墨の香や 奈良の都の 古梅園
「墨の香や 奈良の都の 古梅園」と、夏目漱石が詠んだ墨匠は、今も興福寺にほど近い一角でその香りを漂わせています。
墨は単位を丁(1丁15g)とし、古梅園では昨年1年間に6万丁を送り出しました。手がける職人は若干5名。墨は煤と膠を練り上げ、香料を加えて成形、乾燥させてつくられますが、その工程はおそるべき緻密さと根気を必要とします。
中国や韓国など漢字文化圏ですでにショートカットされた工程も、ここでは全身全霊で行われているため、自国で失われた墨の精度を求め、東アジアからの購入者が絶えません。
上質な墨は微妙な加減が命。 機械では及ばない世界がある
製墨法が日本に伝わったのは610年、高句麗(こうくり)の僧・曇朝(どんちょう)によるとされ、奈良時代には仏教の隆盛とともに写経に使う墨の需要が増大。奈良は一躍、墨づくりの中心地となりました。
1400年ごろに興福寺で油を燃やした際の煤から油煙墨(ゆえんぼく)がつくられると、松脂(まつやに)を燃やした煤を使う古来の松煙墨(しょうえんぼく)よりも粒子が細かく深い色合いをもつことから好まれ、奈良墨を代表するアイテムとなりました。
もんだあと、梨の木の墨型で一品一品型入れをする。
歴史的製法を守り続ける「古梅園」
1577年に創業の古梅園はこの歴史的製法を守り続けています。採煙蔵(さいえんぐら)と呼ぶ土蔵に植物油(菜種油(なためあぶら)が主流)を注いだ200枚の素焼きの皿が並び、灯芯に火が灯されます。そして炎の上方に設置した土器で煤を溜(た)め採る仕組みです。炎の大きさや油の種類で煤の質が決まるため、常に熟練の職人が張り付き、200の揺れる炎を均一に管理しています。この仕組みを維持する墨匠は奈良でも今やここだけです。
煤に湯煎した膠を加え、全身を真っ黒にしてもむ。この練れ具合が墨の命。
墨は実用品であるとともに工芸品でもあった
古梅園の技術発展には何人かの中興の祖の存在があります。元禄時代に生を受けた6代目・元泰(げんたい)は、長崎で清の人々に製墨の教えを請い、自製の煤をかの地で墨に仕立ててもらうなど鎖国下で幕府公認のもと奇跡の交流を重ねました。
続く7代目・元彙(げんい)は牛や鹿だけでなく魚や草木からも膠をとり、効果を研究。享保の時、ベトナムから連れてこられた象が病死すると、その皮は幕府から古梅園に下賜(かし)されたといいます。このように広い視野で墨の美を求めた国際人たる当主たちによって、古梅園の製墨の技と美意識が、研ぎ澄まされてきたのです。
木灰に埋めて水分を七割抜いた墨を、半月から3か月、天井から吊して自然乾燥させる。
しっとりとして見るからに端正な古梅園の墨。墨と墨を軽く打つと澄んだ金属音を響かせるのは、丹念に乾燥させられた証です。硯の上で磨(す)れば指先に墨の密度が伝わり、清い香りとともに、艶やかで深い墨色が立ち現れる。
その揺るぎない存在感は、歴史の記録や内外の文化伝達に寄与してきた墨という道具が、日本文化の陰の立役者だと、問わず語りに伝えています。
徳川幕府にも納めた歴史的墨を保管。
-2014年和樂7月号より-
-撮影/伊藤信-