享保10(1725)年7月28日。
ある不可解な事件が起こる。
その日、松本藩(長野県)6代藩主の「水野忠恒(ただつね)」は、江戸城にて8代将軍徳川吉宗に拝謁する予定であった。なんでも、自分の婚儀の報告のためだとか。なんともめでたい話である。
将軍に報告も済ませ、無事に拝謁を終えた水野忠恒。
さあ、退出というところで、松の廊下に差し掛かったときのこと。
突然、理由もなく。
次に拝謁する長府藩(山口県)藩主の5男・毛利師就(もうりもろなり)とすれ違いざま。いきなり相手を斬り付けたのである。
慌てる重臣たち。斬り付けられた毛利師就はというと、当然、ワケも分からないまま。ただ、彼はなんとか刀を抜かずに、刀の鞘(さや)で応戦。忠恒は、その場で幕臣らに取り押さえられたという。
当時、江戸城での刃傷事件はトンデモナイ事件のトップ。
そんな大それた事件を起こすなんてと。水野忠恒には、よほどの恨みがあったのだろうと思いきや。なんと、彼らは全く面識がなかったというのである。
忠恒は、その日のうちに川越藩主に預けられることに。
その後、松本藩の水野家に下った処分は「改易(かいえき)」。武士の身分が剥奪され、家禄、屋敷、領地が没収される非常に重い処分であった。
こんな水野忠恒の不可解な結末に。
地元では、ある噂が囁かれていた。
「多田加助(ただかすけ、嘉助)」の無念の思いが通じたのではないかと。
さて、前置きが非常に長くなってしまったが。
今回は、この「多田加助」にまつわる話をご紹介したい。
加助は、松本藩安曇郡中萱村(あづみぐんなかがやむら)の元庄屋で、江戸時代前期に起こった農民一揆「貞享(じょうきょう)騒動」のリーダーでもあった人物だ。
彼の無念の思いとは、一体どのようなものなのか?
あの国宝の天守を持つ「松本城」とも関係する、ちょっと奇妙な話を、早速ご紹介しよう。
義民「多田加助」が立ち上がった農民一揆って?
「義民(ぎみん)」とは、民衆のために身を捧げた人のことをいう。
これまでの歴史を振り返れば、悪政の数だけ、義民がいるのかもしれない。自分の身を顧みず、真正面から抵抗する。思いは届かないと分かっていても、それで何かが変わるのならと。その低い可能性にかける人たちがいた。
ちょうど、今から335年ほど前のこと。
貞享3(1686)年。この年は、松本藩(長野県)内の百姓にとって非常に辛くて厳しい年であった。大雨と水害で、なかなか稲が育たない。不作となるのは、目に見えていたのである。
この松本藩を治めていたのは、水野家3代藩主「水野忠直(みずのただなお)」。ちょうど家督を継いだのは、忠直が17歳のとき。当時はまだまだ力が弱く、重臣や家老らが藩政を行うのだが。家臣らの権力争いが続き、藩内は乱れていく。
貞享3(1686)年、3代藩主水野忠直は既に35歳に。
ただ、領内は手のつけられないほどの状態であった。毎年続く凶作で、農民らは年貢の取り立てに疲弊していたのである。
ちなみに、松本藩の年貢は籾(もみ)を納める年貢である。1俵につき玄米2斗5升挽き(玄米が2斗5升になるように籾を納めること)だったが、その後は、玄米3斗挽きと引き上げに。じつは、松本藩の年貢は周囲の藩よりも高めの設定。それでも、農民は耐えるしかなかったのだ。
富山藩などは、幾度も年貢の減免を行うなど救民政策を実施。そんな藩もあるなかで、松本藩はというと。
なんと、さらに年貢の引き上げに踏み切ったのである。1俵につき玄米3斗4~5升挽きと、2割増しという強硬手段に出たのであった。
そこで、立ち上がったのが「多田加助(ただかすけ)」
この男、もとは庄屋。この惨状に黙ってられず、とうとう、自分の命を投げ打つ覚悟で「直訴」を決断するのである。
同年10月。
神社の拝殿で同胞らと密談し策を練る。結果、年貢の減免を求める「5ヵ条の訴状」を提出することに。これを知った領内の2/3となる224もの村が参加して、事態は農民一揆の構えに。あっという間に、竹槍や鋤(すき)、鍬(くわ)を持った農民らが、松本城下に集結。その数、2,000人を超えることとなる。
3代藩主水野忠直がいれば、こうまで酷い状況にはならなかったのかもしれない。しかし、あいにく、忠直は参勤交代のために松本藩にはいなかったのである。家老たちは、なんとかして幕府に知られずに一揆を収めようと画策するのだが。人数は多くなり、一説には1万人にまで膨れ上がったとも。
こうして、松本藩の家老たちは、農民一揆の前に屈することに。
多田加助らは、年貢の引き上げを撤回させ、さらには、周囲の藩と同じ「2斗5升挽き」まで年貢の引き下げを認めさせたのである。
農民一揆は無事成功。
農民らは歓喜の声を上げ、松本城下から撤退したのであった。
松本城の天守の傾きの原因とは?
