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Culture
2020.12.06

「お父さん」を翻訳するとどうなる?弥生人が話していた言葉の正体を兵庫・大中遺跡で徹底解明!

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弥生時代に話されていた、いわゆる弥生語をご存知だろうか。学校の教科書で弥生時代について学んだことと言えば、稲作文化や青銅器が大陸から伝わったということくらいで、弥生語については想像すらできないという人がほとんどであろう。ここでは、弥生時代後期にあったとされる大中村(現在の兵庫県加古郡播磨町大中)で話された言葉にスポットを当て、その地に定着した文化に触れていく。

大中遺跡の誕生の歴史

大中遺跡の歴史は昭和37(1962)年に遡る。東京オリンピックが開催される2年前のことだ。開発事業に伴う発掘調査を開始した結果、この界隈に約1900年前(弥生時代後期に相当)、長さ500メートル、幅180メートル、広さにして約7万平方メートルの遺跡が存在したことが判明。そして、姫路市と明石市とのちょうど中間に、大中遺跡が誕生した。

印南野(いなの)台地と加古川の三角州により形成された大中村は今から1900年前~1750年前、播磨国の中でも有力な村であった。全盛期には甲子園球場5個分に相当するそのムラに100名ほどの人が住んでいたと伝えられている。

日本で唯一弥生語を体験できる資料館

大中遺跡の中にある播磨町郷土資料館は、全国でも珍しい弥生語を体験できる資料館である。その資料館内の展示スペースのほぼ中央に設けられているのが、弥生語を体験可能なコーナーだ。ここでテープを再生し、弥生語を聞くことができる。

ちなみに、背後に見えるのは、弥生時代の人々の暮らしを表したジオラマだ。山の近くには狩猟に明け暮れる人々がおり、海岸沿いには食料用の貝を拾う人や、船を修理する船工が見受けられる。この小さなジオラマを通じて、弥生時代の人々の生活ぶりを垣間見ることができる。

弥生時代以前の日本には縄文文化が根づいていた。しかしながら、縄文語の資料はほとんど残されていない。また、縄文時代には国境の概念がなく、基本的に人々が往来していたはずだ。その点、日本がひとつになり始めた弥生時代に話されていた弥生語を日本語の起源と考えることもできよう。ただし、日本語の起源をめぐっては諸説あることを断っておく。

弥生時代には大陸や朝鮮半島から稲作や金属器、集落、墓など、今日の日本文化の基礎をなすさまざまなものが伝えられた。今日の私たちが話す言葉もそのひとつであり、その言葉は大陸や朝鮮半島の影響を多かれ少なかれ受けている。

テープから流れてくる弥生語の音声は、生前古事記や万葉集の表現法や発音を研究されていた神戸市外国語大学の長田夏樹(おさだなつき)先生が、奈良時代およびそれ以前に話されていたとされ、古事記や日本書紀、万葉集にも記される上代日本語と、大陸の言葉(中国語、朝鮮語、モンゴル語)とを組み合わせることで、弥生時代後期の言葉として復元したものである。

弥生語の特徴とは?

ここからは本題である弥生語に入る。まず注意していただきたいのが、大中村で話されていた言葉が中央方言(近畿地方およびその周辺で話されていたとされる言葉)に属するのであって、現在の東日本に相当する地域で話されていた上代東国(とうごく)方言とは異なる点だ。上代東国方言については自身の関心の領域のひとつであるので、今後和樂webでも取り上げたい。

さて、中央方言の大きな特徴としては、現代日本語の「ハ」行、「サ」行がないという点が挙げられる。したがって、現代日本語を上代日本語に変換後、「ハヒフヘホ」を「パピプペポ」に、「サシスセソ」を「ツァ ツィ ツゥ ツェ ツォ」に変換すれば、ほぼ弥生語の出来上がりだ。

話は逸れるが、弥生時代のものが多く出土している奄美諸島の一部である喜界島でも、「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」に対応しており、例えば旗は「パタ」、昼は「ピル」となる。そんな喜界島は土着の弥生文化を体験できる日本でも数少ない場所であり、一度訪れてみる価値あるのかもしれない。

現代語から弥生語への翻訳に挑戦しよう!

