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2020.09.12

和歌の神様は絶世の美女だった!藤原定家も紫式部も注目の「衣通姫」って何者?

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神代の時代から日本では「和歌」がとても重要な役割を果たしていました。求婚や政(まつりごと)など人生の一大イベントでの勝負は和歌が上手に詠めるか否かにかかっていましたし、気軽に旅などできない時代には、和歌は今のSNSと同じような拡散力のあるメディアでもありました。

「万葉集の山部赤人さまの富士山の和歌、知ってる?」
「もちろんよ。<田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不尽(ふじ)の高嶺に雪は降りける>……行ったことないけど、富士山の姿が見えてくるよう~」
「なんて美しい霊山……」
和歌の名手は日本各地の景勝地を詠み、さながら当時のインフルエンサー。世の中を動かすほど和歌は大きな影響力を持っていたのです。

そんな中、「和歌三神」として信仰されていたのが柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)、住吉明神(すみよしみょうじん)、そして衣通姫尊(そとおりひめのみこと)でした。
中でも衣通姫尊は「衣を通して美しさがあふれ輝くほどの美貌の持ち主」とされており、御祭神となっている和歌山市・玉津島神社には歴代天皇を始め、多くの歌人が参拝のため足を運んだと言われています。

もともとは『日本書紀』に登場する衣通姫。絶世の美女と謳われる彼女のエピソードと、神様としてお祀りされてからの影響力をご紹介します。

妻の妹は絶世の美女!恐妻家・允恭天皇の奇策

写真・けんさんさん(「写真AC」より)

神話時代からの日本国の成り立ちが記された歴史書『日本書紀』。その第19代・允恭(いんぎょう)天皇の項に衣通姫は登場します。

もともと允恭天皇は病弱で、父帝が崩御した後も体調不良を理由に即位を固辞していたほどでした。
「健康に自信がないのだ。帝など、とてもとても……」
しかし、そんな夫を妻の忍坂大中姫(おしさかおおなかつひめ)が強く後押しします。
「大丈夫。あなたが立派な帝となれるよう、私がしっかりサポートします」
その言葉通り、忍坂大中姫は公私にわたり允恭天皇を支え続けました。一説によると、彼女は政治の面でも手腕を発揮するほどの才媛だったとか。後に允恭天皇の病は癒えるのですが、忍坂大中姫には頭が上がらないままでした。

そんな允恭天皇がずっと気になっていること、それは「妻の妹が絶世の美女」だという世間のうわさ。衣を通して美しさがあふれ出ていることから「衣通姫」と呼ばれている彼女とぜひ一夜を共にしたい、いつしかそう願うようになってしまいました。

ただ、妻の忍坂大中姫の不興を買うのは避けたいところです。そこで允恭天皇は一計を案じ、宴を開いて忍坂大中姫に舞を所望したのです。

現在では考えられないことですが、当時、帝の前で舞を披露した者は、娘子(おとめご/若い女性のこと)を献上しなくてはならない、というきまりがありました。
宴が始まった時から、「允恭天皇は妹が目当てだ」と忍坂大中姫はわかっていましたが、立場上、指名された舞を拒否することも献上を反故にすることもできません。仕方なく、
「妹の衣通姫を献上いたします」
と告げるしかなかったのでした。

允恭天皇はしてやったりと大喜び。妻のお墨付きで、うわさの衣通姫と通じることができます。早速、宮中へ参上するよう衣通姫に使いを出すのですが、まったく彼女は現われません。

実は衣通姫は正妻である姉の心中を察して、母親と二人で近江の坂田という地に隠れるように移り住んだのです。『日本書紀』では忍坂大中姫と衣通姫の交流に触れてはいませんが、お互いを思いやる、とても仲の良い姉妹の姿が見えてきます。

坂田の地にも重ねて7回、允恭天皇からの使者がやってきましたが、衣通姫は参上を拒み続けたのでした。

最後の使者、烏賊津使主の策略

写真・ぴょんぴょんうさぎさん(「写真AC」より)

「もうこれ以上は待てん。今度こそ絶対に衣通姫を連れてくるのだぞ。連れ帰った暁には多くの褒美をとらせよう。しかし、しくじったならば……」
じらされ続けた允恭天皇は最後の手段として、長年天皇家に仕えている忠臣、烏賊津使主(いかつおみ)を使者として送りこむことにしました。

