最近は飲酒運転が大きな社会問題となっています。昔も法律違反ではありましたが、現代はさらに厳格化され懲役刑になることも。時代とともに法律も少しずつ変わっていくんですね。
今から200年以上も前の江戸時代も法律が整備されていました。中学校の教科書でも登場した『公事方御定書』。8代将軍・徳川吉宗が制定した司法や警察関係の基本法令を収録した江戸幕府の法典です。これにより、犯罪に対してどんな刑になるかが決まっていました。
とはいえ、当時『公事方御定書』を持っていたのは町奉行・勘定奉行・寺社奉行の三奉行のみ。
そのため、庶民は「どんな罪を犯せばどんな刑になるのか」ということがわからず、いつも戦々恐々としていたとか。そうすることで、一定の抑止力もあったようです。
そこで、今回はそんな江戸時代の刑についてご紹介します。
恐怖! 死刑後も屈辱的な扱いを受ける
この時代の死刑は残忍でした。みんなが見物できるように刑場が設けられており、見せしめのためにそこで死刑が執行されたのです。刑自体も残虐で、死刑の前に死んでしまったら、その屍に刑を執行するほどでした。
死刑の最終形は「死」。ですが、江戸時代では刑の軽重で、死後の扱いも大きく変わりました。
具体的に見ていくと、同じ死刑でも下手人(げしゅにん)、死罪、火罪(かざい)、獄門(ごくもん)、はりつけ、のこぎり挽きの6種類がありました。
下手人と死罪は斬首のことで、下手人の方がやや刑が軽く、身内がいれば遺体を引き取って埋葬することができます。ですが、死罪は斬首のあと、さらに追い打ちをかけるように試し斬りをされます。試し斬りというのは、日本刀の切れ味を試すために斬ってみる行為です。罪人は死んでもなお、屈辱的な扱いを受けたのです。
火罪、獄門、はりつけは3つとも市中を引き廻されます。火罪はその後、柱に縛り付けられて火焙りにされました。獄門は斬首し、試し斬りをされ、その上晒し首に。はりつけは柱にはり付けられて槍で突き殺されます。そして、死んだ後も3日間そのまま晒されます。のこぎり挽きは市中引き廻しのあと、土の中に頭だけ出して埋められ晒されます。その後はりつけと同じく槍で突き殺されます。のこぎり挽きといわれていますが、のこぎりは使いません。ちょっとだけほっとしますね。
このように、当時の罪人に対して想像するだけでも怖い残虐的な刑が行われていて、人権なんてありませんでした。
庶民の切腹はNG! 刑にも身分制度あり?
そんな恐怖の処刑ですが、現在と違って面白いのは、同じ罪を犯しても、身分によって刑が違ったということです。
例えば、死刑の中でも切腹は武士にだけ許されている刑でした。これは武士の尊厳を守るものであったのと同時に、自らを死に追いやるという罪人にとってなかなか決断のいる刑でもありました。
また、剃髪という刑もあり、これは女性に行われました。剃髪が刑になったというのですから、女性には甘々だったといえるかもしれませんね。そもそも、女性は減刑されることも多く、死刑になることはほとんどなかったといわれています。
江戸時代は女性の比率が極端に少なかった男性社会。そんなところから、女性にはどうしても仏心が働いたのかもしれませんね。
また、死刑より一つ軽い刑として、今でいう無期懲役にあたるものに、追放刑がありました。当時の追放刑は基本的には無期限なのですが、恩赦によって赦免されます。ですが、庶民が5年なのに対して、武家は30年という基準が存在していたといいます。
身分が高い人のほうが罪が重くなるのはちょっと不思議ですよね。
オレオレ詐欺なんてアリエナイ! 窃盗罪は死刑だった
ここまでの話で江戸時代の刑の怖さは重々感じられたと思いますが、実は「10両盗めば死刑」といわれるほど罪の基準が厳しいのも特徴です。10両は現在に換算すればおおよそ130万円ぐらい。
現代ならオレオレ詐欺で130万円ほど受け取ったとしても、実刑にはなっても死刑にはなりませんが、当時はこれだけでも十分死刑に値しました。
これだけの罪で死刑となれば、けっこう窃盗で命を落とす羽目になった罪人も多かったのかもしれません。
なぜ「10両盗めば死刑」となったかというと、江戸時代は窃盗が多かったので、それに対する見せしめが必要だったからです。確かに厳しい刑ではありますが、それでも盗みをしてしまったのは本人の責任。まだ納得ができそうなものです。
交通事故は雇い主まで連帯責任!?
江戸時代、交通事故に対する罪の重さはそれは大変でした。事故を起こした当事者以外の人も、連帯責任として罰せられることがあったのです。
人口密度が高かった江戸では、交通事故が多く発生しました。当時の移動手段は、牛や馬、大八車という荷車や船がメインです。船で事故を起こせば船頭は死罪、舟主は島流し、怪我人が出た場合は、船頭は島流し、舟主は重い罰金刑です。牛や馬、大八車で人を死亡させたら馬子や車力は死罪、当事者でない雇い主や荷主は重き過料となりました。
これは現代でいうと、タクシーが事故を起こしたら、その会社の経営者までが刑罰に遭うということ。直接的に過失がない雇い主や荷主などにまで責任が及ぶのはなかなか厳しいものがありますよね。
なぜ当事者以外も罰せられたのかというと、江戸時代は、積み荷の落下などで亡くなった人がたくさんいたからです。当事者だけでなく、経営者も雇用主としてしっかり指導することを意識させることで、少しでも事故を防止したいという意図があったのかもしれませんね。
江戸の繁栄を支えた『公事方御定書』
江戸時代は人口密度が高く、人との間のトラブルも後を絶ちませんでした。そんな中、刑に見せしめの意味合いを持たせ、恐怖で人々を縛っていくことは、さらにたくさんの労働者を江戸に受け入れるためには必要なことだったのかもしれません。『公事方御定書』があったからこそ、江戸時代の繁栄は長く続いたのかもしれませんね。
参考文献:氏家幹人『古文書に見る江戸犯罪考 』祥伝社、2016