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2020.07.13

カラーテレビの生産48倍!あの国民的チョコの名前にも!「アポロ11号」が日本人に与えたインパクト

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「これは一人の人間にとって小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」――。人類で初めて月面に降り立った米国の宇宙飛行士、アームストロング船長の着地第一声である。

1969年7月20日(日本では21日)、米国の有人宇宙船アポロ11号が「静かの海」と呼ばれる月面に軟着陸し、同船長とオルドリン操縦士が足跡を残した。その模様は全世界に生中継された。投じられた費用の大きさから、米国内には計画自体を疑問視する向きもあった。

ともあれ、技術的にも学術的にも数多くの成果を導いたこの計画の全貌や意義を論じた書物は多い。軍事に触れる要素が絡むことから当時伏せられていた事項や秘蔵映像なども、今日ではたやすく読んだり見たりできる。

偉業達成から半世紀。米国が国策として挑んだアポロ計画が日本の暮らしにもたらした影響のいくつかを、センセーショナルにではなく、リアルに生中継に見入った当事者の一人として振り返ってみたい。

月を目指した11機の米国製有人宇宙船

ロックバンド、ポルノグラフィティのメジャーデビューシングル『アポロ』の歌詞には、曲名にもなったアポロ11号が月に行ったエピソードが印象的に織り込まれている。この11号こそ、人類を初めて月に送り込み、その地面に立たせた宇宙船である。

月面での重要ミッションである星条旗の掲揚。無風なので水平棒で形を整えた

アポロは17号まで打ち上げられた。1~6号までは無人飛行。7号から3人の宇宙飛行士が乗り込むようになった。有人で臨んだ7~17号のうち、13号は月への途上、機体の一部で起きた爆発事故のために月面着陸を断念。この事故は忌み嫌われる「13」という数字が招いたものだとまことしやかに噂された。

事故を受けて、計画の指揮を執るNASA(米航空宇宙局)がどのように無事に帰還させるかに世界は注目した。国内外のメディアは連日、対応する現場の模様を報道。後に、この出来事を題材にした映画がトム・ハンクス主演で公開された。

17号までのミッションで蓄積された経験や知見、得られた膨大なデータなどは米国の宇宙ステーション「スカイラブ」や国際宇宙ステーション「ISS」、一部を繰り返し使える宇宙船「スペースシャトル」の開発や運用などに生かされた。

後年、ライバルのアポロ(米)とソユーズ(ソ)は宇宙空間でドッキングし、ISSへの道を開いた

そもそもアポロ計画とはなんだったのか

「1960年代中に人類を月に送る」――。米国が国家の威信をかけた一大宇宙プロジェクト「アポロ計画」は故ケネディ大統領のこの言葉で動き出した。

人工衛星や有人衛星分野における先陣争いでソ連に先を越されていた米国が巻き返しを図るには、宇宙飛行士を月に送るしかなかったからだ。宣言通り、期限まで5カ月を残して、米国は「公約」を果たす。

宇宙開発にしのぎを削る米ソが一番乗りをかけて目指した目的地

戦後の宇宙開発史では常にソ連が一歩リードしていた。宇宙空間に放たれた人工衛星第一号の「スプートニク」(1957年10月)、ガガーリンの乗った有人宇宙船「ウォストーク」(1961年4月)など、草創期の宇宙開発はソ連が「人類初」を次々に達成。宇宙空間から眺めた地球の様子を例えたガガーリンの「地球は青かった」は流行語にもなった。

当時は宇宙のみならず、政治、経済、社会などのさまざまな面で米ソが覇権を競った。共産党解散を受けてソ連が解体される1991年から遡ると30年以上も前である。地上では米ソの代理戦争といわれるベトナム戦争の成り行きが世界の耳目を集めていた。

こうした状況下、宇宙開発面のさまざまなイベントでソ連の後塵を拝することに甘んじていた米国は明確な目標を打ち出す。ケネディの唱えた「60年代に人類を月に送る」計画である。

ざっと振り返ると、ソ連に遅れること4カ月、米国は1958年2月に初の人工衛星「エクスプローラー」の打ち上げに成功した。人工衛星の成功はそれを打ち上げる能力のあるロケットの保有を示す証しでもある。ミサイル発射に転用できる軍事技術と表裏一体であるが、その分析が本稿の目的ではないので、事実を記すにとどめる。

エクスプローラー以降、米国は通信衛星や気象観測衛星など使用目的に応じた多種多様の衛星を宇宙空間に送り込むことで技術的な精度を高めた。1961年5月には初の単独有人宇宙船「マーキュリー」が弾道飛行に成功。1965年3月には2人乗りの「ジェミニ」が軌道を回るなど、米国は関連ノウハウを着々と蓄積した。