半ば天皇に脅されたような烏賊津使主。もはや失敗は許されないと、彼はひとつの策を講じ、干飯(ほしいい/飯を干した保存食)を一つかみ、自分の着物の襟の内側に仕込みました。そうして、
「うまくゆけば良いのだが……」
と、衣通姫の元に向かったのです。

坂田のひなびた屋敷に着いた烏賊津使主は、まずは庭に通され、ほどなく現われた衣通姫に声を振り絞って懇願しました。
「すでにおわかりかと思いますが、わたくしは帝の命を受けて参上しました。どうか一緒に宮中へお越しください」
うわさ通り衣通姫は美しい女性でした。そっと眉をひそめ、落ち着いた静かな声で答えます。
「帝のお心はとても嬉しく思っております。けれどわたくしは姉を傷つけたくはないのです。どうしてわたくしたち姉妹が互いに競い合うことができましょう。どうかお察しくださいませ」
太陽が翳るように衣通姫が美しい顔を曇らせるのを見て、烏賊津使主は心が痛みました。でも、今回は自分の命がかかっています。

烏賊津使主は衣通姫の言葉には答えず、いきなりガバッと庭にひれ伏し土下座しました。
「なにをなさるのです。顔をお上げください」
戸惑う衣通姫に烏賊津使主は土下座したまま、こう言いました。
「姫様が参上してくださるまで、私はここを動くつもりはありません。一人で宮中に戻れば、帝に従わなかったとして裁かれる命。それならばいっそ、この庭で朽ち果てましょう」
そうしてひれ伏したまま、烏賊津使主は黙って動かなくなってしまいました。

それから幾日……露の降りる夜になっても、日が昇り朝が来ても、真昼の光が照りつけても、烏賊津使主は庭に伏せたままでいます。心配した衣通姫が
「せめて召し上がってください」
と、水や食べ物を勧めても、まったく手をつけようとしませんでした。

実は烏賊津使主の命をつないでいたのは襟に仕込んだ干飯。最初から長期戦を覚悟していた烏賊津使主はこっそりそれを食べつつ、衣通姫と根競べをするつもりでいたのです。

そんなことを知らない衣通姫は、烏賊津使主が死んでしまうのではと気が気ではありません。ただでさえ帝の命に背いているのに、使者まで死なせてしまったとなれば、どのような罪に問われるのか考えただけでも恐ろしくなってしまいます。

ついに7日目、衣通姫は烏賊津使主に宮中へ参上することを告げました。烏賊津使主の忍耐の奇策が成功したのです。

ただ、烏賊津使主は姉妹の心中を察し、衣通姫を宮中へは連れ帰らず、少し離れた藤原の宮に彼女の屋敷を用意します。そこへ允恭天皇が通うという段取りを整えたのでした。

産屋に火を!忍坂大中姫の怒り

写真・けんさんさん(「写真AC」より)

烏賊津使主の尽力で、やっと衣通姫の元へ通えることとなった允恭天皇。しかし、妻の忍坂大中姫の圧力は大きく、なかなか藤原の宮へ行くタイミングがつかめずにいました。
「堂々と通っても良いはずなのだが……何やら恐ろしい……」
子どもを身ごもった忍坂大中姫はいつにも増して迫力があるように思えて、允恭天皇はたじたじとなってしまいます。

そうして、
「今、今しかない!今宵、藤原の宮に渡るぞ!」
そう決行したのが、なんと忍坂大中姫が臨月を迎え、いよいよ出産が始まった時。妻が命をかけて子を産む苦しみに耐えているまさにその時、允恭天皇は衣通姫の元へと通い、初めての一夜を過ごしたのでした。

恐妻家の天皇としては致し方なかったとはいえ……あまりにも非道な行為です。出産を終えてから事の次第を知った忍坂大中姫は激怒します。
「そうなのですね。わたくしも、生まれた子どもも、あなたにとってそれほどの価値しかないのなら、この世にいる必要はありません」
忍坂大中姫は允恭天皇の目の前で産屋に火を放ち、自らもその中に身を投じようとしました。天皇もお付きの者たちも必死になって彼女を止め、何とか事なきを得ましたが、それからはもう藤原の宮に通うどころではありません。
允恭天皇は自分で自分の首をしめてしまったのでした。

