Culture
2020.07.14

開幕3カ月前、選手0人!?度重なる危機を市民の情熱が救った、広島カープの歴史

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広島東洋カープを応援する女性を指す「カープ女子」という言葉が流行語になってからずいぶんと年月が経ちました。今では「カープ女子」がもはや当たり前の存在になったからか、かえってその言葉を聞かなくなった感さえあります。

しかし、昨今はチケットも満足に取れないほどの大人気球団になったカープに、長い苦難の歴史があったことをご存じでしょうか。10年近く野球を見ている方ならなんとなくは分かると思いますが、本当に「ヤバかった」のは戦後に球団が出来てからの数年間でした。金もなく、選手もなく、リーグ首脳陣にも嫌われていたカープ。そんなチームは、なぜ今まで解散することなく球団であり続けたのでしょうか。

結論から言えば、関係者やファンの「熱い思い」が、チームを支え続けたからです。「でも、お金に関しては情熱だけだとどうにもならないでしょ」そう言われてしまうかもしれません。が、監督や選手たちはもちろんのこと、広島市民が一丸となって奔走し、普通なら不可能に思える「驚きの資金調達法」によって球団存続を勝ち取ったのです。

アフターコロナの時代、どこのスポーツ団体も「資金問題」は他人事ではありません。「もし、あなたのチームがお金に困ったら……」そんな思いで、記事を読んでみてください。

戦後復興を目的に、野球王国・広島にプロ球団が誕生

広島カープという球団が誕生したのは、昭和24(1949)年のことでした。もともと、日本職業野球連盟(現在の日本野球機構)は戦前に誕生し、現代でもトップクラスの人気を誇る読売ジャイアンツや阪神タイガースも職業野球草創期から活躍するチームでした。そう考えると、カープが生まれたのは少し遅れてのことになります。

では、なぜこのタイミングで広島に新球団を創ったのでしょうか。ここには、日本の歴史と切っても切り離せない因果があります。

球団の誕生からさかのぼること約8年前の1941年、日本は真珠湾攻撃をもってアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が幕を開けました。緒戦は連戦連勝で気をよくしていた日本軍ですが、ミッドウェー海戦での大敗やガダルカナル島からの撤退を契機に戦況が悪化し、1945年にはすでに敗色が濃厚となっていました。そんな日本の息の根を止めるべく、アメリカ軍が原子爆弾を広島と長崎に投下し、甚大な被害が出たことは皆さんもよくご存じでしょう。そして、当然ながら原爆は「落ちて終わり」ではありません。終戦後、広島・長崎の人々は放射線による影響と戦いながら、戦地の復興を目指して奮闘しました。

しかし、文字通り「全て」を奪われた人たちは復興に向けて完全に気持ちを切り替えられるはずもなく、街はどこか無力感にさいなまれていたといいます。そんな時、戦後になってにわかに人気を集めていたプロ野球リーグに参戦するチームを創設し、広島の街や人に勇気を与えようという発想が生まれたのです。

今も当時も、プロ球団を運営するのは発生する膨大な費用をまかなうことのできる大企業と相場が決まっています。そのため、カープの創設に関しても地元の中国新聞社や企業などが運営を担うべく話し合いを重ねました。ところが、被爆した広島には球団の親会社になれるような体力のある大企業はありません。そこで、球団創設の中心となって活躍した広島出身の元山梨県知事・谷川昇(たにかわのぼる)は「親会社がないなら、県と市民で球団を支えればいい」と、未だ日本のプロ野球には存在しなかった市民球団方式の運営を目指します。

こうした発想に至ることができたのは、広島という地域自体は戦前から「学生野球王国」として知られており、数多くの名門中学(現在の学制でいえば高校)を擁していたことが理由です。野球熱が非常に高い地域で、それゆえに困難な市民球団という道を突き進めると確信したのでしょう。実際、球団の誕生を知った市民は歓喜し、町中のウワサになったといいます。

金なし、選手なしのチームを支えた石本

人々の思いを背負って誕生した広島カープは、1950年のセ・リーグ参加を目指して動き出しました。しかし、信じられないことに開幕を約3か月後に控えた時期には、まだ選手の一人はおろか監督さえも決まっていなかったといいます。そんなヤバすぎる球団でしたが、広島出身のある男が監督の座につきました。その男の名は、石本秀一(いしもとしゅういち)。広島出身で、選手時代は広島商業中学で甲子園へ二度出場。監督としても広島商業を4度の全国制覇に導き、職業野球の世界でも2度の日本一を経験した紛れもない名将でした。

そんな石本がなぜカープの監督に就任したかといえば、彼が当時球界で監督としての居場所を失いつつあったことが挙げられます。1949年は太陽ロビンス(現在の横浜DeNAベイスターズに連なる球団)を率いましたが、リーグではあえなく圧倒的最下位に終わりました。加えて当時の彼は球界の監督でも高齢になる52歳であり、最後に何としてももう一仕事をやってのけたいという思いがあったようです。

自分の活躍する場を今か今かと待ち望んでいた石本にとって、故郷・広島に誕生するカープの監督就任依頼は渡りに船でした。すでに新球団が誕生するかもしれないという報道の時点でご指名がかかるのを期待していたとも言われ、自分なりに新球団の構想を抱いて関係者と対面しました。石本はそこで初めて「申し訳ないけど、お金はないんだ。あと、誰一人選手も集まってなくて……」という「死刑宣告」を聞かされたといいます。彼は「あ然」としてしまいましたが、ともかく選手を集めないことには野球ができません。こうして、苦難のカープ監督時代が幕を開けたのでした。