なんだか、いつの世も。
その場しのぎでピンチを切り抜けようとする輩はいるのだと、つい、ため息をついてしまう。全くもって、歯がゆい限りである。
さて、多田加助のその後である。
農民一揆は、このまま大成功を収めてと言いたいところなのだが。そう、人生は甘くない。というか、辛すぎる。激辛である。
そもそも、多田加助は、命をかける覚悟でいた。
だって、手順を踏まずに訴える「越訴(おっそ)」。そして実力手段で訴える「強訴(ごうそ)」。無事に済むワケではないと、本人も分かっていただろう。
じつは、この江戸時代、農民らは、直接、藩主などに直訴することは許されなかった。藩への訴えは、手順を踏まなければならないのである。ただ、これだと途中で訴えが途切れてしまうことも。だからこそ、確実に訴えが上まで届くためには、自分の命を投げ打つ覚悟が必要であったのだろう。いわば、相討ちみたいなモノである。
そして、多田加助は、年貢の減免を求めて、命を賭けた。自分が犠牲になることで、松本藩内の多くの農民らが餓死せずに済むのなら、と。
しかし、である。
なんと、農民一揆の騒動が収束した約1か月後。
松本藩は前言を撤回。信じられないことに、家老たちは年貢減免の約束を翻す。
もともと家老たちは年貢の減免を行う気などなかったのか、それとも成り行きのことなのか。
とりあえず1日でも早く一揆を鎮圧したい。その一心で、表面上は年貢の減免を認めた。ただ、実際に減免を行えば、藩政は行き詰まる。だったら、撤回するしかない。そんな思惑があったのか、松本藩の年貢は据え置きとなった。
さらに、である。
多田加助らは、農民一揆の首謀者として次々に捕縛されたのだ。
多田加助とその一族、同士合わせて総勢28名。彼ら全員が極刑との処分であった。加助ら8名は磔(はりつけ)、残り20名は獄門(打ち首のこと)。
同年11月22日。
多田加助が処刑されたのは、「勢高(ぜいたか)」という場所。ちょうど、松本城を見下ろすことのできる高台である。
町中を引き回しされ、加助は十の字の磔柱へ。
槍で突かれて血を流しながらも、多田加助の両目は、最後まで松本城へと注がれていたという。
あまりにも無念。
自分だけが命を落とすのならまだしも。一族までもが無残にも処刑されるなど、耐えられるはずもない。そのうえ、命を賭けた年貢の減免が行われないとなれば。気が狂わんばかりの悔しさだろう。
だからなのか。多田加助の最期は壮絶を極めた。
「2斗5升」
こう絶叫して、息絶えたといわれている。
死の間際、あまりの無念に、多田加助は松本城の天守閣を一睨み。その強烈な念が、天守閣を傾けさせたとの伝説が残っている。実際に、明治時代初期の松本城の写真は、その天守閣が西にグイッと傾いている。
ただ、残念ながら、天守閣の傾きは多田加助の念が理由ではない。
というのも、松本城が修理された際に、西側の柱が老朽化していることが判明。重みを支えきれず、傾いてしまったという物理的な現象ゆえのコト。
とはいえ、多田加助からすれば、それくらいの伝説があってもいいようなモノだろう。それほどの無念さが、後世にまで伝わるからだ。そんな彼の名誉が回復されるのは、明治時代に入ってからのこと。
そして、昭和35(1960)年。
多田加助らを祀った神社は、「貞享義民社(じょうきょうぎみんしゃ)」に。
神社本庁の承認を受けたのであった。
最後に。
冒頭へと話を戻そう。
多田加助の「貞享騒動」から約40年後。
松本藩6代藩主「水野忠恒(ただつね)」の刃傷沙汰で、松本藩は改易。
もともと、この水野忠恒、常日頃から浴びるように酒を飲んでいたのだとか。ちょうど、時期も時期で。忠恒は、大垣藩(岐阜県)の藩主・「戸田氏長(うじなが)」の養女を正室に迎えたところであった。酒の量が増えるのも仕方ない。
連日、戸田家の江戸屋敷で祝宴が開かれ、主役の水野忠恒は酒三昧の日々。こうして、深酒がたたったのか、将軍拝謁の前日の夜より、忠恒は何やら様子がおかしかったといわれている。
そして翌日。
案の定、江戸城で事件を起こす。
ただ、一説には。これは、あくまでも噂なのだが。
松の廊下で、義民の多田加助の霊を見たとも。
さて、本当に、多田加助の無念の思いが通じたのだろうか。
事実は分からずじまい。しかし、ここまで盛り上げておいてなんだが、それはないだろう。
確かに、アルコールの過剰摂取による幻覚の可能性は高い。ただ、その結果、単に錯乱しただけ。そして、江戸城で事件を起こしてしまう。もちろん、改易もしかるべき処分。当然と言っていいだろう。原因と結果。それぞれが存在する。そこには、怪異など存在しない。
ただ、人の心情はというと。
飢餓と重税に苦しむ百姓を救おうとした多田加助。しかし、松本藩の不誠実なやり口に騙されて無念の処刑に。松本藩内で、悲劇が起こったのも、これまた事実である。残された人々は、水野家に対して非常に悔しい思いを募らせたはずだ。それは藩主の代が変わっても同じコト。なんなら、増大していたかもしれない。
そんな彼らの無念が積もり積もって、まさに、この改易騒動で昇華したともいえる。
松本城の天守閣をグイッと傾けさせる。
約40年後に松本藩を改易にまで追い込む。
それは、多田加助の無念ではない。
圧政に苦しめられた、名もなき人々の思いの結果なのかもしれない。
参考文献
『改易・転封の不思議と謎』 山本博文著 実業之日本社 2019年9月
『戦国武将と名城 知略と縄と呪いの秘話』 向井健祐編 株式会社晋遊舎 2012年7月
『日本の城の謎 伝説編』 井上宗和著 祥伝社 2020年2月