ハートを射貫く、衣通姫の和歌

写真・asasaさん(「写真AC」より)

藤原の宮へは余程のことがない限り通えなくなってしまった允恭天皇ですが、そうなるとますます、衣通姫のことが気になるのが難儀なところです。
「坂田から無理やり連れ来て、その挙句、藤原の宮に一人で放っているようなもの。わしを恨んでいるのではないだろうか」
そう允恭天皇は思い悩み、ある時、誰にも告げず密かに藤原の宮に足を運びました。屋敷のそばの茂みの陰からこっそり様子を伺うと、ちょうど衣通姫が縁の端に出てきたところでした。美しくたおやかな仕草で、
「あら、蜘蛛(くも)が……」
微笑んだ衣通姫は、澄んだ声でひとり、和歌を詠みました。

「我が夫子(せこ)が来べき夕(よい)なりささがねの蜘蛛の行ひ是夕(こよい)著(しる)しも」
(私の愛しい人が今宵は訪ねて来てくれるかもしれない。待ち人が来るという前触れの小さな蜘蛛が笹に巣をかけているから)

通いの途絶えた允恭天皇を恨む様子もなく、おっとりと空を見上げるまなざし。

允恭天皇はそんな衣通姫の姿に、心を射貫かれてしまいました。隠れて様子を伺うだけのつもりでしたが、

「ささらがた錦の紐を解き放(さ)けて数(あまた)は寝ずに唯一夜のみ」
(細やかな錦の腰ひもを解いて、あなたと共寝したいものです。多くの夜とは望みません。今宵、ただ一夜のみでも)

こんな和歌を返して、再び衣通姫と一夜を共にします。そうして翌朝、允恭天皇は庭に咲き誇る桜に心を託し、こんな和歌を詠みました。

「花ぐはし桜の愛(め)で同(こと)愛(め)でば早くは愛(め)でず我が愛(め)づる子ら」
(趣のある桜の花のなんと美しいことよ。私は心からその花をいつくしむ。いっそいつくしむのなら、もっと早くからそうしたかった、私のいとしい人よ)

このように名残惜しく思いつつも允恭天皇は宮中へ帰っていったのでした。

もっと遠くへ!衣通姫、大阪へ

写真・mrfiveさん(「写真AC」より)

再び藤原の宮に通い始めた允恭天皇に、心穏やかでないのが妻の忍坂大中姫です。彼女の不機嫌は天皇だけではなく家臣たちにも波及し、ほどなく藤原の宮の衣通姫にも伝わってゆきました。

ある逢瀬の日のこと、衣通姫は允恭天皇にこう言いました。
「このところ姉のことが気になって仕方がありません。わたくしがここにいるために、姉は苦しい思いをしているのではないでしょうか。もし……もっと遠い地へわたくしが移ったなら……姉の心は穏やかさを取り戻せるのでは……」
実は允恭天皇も、とげとげしい忍坂大中姫との毎日に、少々疲れていました。衣通姫が宮中に近い藤原の宮ではなく、もう少し離れた土地に移る……通うのには多少時間がかかるものの、それで妻の心が治まるのならば、その方が良いかもしれない、そう考えた允恭天皇は、それからほどなくして、衣通姫を河内(かわち/大阪の南部)の茅渟(ちぬ)に建てられた離宮へ移すことにしたのです。

それからの允恭天皇は遊猟に出ることが多くなりました。
「和泉の日根野へ狩りに出るぞ」
日根野は衣通姫の住む河内の隣国。日根野への行幸はつまり衣通姫のもとへ通うこと。供を引き連れて行幸を繰り返す允恭天皇に、ついに忍坂大中姫の雷が落ちてしまいます。
「わたくしは毛の先ほども妹を妬んではおりません。そんな些末なことではなく、繰り返される日根野への行幸で、下々の民がどれほど苦しんでいるかを考えていただきたいのです。行幸には多大な費用がかかっています。それを支えている民の気持ちをお考えください」
忍坂大中姫らしい理にかなった言葉に、允恭天皇は遊猟を控えるしかなかったのでした。