3宇宙飛行士には異例の文化勲章を授与

人を月に立たせるという具体的な使命を帯びたアポロ計画は、こうした周到な準備を重ねたうえで始動。1966年2月に打ち上げられた無人機を皮切りに、17号までの歴史を刻む。

この間、13号が災難に見舞われたのは述べた通りだが、それに先立つ1967年1月、地上実験中に起きた火災事故で3人の宇宙飛行士が犠牲になった。そうした苦難を乗り越え、関係する数え切れぬほどの人たちの思いを背負って11号は月面を目指したのである。

月着陸船のハシゴを降りるオルドリン操縦士(先に降りたアームストロング船長が撮影)

9日間に及ぶミッションをすべて終え、乗組員3人が帰還したのは7月24日。検疫のための待機期間が明けた8月13日にはニューヨークで凱旋パレードが行われた。当時の新聞報道によると、快挙を成し遂げた彼らの雄姿を一目観ようと200万人が押し寄せた。

3人は夫人同伴で11月4日に来日し、オープンカーで銀座通りをパレード。「通りは12万の人で埋まり、沿道の商店では店の中まで舞い込んだ紙吹雪の後始末に大わらわだった」と新聞は伝える。

午後には皇居を訪れ天皇、皇后両陛下にあいさつ。滞在中に文化勲章を授与された。外国人としてはもちろん、学者、文学者、芸術家以外に与えられるのは初めてという異例の待遇であった。

アポロが変えた日本の暮らし

史上最高を記録したカラーテレビ生産高

1969年の重大ニュースの首位は当然のことながら「人類月に立つ」である。国内の家電メーカー各社はこのイベントを商機と考え、いち早くカラーテレビの増産体制を整えた。併せて販促にも力を注いだ。曰く「月面着陸をカラーで観よう!」。

1969年の工業統計(旧通産省)によると、同年のカラーテレビの出荷台数は約470万台。金額ベースでは約4640億円であった。生産台数は約483万台で1965年に比べてざっと48倍。わずか4年の増大ぶりには目を見張るばかりだ。業界団体の専門誌は「需要と供給両面でカラー時代が到来したといえる」と分析する。数字を押し上げたきっかけの一つが一連の“アポロ特需”であることは間違いないだろう。

一世を風靡した家具調テレビ。高度経済成長期を象徴する重厚なデザイン

この年、中学に進学したぼくは夏休み初日でもある日本時間の21日、親戚の家具調カラーテレビの前で「その瞬間」を待った。自宅のテレビはまだモノクロであったからだ。「月面着陸をカラーで観よう!」のキャンペーンコピーがネオンサインのように脳内を点滅する。中学生の好奇心はいとも簡単に掻き立てられた。

日本のテレビ各局はお祭り騒ぎで特番を組んだ。新聞のラジオ・テレビ欄には「きょうのアポロ番組」「アポロハイライト」「月面活動予定表」などと題したコラムが躍る。他面でも細かな活字で組まれた「アポロ11号飛行予定時刻表」や「アポロ11号のテレビ番組」「アポロ交信」が紙面を飾った。

最小活字で組まれたスケジュール表(中日新聞)

各局のスタジオは大同小異で、中央に中継を映す大型スクリーンを配し、司会者、解説者、同時通訳者が刻一刻と変わる画面の様子を伝えた。各局美術スタッフ渾身の模型が殺風景なスタジオを彩る。「本番」までの時間つなぎとして発射風景や月に至る経過、ヒューストン・ケネディ宇宙センターの管制室の様子などが繰り返し流され「その時」に備えた。

宇宙船と管制室は「ピッ」という短い電子音で互いに交信の区切りを知らせる。ピッの回数が頻繁になり、間隔も狭まってきた。世紀の瞬間が間もなく訪れることをうかがわせる。少年の胸も俄然高鳴る。

アポロ計画で使われた宇宙船は月面に降りる「月着陸船イーグル」とそれを再びドッキングして受け止める「司令船コロンビア」で構成される。イーグルの月面滞在中、コロンビアは月の周回軌道で再会を待つ。

中継画面が徐々に降下するイーグルの影を映し出した。この映像は今でもYouTubeなどで見ることができる。タランチュラの脚のような黒い影が画面の右上方から左下方にすうっと伸びる。月面に迫るイーグルの脚だ。一面モノトーンの世界。「あ、月面は灰色だ」と思う一方で、ある不安が少年の心によぎる。

無事、イーグルが月面に落ち着き、アームストロング船長が記念すべき第一声を発するに至って少年の不安は決定的になる。画面一杯に映し出された月の光景には色が着いていない。要するにモノクロなのだ。「カラーじゃないじゃん!」。

“2人目”に月面に立ったオルドリン操縦士(撮影したアームストロング船長の姿がヘルメットに映り込む)

