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2021.03.01

平治の乱で父に殺された源朝長。肉親同士の悲劇の連鎖はなぜ起こったのか?

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平安時代末期、源氏と平家の間に繰り広げられた合戦は、元暦2年/寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いで源氏方の勝利に終わった。たくさんの血が流れ、時には味方同士で争い、子が父を討ち、甥が叔父を討つという凄惨な場面も生まれた。中でも涙を誘うのは父・源義朝(みなもと よしとも)に殺された源朝長(みなもと ともなが)の悲劇である。朝長は義朝の次男で、後に鎌倉幕府を開いた源頼朝の兄にあたる。

平家の悲劇はいろいろな形で語られていますが、源氏にもこんなエピソードがあったのですね……。

朝長のお墓は岐阜県大垣市の北西部・青墓(あおはか)の山中にある。源氏とは全く無縁に思われる土地で、なぜ、朝長は父に殺されなければならなかったのか。事件の謎を解き明かしてみた。

保元・平治の乱合戦図屏風に描かれた義朝・朝長父子をめぐる悲劇

『保元・平治合戦図屏風』(17世紀)は六曲一双という大きなものだ。右隻(うせき:右側の屏風)には保元の乱、左隻(させき:左側の屏風)には平治の乱が描かれ、それぞれの合戦のクライマックスや名シーンを一度に俯瞰(ふかん)することができる。上の画像は平治物語のワンシーンをトリミングしたもの。館の中で男が半裸の若者のもとどり(髪を結わえている根元の部分)をつかみ、刺し殺そうとしている。

男は源義朝。血を流している若者は次男の朝長。2人の女性-夜叉御前と長者-は彼らに背を向けて泣いているように見える。いったい何が起きたというのだろうか…

保元・平治合戦図屏風 部分 メトロポリタン美術館蔵

画面右側の屋内。こんな生々しいシーンが、屏風に描かれているのですね……。

保元の乱で武家の勢力が増大し 平治の乱では平清盛VS源義朝に

保元・平治の乱は通常、ワンセットで紹介されることが多い。保元元(1156)年に起こった保元の乱は、後白河天皇(弟)VS崇徳上皇(兄)という朝廷及び摂関家内部の権力争いだった。これに源平それぞれの武将が加わったのである。天皇方についた主な武将は平清盛・源義朝、上皇方には平忠正・源為義。清盛と忠正は甥と叔父、義朝と為義は子と父という関係だった。まさに骨肉の争いである。結果は天皇方の勝利に終わり、崇徳上皇は讃岐(さぬき:現在の香川県)に配流。忠正、為義はそれぞれ肉親の手により斬首となった。

肉親の手で斬首……平安時代というと雅なイメージがありますが、きれいごとだけでは済まされない厳しい時代だったのですね。

保元の乱によって武家の勢力は朝廷にとっても無視できないものとなり、次に起こった平治の乱では、武家の二大巨頭となった平清盛VS源義朝という対立の構図が鮮明になる。

源氏と平家の争いが、このあたりから明白になっていたのですね。

保元の乱の後、平清盛は天皇の近臣で政治家として優れた手腕を発揮していた藤原信西(ふじわらのしんぜい)と、源義朝は藤原信頼と手を結ぶ。信頼は後白河天皇の寵臣で絶大な権力を誇っており、反信西派の中心人物だった。平治元(1159)年、清盛が熊野詣(くまのもうで)に出かけて都を留守にしたすきをねらって義朝と信頼は挙兵。後白河上皇(譲位した後白河天皇)と姉の上西門院、帝位についた二条天皇の身柄を確保し、信西を自害に追い込む。

槍に結ばれてさらされる信西の首 平治物語(絵巻)第2軸 信西巻 国立国会図書館デジタルコレクション

画面中央、なぎなたに首がくくりつけられています。こわい……!

しかし、取って返した清盛はいろいろな勢力を味方につけて官軍となり、信頼・義朝軍に対しては天皇から追討命令書が出された。平治の乱は平家方の勝利に終わり、この後清盛は武士としては初めて太政大臣に任じられ、平家一族は栄華の頂点を極めることになる。

平家一門の時代の始まりですね。

源氏敗北 義朝は東国へ逃れる途中に側室がいる青墓へ

平家との戦いに敗れた義朝は、長男の悪源太義平(あくげんたよしひら)、次男の朝長、三男の頼朝や家来たちとともに京都の北から近江(滋賀)へ抜け、東国(関東)をめざした。季節は冬。追手から逃れるために関所を避け、どこともしれぬ雪深い山中をさ迷い歩くうち、頼朝は一行からはぐれ、行方不明になってしまう。この時、彼はまだ13歳だった。

敗走だけでも不安なのに、仲間とはぐれ、雪の山でさまよう……ここで諦めないのがすごい!