次に允恭天皇が河内の茅渟を訪れたのは1年以上経ってから。久々の逢瀬に、衣通姫はこんな和歌を詠んでいます。

「とこしへに君もあへやもいさな取り海の浜藻の寄る時時を」

(わたくしたちの逢瀬が永遠に変わらず続くとは思えません。あなたはゆらゆらゆれる浜藻のようなもの。わたくしの元へは時たま寄ってくださるだけですものね)

心細げな衣通姫に、允恭天皇が贈ったのは「藤原の里」の収益でした。「藤原部(ふじわらべ)」という名と共に藤原の里から差し出される税をすべて衣通姫のものとしたのです。

『日本書紀』での允恭天皇と衣通姫、二人のエピソードはここで終わっています。

このお話は見方を変えれば、忍坂大中姫と衣通姫姉妹のサクセスストーリーのようにも捉えることができるのではないでしょうか。天皇の正妻として存在感を持ち続けた忍坂大中姫、天皇の心だけでなく「藤原の里」まで手に入れた衣通姫。
「お姉さま、わたくし、ぬかりなくことを運びましてよ。これで一生、安泰でございます」
「妹よ、よくやりました」
当時、スマホのようなものがあったとしたら、二人の間でこんなメッセージが交わされていたような……。忍坂大中姫と衣通姫は、その時代のシステムを最大限利用して幸せを手に入れた、聡明な姉妹だったのかもしれません。

衣通姫、和歌の神として降臨

写真・TECHDさん(「写真AC」より)

ところでそんな衣通姫が、どうして「和歌三神」の一柱としてお祀りされる神様となったのでしょうか?
それは先ほどの第19代允恭天皇からずっと下った時代、平安時代に即位した第58代光孝(こうこう)天皇の世のお話となります。

光孝天皇といえば百人一首の

「君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手(ころもで)に雪は降りつつ」
(大切な人のため早春の野に出て、私は若菜を摘んでいる。その袖に静かな雪が降り続くことだよ)

この和歌の作者です。思いやりに満ちた、やわらかな情景の歌ですよね。光孝天皇は当時としては高齢の55歳で即位した天皇なのですが、年若い頃から教養が深く、和琴に秀でた文化人だったようです。

その光孝天皇の夢枕に、あの衣通姫が現われたというのです。美しい姿で、このような和歌を詠んだと言われています。

「立ちかえりまたもこの世に跡垂れむその名うれしき和歌の浦波」
(もう一度、わたくしはこの世に神となって現われましょう。和歌の浦というありがたい名の地に、寄せ返す波のように)

「和歌の浦」は和歌山県北部の、遠浅の海が広がる風光明媚な所です。『万葉集』では山部赤人ら有名歌人がこの地を讃える歌を詠んでいることから、当時すでに和歌の浦は「歌枕(うたまくら/歌に詠まれている諸国の名所)」として有名な場所でした。

玉津島神社の奠供山(てんぐやま)より望む、現在の和歌の浦

光孝天皇は夢枕に立った衣通姫を「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」として、和歌の浦の由緒ある神社・玉津島神社にお祀りしました。そしてその後、「絶世の美女である和歌の神様」への信仰は、あっという間に平安貴族の間に広がっていったのでした。それは次のようなことからも伺えます。

小野小町と衣通姫

平安時代の有名な歌人、藤原定家。彼は『古今和歌集・仮名序』で、小野小町のことをこう評しています。
「小野小町の和歌は、古の衣通姫の流れを汲んでいる。悲哀を帯びており、強いところがない。言うなれば、美しい女性が何かを思い煩っているような和歌。強さがないのは女性の歌だからである。」

ほめているとは言い難い評なのですが、ここで注目すべきは「衣通姫の流れ」との言葉。この時代、すでに「衣通姫=美女・優れた和歌の神」が共通認識として使われていたことから、定家は小野小町に対して一定のプラス評価を下していたことがわかります。