同じように落胆した人は少なくないはずだ。カラー放送が叶わなかった最大の理由は放送機材の重量によるものだった。モノクロ中継が約3.3㎏であるのに対し、カラー用は約100㎏。厳しい重量制限のある月着陸船では1gの差が命取りになるからだ。かくして月面のカラー中継は幻となった。

大阪万博の目玉になった月の石

アポロ11号が「静かの海」から持ち帰った月の石の一部は1970年3月15日から6カ月間、183日にわたって開かれた日本万国博覧会(大阪万博70)のアメリカ館で展示された。月の石はダイヤの指輪のように、緩やかなアールを描いた特製の爪に固定され、恭(うやうや)しく飾り立てられた。

かなたの天体からはるばる運び込まれた世紀の逸品はアメリカ館のみならず、万博全体の大きな目玉となった。5時間待ち、3時間待ちなどと書かれたプラカードにひるむことなく、人々は列をなした。

モノクロ中継で肩透かしを食らった少年もその列に並んだ。月の石の色や形よりも、人の波にもまれ、息苦しい思いで少しずつ歩みを進めた行列体験のほうが記憶に残っている。現在、おおむね60歳以上の相当数の人が同じような体験をしているはずだ。

アポロ11号と同い年のチョコレート

商品をヒットさせるマーケティング上の早道は子どもの心を捉えることだ。明治製菓(現在は明治)はその具体策として、1969年8月に「アポロチョコレート」を商品化した。発売50年を超えるロングセラーである。

それまでの主流だった板チョコの概念を覆す三角錐のデザインが意表を突いた。宇宙飛行士と共に地球に帰還する司令船を模したものである。二層で側面に施されたギザギザ模様も斬新だった。

2020年3月には発売50周年を記念する特製アポロが登場。バウムクーヘンで有名なクラブハリエとのコラボレーションによる「大粒アポロ極上の一粒」を期間限定で発売した。

帰還したアポロ11号の指令船(上)とそれを模したアポロチョコレート(発売50周年記念版)

記事をまとめるにあたって板ガムの包み紙コレクションをひっくり返していたら、アポロの打ち上げから帰還までをイラストで描いた物件が見つかった。少年はそれらを一枚ずつ高さを変えて台紙に貼っていた。高度を表すための幼い工夫であったと思われる。

アポロの打ち上げから着水までをイラスト化した板ガムの包み紙

なりたい職業にもアポロの影が見え隠れ?

『現代っ子の「なりたい職業」は…』と題する朝日新聞の記事(1970年11月2日朝刊)によると、男子はエンジニアがトップ。以下、プロ野球選手、サラリーマン、パイロット、電気技師、医者、自家営業、科学者、建築設計士、マンガ家と続く。

首位のエンジニア、4位のパイロット、5位の電気技師、8位の科学者あたりに、前年のアポロ11号の影響を読み取ることができるのではないだろうか。

ちなみに女子のトップはスチュワーデス(CA)。以下、デザイナー、先生、看護婦(師)、タレント、ジャーナリスト、マンガ家、小説家、婦人警官、美容師の順であった。

壮大なマーケティング実証の場?

アポロ計画のハイライトである月面着陸は、戦後冷戦時代の二大勢力である米ソが互いに国の威信をかけて挑んだ宇宙開発競争の頂点の一つであった。

前代未聞の「宇宙ショー」に立ち会うために地球上のおびただしい数の人間がブラウン管式テレビの前で固唾(かたず)を飲んだ。その数は5億人とも7億人ともいわれる。

今日のようなインターネットは影も形もなく、ましてやSNSをはじめとする手軽な通信手段など想像さえできなかった時代、テレビはマスメディアの王として君臨した。

どうせ見物するならモノクロよりもカラーの方が良いという心理で、カラーテレビの出荷(生産)台数が飛躍的に伸びたのはすでに述べた通りである。

さまざまな価値観が多様化し、全体よりも個人の好みや考えが重要視される現代では、かつてのように一つのイベントで一つのものが爆発的に売れることはそうそうないだろう。

自粛期間の対策として急増したリモート勤務やオンライン授業で、中古品を含むパソコンや関連通信機器の需要が高まったことは記憶に新しい。しかし、かつてのカラーテレビほどの勢いはないと思う。

そう考えると、カラーテレビの国内出荷(生産)量を飛躍的に高めたアポロ計画は、結果的に人の心を地球規模で捉えた壮大なマーケティングを実証する場であったといえるかもしれない。

アームストロング船長が月面に残した人類最初の一歩

書いた人

「新聞記者、雑誌編集者を経て小さな編プロを営む。医療、製造業、経営分野を長く担当。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に』(©井上ひさし)書くことを心がける。東京五輪64、大阪万博70のリアルな体験者。人生で大抵のことはしてきた。愛知県生まれ。日々是高血圧。」