すでに当時は選手の獲得合戦が始まっており、全く手持ちの無いカープはそれに対抗することができません。加えて野球界に人脈があるのは石本ただ一人という惨状で、彼はツテを頼って全国を駆け回り選手を集めました。結局、大物と呼べる選手は「将来の監督就任」を条件に移籍金なしで獲得した元巨人の白石勝巳(しらいしかつみ)くらいであり、他は峠を過ぎた選手か入団テストに参加した無名の選手だらけという有様。彼らは廃屋寸前の選手寮に入り、ボロボロのユニフォームとひもじい食事だけで不安を抱えながら練習しました。石本も彼らの気持ちは痛いほど理解していたでしょうが、彼にはどうすることもできない性質の問題でした。そのため、石本はひたすらに猛練習を課すことでチームを強くし、考え得るすべての技術を自ら実践して彼らに示したのです。

運営資金が底を尽きるも、募金と勝負強さで粘った

開幕後の戦績が芳しくないのはやむを得ないことでしたが、さっそく運営面の資金繰りに苦しむようになります。運営を担うはずの「広島野球倶楽部」には自治体からの出資が遅れ、株式の申し込みが滞っていました。リーグの加盟金が全額払えず、速やかな支払いが行われない場合は所属の取り消しを通告されます。さらに遠征費もまかなえなくなっていき、給料の支払いも満足になされなくなっていきました。「もう球団を頼ることはできない」そう痛感した石本は、自ら地元企業をかけずり回って出資のお願いを続けました。また、入場料を払わない「タダ見」の客を石本が監視し、少しでも球団の収入を増やそうとします。

もちろんこんな状況では勝てるものも勝てず、成績はリーグ最下位。加えて、あまりの財政難ぶりに大洋ホエールズとの合併話が持ち上がるほどでした。しかし、「大洋と合併すれば選手のほとんどは首になる」と知っていた石本は存続を訴えて猛抗議し、地元の人たちもカープを支えるために声を上げました。結果、石本は球団の存続に必要な費用を「市民の募金」に頼ることでまかなおうとし、球場の入り口に大きな樽を2つ置いて募金を呼びかけました。これは「樽募金」としてカープの名物になり、樽がいっぱいになると試合前に市民代表が石本に贈呈するセレモニーが恒例行事になっていったそう。

町ではボランティアが必死になって募金を呼び掛け、石本と選手たちはどんな小さな集まりにも顔を出し、選手たちが歌を熱唱するショーまで開催しました。まさに「出来ることはなんでもやる」という姿勢を見せたのです。

加えて、この翌年の1952年にはリーグの理事会で「勝率3割以下の球団は解散」という文言が取り決められ、ここまで2年連続最下位になっていた広島を潰そうとしているのは明らかでした。ただ、リーグの理事たちからすればマトモな親会社もなく、経営状況も最悪に近いカープを潰したがったのは無理もないかもしれません。この年も確かにカープは弱かったのですが、夏場に奮起して最終勝率はなんとか3割をクリア。球団創設以来初の最下位脱出を果たすとともに、解散を免れることができたのです。ちなみに、この年に勝率3割を下回った松竹ロビンスは本当に解散させられてしまったので、カープの解散も単なる脅しではありませんでした。

また、この年には樽募金の目標額が達成され、ようやく球団の存続に道筋が見えたのでした。

今やセ・リーグの強豪人気球団に

確かに球団は解散を逃れたのですが、やはり資金難に変わりはありませんでした。数多くの企業に出資を呼びかけましたが赤字は膨らみ、なかなか勝てない時期が続きます。すると観客の熱も徐々に冷めていき、あれだけ球団を支えてくれたファンが減り始めていったのです。そのため、1967年には東洋工業株式会社(現在のマツダ自動車)による買収を受け入れ、社長の松田恒次(まつだつねじ)がオーナーになりました。球団名も「広島東洋カープ」になり、形式上は市民球団ではなくなったのですが、東洋工業はあくまで球団経営への介入を控えたため、今でも「市民球団らしさ」は残されています。

そして、1970年代になると山本浩二(やまもとこうじ)や衣笠祥雄(きぬがささちお)ら「赤ヘル軍団」が躍動するようになり、1975年には初のリーグ優勝を達成。その後は球団経営も安定しますが、2000年代には「球界のお荷物」と揶揄された横浜ベイスターズの影に隠れつつも、リーグ5位が指定席になっていたのは記憶に新しいでしょう。

しかし、2010年代に入ると若い選手たちが徐々に芽を出し始め、野村謙二郎(のむらけんじろう)監督のもとでAクラスにも顔をのぞかせるようになりました。そして、2016年には25年ぶりのリーグ優勝を果たし、空前のカープブームが訪れたことはご存じの通り。現在でもカープの試合はチケット購入の難易度が12球団屈指であり、あまり歓迎すべきではありませんが定価の倍以上の価格で転売に出されることも珍しくありません。

やはり、私の世代だとまだカープには「貧乏で弱小」というイメージがどうしても消えません。が、今の子どもたちが大きくなるころには、カープは常勝の人気球団と見なされるようになっても不思議ではないでしょう。しかし、どうしようもない球団であった広島カープを支えた石本や選手たち、そして広島という地域全体の情熱は、忘れられることなく語り継いでいきたいものです。

書いた人

学生時代から活動しているフリーライター。大学で歴史学を専攻していたため、歴史には強い。おカタい雰囲気の卒論が多い中、テーマに「野球の歴史」を取り上げ、やや悪目立ちしながらもなんとか試験に合格した。その経験から、野球記事にも挑戦している。もちろん野球観戦も好きで、DeNAファンとしてハマスタにも出没!?