能『鸚鵡小町』での在原業平と衣通姫

平安時代の六歌仙の一人、在原業平。イケメンで恋多き人物として有名ですが、歌人としても超一流でした。そんな彼は能『鸚鵡小町(おうむこまち)』に小野小町の回想として登場し、和歌の浦の玉津島神社にて衣通姫尊に舞を奉納する、あでやかな姿が描かれています。

在原業平・小野小町・衣通姫尊、と綺羅星のようなスターがそろう能の舞台。当時の人々はさぞ心をときめかせたことでしょう。

源氏物語の衣通姫効果

平安時代、誰もが夢中になった紫式部の『源氏物語』。後に紫の上となる幼い姫君と光源氏との出会いを描いた「若紫」にも和歌の浦の歌が詠まれています。まだ10歳になったばかりの姫君を強引に引き取ろうと、光源氏がお付きの乳母にアピールするシーンです。

光源氏から、幼い姫君の乳母への和歌
「葦わかの浦にみるめはかたくともこは立ちながらかへる波かは」
(幼い姫君と直接お会いすることは難しくても、和歌の浦に返す波のように、このまま帰るわけにはゆきません)

乳母から、光源氏への返歌
「寄る波の心も知らでわかの浦に玉藻なびかむほどぞ浮きたる」
(和歌の浦に漂う玉藻のように頼りない気持ちでおります。まだ幼すぎる姫君への、光の君の本当のお心がわからないものですから。)

この「和歌の浦」を挟んだ歌のやり取りで、光源氏は乳母が教養深いことに気付きます。また、この歌枕を使うことで作者の紫式部は、幼い姫君に美しい衣通姫のイメージをまとわせてもいるのです。「和歌の神・衣通姫」はそれほど平安貴族の心に浸透していたのでした。

衣通姫尊に会いに行く!和歌山市・玉津島神社


光孝天皇によって衣通姫尊がお祀りされた、和歌山市和歌浦の玉津島神社。創立は上古の時代だと伝わる、由緒ある神社です。もともとは6つの島山が玉のように海に浮かんでいたといわれ、その美しい景観は聖武天皇の厚い保護を受けていました。

一千年を越える時を経て、現代に生きる私たちも玉津島神社にて衣通姫尊に参拝することができます。

境内には日本文学者・犬養孝さん揮毫の、山部赤人が和歌の浦を詠んだ万葉歌碑が建ち、文学的な雰囲気に満ちています。

桜「衣通姫」

また、春には「衣通姫」と名付けられた桜が境内に咲き誇ります。この時期、玉津島神社では「桜まつり」として短歌会が開かれ、詠まれた歌はすべて衣通姫尊に奉納されます。(短歌会はどなたでも参加できます。詳しくは「玉津島神社公式サイト」をご覧ください)


拝殿の右側に回り込むと、緑深い木々の中に「奠供山(てんぐやま)」へと登る石の階段が見えてきます。

登り切った先には、古来よりの歌枕「和歌の浦」を一望する風景が。遠浅の海と広い空、気持ちがすっきりとクリアになるような空間です。

遥かな昔、『日本書紀』に登場した衣通姫。手を合わせながら神様に語りかけていると、ふと、時を越えて彼女と対話をしているようで、何だかとても不思議な気持ちになります。

日本にはありがたいことに神社というタイムカプセルが全国至る所に建っています。ぜひ訪れて古の神様とお話されてはいかがでしょうか。

【玉津島神社】基本情報

・所在地:和歌山県和歌山市和歌浦中3-4-26
・電話番号:073-444-0472(電話でのお問い合わせは午前9時から午後5時まで)
・公式サイト:http://tamatsushimajinja.jp/index.html
(2020年8月現在、玉津島神社は境内の整備を行っています。参拝はできますが、工事の関係で見ることができない歌碑等がありますので、事前に神社へお問い合わせください。)

<アイキャッチ画像「和歌三神」衣通姫『春雨集』摺物帖・メトロポリタン美術館蔵> 
<撮影者の記載のないものは筆者の撮影です>

書いた人

和歌山県在住。自然豊かな環境で育ったため、今でもうっかりカエルやクモと会話してしまう日々。和歌山の自然と生き物、神社仏閣をこよなく愛しつつ、短歌・俳句の修業中。(社)自分史活用協議会「自分史アドバイザー」。