さあ、以上の規則に従って、一緒に現代日本語の文を弥生語に翻訳してみよう。(ここで取り上げるのは、播磨町郷土資料館で音声として公開されている文である)。

(1) やあ きみたち         (現代日本語)

やあ 汝(いまし)たち (上代日本語)

ヤア イマ ツィ タティ(弥生語)

(2) この村は 私たちの 大中村(オホナカムラ)です  (現代日本語)

この里は 私たちの 大中村(オホナカムラ)です (上代日本語)

コノツァトパ ワンガ オポナカムラナリ      (弥生語)

「きみ」は二人称として記紀万葉に頻出する汝(いまし)に相当する。同様に、「私たちの」は記紀万葉の「和賀(わが)」であり、古代の発音では濁音の前に「ん」が挿入されるため「わんが」となる。「ムラ」は古代朝鮮語からの借用語であるが、この場合の「ムラ」は行政的な色彩が強いため、弥生人の生活空間としての意味合いを含む「サト」とした。

ここからは上級編として、少し長い文にもトライしてみよう。

(3) お父さん お母さんは 田や畑に出たり 海へ漁に行きます     (現代日本語)

父  母は あるは 田 また 畑にいでたち あるは 海にてすなどりす  (上代日本語)

ティティ パパパ アルパ タ マタ パタカイ ニ インダイタティ アルパ ウミニティ ツゥナンドリ ツゥン                 (弥生語)

まず、弥生語の基本語彙について。上の訳にもあるように、現代日本語の「お父さん」「お母さん」は、弥生語ではそれぞれ「ティティ」、「パパ」である。

現代日本語において並列を表す「たり」は、記紀万葉(古事記・日本書紀・万葉集)では「あるは~」に相当する。「田」「畑」は万葉集の記述に「植ゑし田も 蒔きし波多気も」とあり、「波多気」の「ケ」は古代の発音では「カイ」となる。同様に、「出て」は「伊氐多知(いでたち)」であり、濁音の「で」の前に「ん」が挿入され、「インダイタティ」に。万葉仮名や古代日本語に対応した辞書『和名類聚抄(わなるいじゅしょう)』によると、「漁」は「須奈度利(すなどり)」とある。

いきなり弥生語を聞くと、平安文学とは異なる異次元さがゆえに、アフリカーンス語やフラマン語といった未知の言語に遭遇した時のような感覚になるかもしれない。しかしながら、上記で指摘した規則を念頭に置きつつ、あらかじめ古事記や万葉集に触れたうえで臨めば、意外と頭の中にすんなり入ってくる。

例えば「恋愛しよう」は「恋ツゥン」といった具合に、細かな文法は気にせず動詞に「ツォン」を付けて話すだけで、SNSで弥生人にナリキリ完了!もしかすると自分の可愛さのアピールに繋がり、お気に入りの人との距離がグッと縮まるかも・・・・・・

大中遺跡はこんなところ!

最寄駅であるJR土山駅を下車すると、目の前に飛び込んでくるのは物見やぐらだ。その最上部からは弥生時代の服を身に纏った可愛らしい人形が顔を覗かせている。

土山駅から線路沿いに西方向へ進んでいくと、「であいのみち 播磨町百花園」と書かれた遊歩道が見えてくる。遊歩道には、弥生時代に植生されていたとされる草木が植えられており、思わず心がほっと安らぐオアシスとなっている。弥生時代の人々は草木に囲まれながら、心安らぐ日々は過ごしていたのだろうか。

その遊歩道を1キロメートル弱ほど進み続け、川に架かるふるさと橋を渡った先にあるのが大中遺跡だ。手前には兵庫県立考古博物館、復元された数棟の竪穴住居を構える大中遺跡公園があり、さらに奥へ進むと今回の取材先である播磨町歴史資料館に辿り着く。

今年は新型コロナウイルス感染症のため開催中止となったものの、毎年11月には「大中遺跡まつり」が開催されるなど、弥生文化と連動したさまざまなイベントが盛りだくさん。筆者としてはこちらのイベントも気になっていたりする。そのなかで弥生文化のKawaiiを発見していければと。

(取材・写真提供)

◆播磨町郷土資料館
住所:兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1番2号
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書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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