世界は広い。辞書の改訂版が出るたびに買い替え・買い増しをしたり、同じ辞書の同じ版を何十冊も所有したりして楽しむ「辞書マニア」がいるらしい。彼ら、彼女らが大いに愛好するのが、「新明解国語辞典」。
「あっ、知ってる。おもしろい辞書らしいね」と聞き知っている人がいるかもしれませんが、ちょっと惜しい。日本で一番売れている国語辞書であり、超ストイックに言葉を追求する辞書でもあるのです。
2020年11月19日、9年ぶりとなる改訂版「第八版」が発売予定とのことで、編集部に話を聞きに行きました。
としまえんに、【楽しい】【思い出】【ありがとう】
2020年8月31日、日本でもっとも古い遊園地のひとつの「としまえん」(東京都練馬区)が、94年の歴史に幕を下ろしました。としまえんの最寄りとなる豊島園駅(西武豊島線・都営地下鉄大江戸線)に、このような広告を掲出したのは、130年以上辞書出版を行っている三省堂でした。
神保町の書店・古書店街では、「辞書は三省堂」という看板を掲げた三省堂書店神保町本店がありますが、出版社の三省堂は神保町からちょっと離れた水道橋に立地しています。
編集部の皆さんと、営業担当者が出迎えてくれました。
――としまえんの広告は、大きな話題になっていましたね。
辞書出版部部長の山本さん:第八版刊行に先立って、タイミングよく広告を出すことができました。インパクトが大きすぎて、あれを超えるものがまた作れるか心配なほどです(笑)。
――新明解国語辞典について、歴史やエピソードを教えてください。
山本さん:「新」とつくのは、その前に「明解国語辞典」があったからです。1972年、新明解国語辞典の初版発行時に、赤版、白版、青版の三色展開したところ、初年で85万部を達成しました。現在も、社内トップのベストセラー、ロングセラー商品です。
第四版は、街中にある謎の物体や建築物を超芸術トマソンと名づけて観察する路上観察学会を結成する赤瀬川原平さんの「新解さんの謎」という本に登場しました。こちらとしては、「本質とは違う」という気持ちもありましたが、芸術家ならではの視点でおもしろく紹介してもらったことから、より広く知られるようになり、「語釈がユニーク」という評価をいただくようになりました。
今回の第八版刊行に際し、出版社として、「教育現場や現代の世の中で、また誰もが発信する時代となった現在、SNSなどを利用する際に求められている辞書とは?」と問い直し、「考える辞書」というキャッチフレーズを設定しました。
第三版から吉村さんがひとりで編集
さすが売れている辞書だけあって、編集方針にも一本芯が通っています。新しく収録する語はあっても一度掲載したものは基本的に削除しない、見やすさを考慮し文字も大きくするように……。版を重ねるたびにページ数は増え、第八版は1,792ページという超大作となりました。
――編集作業は大変そうですね。編集部はチームになっているのでしょうか?
吉村さん:辞書1冊につき、編集者はひとりです。新明解国語辞典は、第三版からずっと私が担当しています。三省堂の求人を新聞広告で見て応募し、落ちましたが手紙を書いたところ、出版局長の目に留まってアルバイトとして採用、のちに社員になり定年まで勤め、今は嘱託スタッフとして編集を担当しています。はじめてのチーム仕事となり、楽しく働いています。
稼ぎ頭の辞書であり、プレッシャーも重大となるため、「人柱」「人身御供」「あいつだったらなんとかなるんじゃない?」などとウワサされながらのスタートです。第三版のときは、原稿の文字を1字1字活字で組む活版印刷でした。
――編集や造本の工夫はありますか?
吉村さん:裏写りが少なく、めくりやすい丈夫な紙を使うなどの工夫をしています。デザインについては、本文だけでなくルビも大きくしたり、記号使いを工夫したりなど、読みやすさにも配慮しています。
考え抜くのが特徴の「考える辞書」
「考える辞書」を名乗るだけあって、描写力はものすごい。「トウモロコシ」について、「ハモニカの吹き口のようにぎっしり詰まって出来る」と説明するなんて、「ああ確かに。その視点はなかった!」と考えさせられます。
吉村さん:分類や起源、料理など、細かいことではなく、目の前にあるトウモロコシを丁寧に説明し、描き切るのが最大の特徴です。
山本さん:「幸福」は、「現在(に至るまで)の自分の境遇に十分な安らぎや精神的な充足感を覚え、あえてそれ以上を望もうとする気持をいだくことも無く、現状が持続してほしいと思うこと」となっています。「私はそう思わない」という読者からの意見があるかもしれませんが、語の意味するところを考え抜いて語釈を作成することを編集方針としています。
激動の9年間。辞書はどう変わった?
第七版刊行から約9年の月日が流れ、その間に政治や社会情勢は大きく変化し、SNSなどによるネットスラングも増えました。辞書はどう変わったのでしょうか。
――新しく収録することになった語のなかで、注目すべきものはなんでしょう?
吉村さん:「地頭(じあたま)」や「聖地(せいち)」でしょうか。地頭は、2番目の意味を「詰込や暗記一辺倒の教育によってつけられるものではない、広範な思考力・応用力・洞察力・発想力などの、その人自身に備わる知力」としました。「聖地」は、派生的な意味<Ⓑ>として「ある物事に強い思い入れのある人が訪れてみたいとあこがれる、ゆかりの場所」としました。
LINEの「スタンプ」、コロナウイルス、エッセンシャルワーカーなども新収録となります。積極的に新語を追いかけているわけではないので、今流行している語でも数年で廃れそうなら採用しません。
編集手順は、編集部で掲載候補語のリストを作り、編集委員の先生方に意見をいただき、スピード優先の最新語は編集部で補い、編集部と先生とで校正・校閲して校了、といった流れです。大学に在職中の編集委員の先生には、「自分は使わないが、学生がこういう言葉を使っていた」といった報告や提案をいただくこともあります。
佐藤さん:人権やジェンダーには神経を使っています。「ヘイトスピーチ」も新収録となりますが、語の意味を描写するだけでなく「差別はやめよう」という啓蒙を込め、「卑劣きわまる言動や活動」という語で解説を締めています。
ネットユーザー大興奮の「恋愛」は?
おもしろいこと好きのネットユーザーも、新明解国語辞典のことが大好き。第三版で、「特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、できるなら合体したいという気持を持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる(まれにかなえられて歓喜する)状態」と記載されたのを見つけて大歓喜。
それから月日が流れ、版を重ねた第八版では、性的少数者に配慮し、対象者を「異性」と書くのをやめました。
吉村さん:女性だけに求められた貞節、貞操などの語は、削除するのではなく、かっこ書きで「やや古風な表現」と注釈をつけるなどしています。言葉が成立したときに男尊女卑的な考えがあったことは事実であり、言葉としての存在は歴史として生かしておきます。
――言葉について、すべてを「ヤバイ」で済ます、抽象的な概念までなんでも「個」で数えるといった短絡的な傾向がある一方で、誰かを傷つける言葉が消え、励ます言葉が載り……社会は一歩ずつよくなっているのかもしれませんね。新しい新明解国語辞典、ありがとう。言葉から、いい社会を作りましょう!
■三省堂 新明解国語辞典 第八版特設サイト
https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/smk8/