悪源太義平は父に命じられて再起を図るため、途中から一行と別れ、飛騨を目指してただ一人、落ち延びて行った。悪源太の“悪“は“悪い”という意味ではなく、“強い、勇猛な”という意味である。義平は剛勇の武者として知られていた。

「悪」は強い!? 悪い、っていう意味だけじゃないんだ!

源義平(中央) 絵入名将百史伝 国立国会図書館デジタルコレクション

義朝は朝長らを連れ、東山道(滋賀を起点に東北地方まで延びる昔の官道)の宿駅であった美濃の青墓にたどり着く。普通に歩けば京都から青墓までは2、3日の道のりと考えられるが、この場合はもう少し時間がかかっていたかもしれない。

大垣の北西部にある青墓地区 近辺には古墳が点在する

今ではのどかな里山と田園風景が広がる青墓だが、東山道(とうさんどう)の宿駅だったころは白拍子(しらびょうし)や木の人形を操る芸能集団・傀儡(くぐつ)などがいて、とてもにぎわっていた。白拍子とは平安時代末期に登場する男装の遊女、芸人であり、後白河院の師として今様(いまよう:当時の流行歌)を伝授した乙前(おとまえ)は、青墓の白拍子であったと伝えられる。

白拍子

青墓には大炊(おおい)という長者がいた。長者は女性だったとも考えられ、義朝の側室であったとも、また長者の娘の延寿(えんじゅ)がそうであったともいわれている。源氏と大炊との関係は義朝一代のことではない。義朝の父・為義は大炊の姉を側室としており、4人の子どもを儲けていたとされる。

源氏と青墓には、こうした深い繋がりがあったのですね!

保元の乱で為義が殺された時、子どもたちも全員殺され、妻は身投げして死んだという。源氏と大炊は2代にわたり親密な関係を築いていた。

義朝と青墓の大炊との間には夜叉御前(やしゃごぜん)という名の娘がいた。平治の乱の合戦図屏風に描かれている長者と夜叉御前はこの母子のことだろうと思われる。

保元・平治の乱合戦図屏風 部分 メトロポリタン美術館蔵

敵の捕虜となることを恐れ、父の手にかかった朝長

義朝が大炊にもてなしを受けている間に土地の者たちが義朝が来ていることに気づき、落人狩りに殺到した。どうしたものかと義朝が困っていると、家来の佐渡式部太夫重成(さどのしきぶのだゆうしげなり)という者が義朝の身代わりを買って出て、落人狩りの者たちの目を引き付けて自害し、窮地を救った。

主君の身代わりになって死ぬ、この時代には名誉なことだったんだろうけれど、ちょっと複雑な気分。

その晩、義朝一行は出発しようとしたが、京都と滋賀の県境にある竜華越(りゅうげごえ:途中峠ともいう)の戦いで膝の関節あたりを射られた朝長は、その後の無理な敗走がたたって足が腫れ、もはや一歩も歩けなくなっていた。この時の朝長と義朝のやりとりを『平治物語』では次のように記している。

「甚手(いたで)にて、御供(とも)申すべしとも思(おぼ)えず。暇(いとま)賜(た)ばせたまへ」と申されしかば、頭殿(とうどの)、「いかにもして、供(とも)せよかし」と仰(おお)せられ候(そうら)ひしかども、大夫進(たいふのしん)殿、涙(なみだ)を流させたまひて、「適(かな)ふべくは、いかでか御手に懸からんと申すべき」とて、御頸(くび)を伸べさせたまひたりしを、頭殿、為(せ)ん方(かた)なく、即(やが)て打ち落し進(まゐ)らせて、衣(きぬ)引き被(かづ)け、出(い)でさせたまひぬ。 『平治物語』

文中に出てくる「頭殿」とは義朝、「太夫進」とは朝長のこと。朝長は「傷がひどく、これ以上お供できそうにありません。どうか、お暇をください」と言ったが、義朝は「何がなんでもついてこい」という。朝長は涙ながらに「こうなったらどうか父上の手で殺してください」と言って首を伸ばしたので、義朝も仕方なく(朝長の)首を打ち落とし、遺体に衣をかぶせて出立した。深手を負った朝長はもはやこれまでと思い、敵の手にかかることを恐れ、父に殺してくれと頼んだのだ。

頑張って生き延びる道もあったのかもしれないけれど、何より名誉を重んじる時代だったんだなあ。

異説には、源氏の再起を図るため、義朝に「信濃に行け」と命じられた朝長だったが、傷の痛みのために途中から青墓に引き返してきた。義朝はそのふがいなさを叱り、敵の手にかかって殺されるよりはと朝長を斬ろうとする。しかし、一心に念仏する我が子を見ると、涙があふれて刀を振り下ろすことができない。そこへ大炊の娘の延寿たちが駆けつけて、「どうか朝長の命を助けてください」と懇願する。その場はそれで収まったものの、その夜朝長の寝所を義朝が訪れると、朝長は覚悟を決め父の来るのを待っていた。義朝は朝長の胸を三度刺して殺し、遺体に衣をかけ、涙を流しながら闇に紛れて大炊の屋敷を出発したという。

