映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(以下BTTF)が地上波で放映され、大きな話題になっている。今の20代がこの作品を見てハマった、ということも相次いでいるようだ。
BTTFの主人公は、1985年の男子高校生マーティ・マクフライ。彼はカリフォルニア州の住宅街に住んでいるが、この当時のアメリカ西海岸には数多くの日系メーカー製品が流通していた。マーティのはめている腕時計はカシオ、憧れのピックアップトラックはトヨタ、そして親友の科学者「ドク」ことエメット・ブラウン博士が実験に使用していたストップウォッチはセイコーとシチズン。この作品のところどころに、あらゆる日本製品が登場する。
こうした光景は、マーティがタイムスリップした先の1955年にはあり得ない現象だった。しかしよくよく考えてみると、1985年の「日本製ブーム」に至る最初のアクションは、偶然にも1955年から始まったのだ。
マーティの旅した「1955年」
ここで改めてBTTFのあらすじを解説しよう。
主人公マーティ・マクフライは、親友のドクが開発したタイムマシンの実験に立ち会う。それはデロリアンに次元転移装置を取り付けたもので、1.21ジゴワットの電力を発生させるためにプルトニウムを使用する。そのプルトニウムは、リビアの過激派勢力を騙して盗んだものだった。
デロリアンのタイムスリップの実験は成功したものの、その直後にリビア過激派がやって来てドクは射殺される。マーティはその場から逃げるため、デロリアンに乗って走り出す。しかしこの時、次元転移装置の設定を1955年11月5日にしていることを彼は忘れていた。デロリアンはそのまま30年前にタイムスリップしてしまう。
そこで彼は、若き日の両親に出会った。気弱ないじめられっ子の父ジョージと、いささか惚れっぽい性格の母ロレイン。史実ではふたりは1955年に知り合って恋に落ちるはずだが、何とロレインはマーティに惚れてしまった。このままでは、マーティはこの世に存在しないことになってしまう。何とかふたりを引き合わせようとするマーティだが、そこへ不良のビフがやって来てさらなる騒動が——。
1955年といえば、日本では昭和30年である。白黒テレビの放映は既に始まっているが、一般庶民にとってテレビ受像機は高嶺の花。これと冷蔵庫、電気洗濯機を加えた組み合わせは「三種の神器」と呼ばれ、誰しもが憧れた。
一方で、日本の製造メーカーの躍進はこの年から始まった。
トランジスタラジオの発売開始
1955年8月、東京通信工業がTR-55という製品を発表した。これは日本初の一般販売向けトランジスタラジオ。「片手で持てるラジオ」ということで、消費者から大いに注目された。
この当時のトランジスタラジオは音量と明瞭度の面で真空管ラジオに及ばなかったものの、TR-55をきっかけに東京通信工業は製品のさらなる改良に注力する。トランジスタラジオは一過性の製品には終わらなかったということだ。
これは半導体素子の進化に関わる分岐点でもあった。
1950年代前半の電子計算機は、まるで洋服箪笥のような大きさの代物である。四則演算をするにもボタンと配線をガチャガチャと組み替えてようやく答えが導き出せる、というものだ。これを小型化かつ簡略化するには、トランジスタの存在が欠かせない。我々現代人が手にしているノートPCやスマートフォンの系譜をたどっていくと、東京通信工業のトランジスタラジオに突き当たる。
BTTFでも、マーティがカシオのデータバンクシリーズの腕時計を装着している。これは電卓機能も備えたデジタル式時計。1985年当時、このデータバンクこそが「スマートウォッチ」だった。多機能かつ高耐久、しかも安価。新しもの好きのアメリカ西海岸の若者がこれを愛用していることは、決して不自然ではない。なお、東京通信工業は現代ではソニーと呼ばれている。
初代クラウンも55年生まれ
マーティには夢がある。
それはトヨタのピックアップトラックを手に入れ、恋人のジェニファーとドライブに出かけることだ。1985年といえば、デトロイト問題の真っ最中である。日本では「貿易摩擦」と呼ばれているこの事態は、アメリカ国内でアメリカ車よりも日本車のほうが売れていたことに起因する。日本車は燃費が良くて耐久性にも優れているという評価が、長年の自動車産業都市であるデトロイトを押し潰していた。「アメ車はデカくて燃費が悪い」というのは今でも言われている固定概念だが、GMを始めとする80年代のアメリカメーカーは本当に大型車しか製造できない状態だった。それは大型車と小型車では販売価格に大きな差があるのにもかかわらず、製造原価はあまり変わらなかったからだ。特に全従業員の健康保険と年金を保障していたGMは、利益還元率の高い大型車をひたすら作り続けるしかなかった。
そこを日系メーカーに突かれたわけだが、マーティがタイムスリップした1955年のアメリカではもちろん日本製の影すら見当たらない。悪役の不良少年ビフが乗っていたのは、46年型フォード・コンバーチブルである。もしもこの時代に日本製の車をアメリカで乗り回していたら、周囲から笑われたに違いない。
BTTF3にこんなシーンがある。1955年のドクが、壊れたデロリアンの部品を見てこう言った。「ああ、これは壊れるはずだ。こいつはメイド・イン・ジャパンだ」。しかしマーティはこう言い返す。「何言ってんのドク? いいものはみんな日本製だよ」。
ドクの一言は、この時代のアメリカ人の一般的見解だ。しかし同じ頃の日本では、マーティのピックアップトラックにつながる車種が既に登場していた。
トヨタ・クラウンである。その初代モデルは1955年1月に発売が始まった。
当時の日系自動車メーカーは、海外モデルのノックダウン生産に明け暮れていた。これは世界最先端の乗用車のテクノロジーを学ぶには最適な手段ではあるが、実際にやっていることは下請けに過ぎない。その中でトヨタは、日本国内の他社に先駆けて独自の技術とアイデンティティーによる乗用車生産に踏み切った。
ボディーはアメ車の面影を受け継いでいるが、足回りは日本の悪路にも屈しない耐久性が付与された。フォードとGMの支配下に置かれていた日本の乗用車市場において、クラウンは一筋の希望となった。まずはタクシー会社がクラウンを採用し、続いてハイヤー会社が、さらに富裕層の消費者が興味を示した。以降、クラウンは高級車としての地位を確立していく。
いいものはみんな日本製なんだよ、ドク
BTTFは、ある意味では懐古的な映画である。
アメリカにとって、1955年は繁栄の真っ只中の時期だった。ブレトン・ウッズ体制下の固定相場は、アメリカドルを世界最強の通貨に昇格させた。アメリカ人は世界各地のモノを買い漁り、ヨーロッパや日本を旅行し、呆れるほど巨大なマッスルカーを生産した。30年後にGM車がトヨタ車に置き換わってしまうことなど、露ほどにも想像しなかった。
が、実際はこの1955年から時計の針は動き出していたのだ。メイド・イン・ジャパン快進撃の始まりは、もはや誰にも改変できないほどの大きなうねりとなっていく。