマリアを介して屋敷で「ガラシャ」の洗礼名を受け、晴れてキリスト教信者となれたのです。
再び玉の運命を大きく動かしたのが関ヶ原の戦い。忠興は上杉征伐出陣の際に「もし自分の不在の折に妻の名誉に危険が生じたならば、まず妻を殺し、全員切腹して死ぬように」と家臣に残していきました。
忠興が出陣している隙を狙って、石田三成は細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを拒みました。ガラシャは侍女たちを逃し、家老の小笠原秀清(少斎)に胸を突かせて(諸説あり)、キリスト教で禁じられている自害ではない方法で最期を迎えたのでした。小笠原秀清も屋敷に火をつけた後に自刃して果てています。
越中井として残った井戸は屋敷内にあった井戸で、この場所で玉が果てたということではないようですが、この辺り一帯が玉が最期を迎えた屋敷跡とされています。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
「花も人も散りどきを心得るからこそ美しい」
ガラシャの辞世の句は、戦国の世に生きた彼女の哲学・美学が痛いほど溢れています。
石田三成はガラシャの壮絶な最期を聞き、諸大名の妻子を人質にする作戦を諦めたといいます。