真相は不明、なのですね。

朝長は自害したという説もあり、果たしてどれが真実かは定かではないが、彼が青墓で死んだのはまちがいない。朝長はこの時、16歳。今なら高校1年か2年という年頃で青春まっただ中。まだまだやりたいこともいっぱいあっただろうにと思うと、なんともやりきれない気持ちになる。

そういう時代だったとはいえ、やっぱり切ないですね……。

源氏一族の末路 家来の手にかかって殺された源義朝

さて、この後、義朝はどうなっただろうか。

杭瀬川(くいせがわ)へ出(い)でさせたまひて候ひし程に、舟の下りしを「便船(びんせん)せん」と仰せられければ、子細(しさい)なく乗せ進(まゐ)らせ候ひぬ。この舟の法師は、養老寺(ようろうじ)の住僧鷲栖玄光(わしのす げんこう)なり。頭殿を怪しげに見進(まゐ)らせて、「人に包む御身にて候はば、萱(かや)の下に隠れさせたまへ」とて、頭殿、鎌田、この童(わらわ)にも、積みたる萱を取り被(かづ)け、国府津(こうづ)と申す所に、関所のありける前をも、「萱舟」と申して通り候ひぬ。『平治物語』

義朝一行が杭瀬川(大垣の東を流れる川で、この頃は現在よりも西の青墓寄りを流れていた)にたどりついたところ、ちょうど舟がやってきたので、「乗せてくれ」と頼むと快く乗せてくれた。この舟を操っていた法師は養老寺の鷲栖玄光という僧侶だった。玄光は大炊長者の兄弟ともいわれる。頼朝を怪しげに見やりながら、「身分を隠していらっしゃるようなので、萱の下にお隠れなされ」といって、頼朝と家臣の鎌田、この私(金王丸という子どもをさす。この話は金王丸が京都にいる常盤御前の元にやってきて告げたものであることから)にも積んでいた萱をかぶせてくれ、国府津という所に設けられていた関所も、「萱舟です」と言って無事に通り抜けることができた。

法師の機転に救われた!

こうして義朝は川を下り、尾張の国(愛知県)野間(のま)の内海(うつみ)にいた源家代々の奉公人である長田忠致(おさだ ただむね)の屋敷にたどり着いたが、恩賞に目がくらんだ忠致は湯殿(お風呂)に入っていた義朝を襲い、殺してしまう。

野間にある源義朝の墓。義朝は刺客に襲われた時、入浴中で刀をもっていなかったため、「ここに一振りの太刀があったら遅れはとらなかっただろうに」と言い残したと伝えられており、現在もその無念さを思いやって木太刀が奉納されている

代々の家来に殺される、なんて思ってもみなかっただろうなあ。

悲劇はさらなる悲劇を呼び、朝長の義妹・夜叉御前は杭瀬川に投身自殺

義朝の首は京都に送られ、青墓の山中にあった円興寺(えんこうじ:大炊氏の懇願により最澄が開山)境内に葬られていた朝長の遺体も平家方に見つかって掘り返されて首をとられ、親子ともに首をさらされた。しかし、後に朝長の守役だった大谷忠太が首を奪い返し、遠江国豊田郡友永村(現在の静岡県袋井市友永)に埋葬した。地名の友永は朝長の名前から来ているらしい。このため、大垣の青墓には朝長の胴が、静岡県袋井市には彼の頭が埋められているという。

長男の悪源太義平は東国へ向かう途中、父・義朝の死を知る。都に戻って清盛を暗殺しようとしたようだが、詳しいことはわかっていない。翌年の永暦元(1160)年に捕らえられて京都で処刑された。

青墓の山中にある朝長(左)義平(中央)義朝(右)の墓 この奥には大炊一族のお墓もある。朝長の墓前には刀石があり、敬意を表して必ず刀をこの石の上に置き、墓に詣でたという

悲劇はこれで終わらなかった。父も義兄も死んだことを知った義朝と大炊の娘・夜叉御前は悲しみのあまり、杭瀬川に身を投げて死んだと伝えられている。

平安時代の血なまぐさい部分が、強く感じられるエピソードでしたね。

清盛の継母によって命を助けられた頼朝

父や義兄弟たちが相次いで命を落とす中、道に迷った頼朝は平家方に捕らえられ、都に送られる。処刑されそうなところを清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)のとりなしによって助けられ、伊豆へ配流の身となった。もしここで頼朝が殺されていたなら、源氏の世が来ることはなかっただろう…  歴史にifはない。

こちらの救われたエピソードのほうが、例外だったんだろうなあ。

建久元(1190)年、頼朝は上洛の途中で青墓にも立ち寄り、長者大炊とその娘たちを召し出して報償を与えた。山中にあった円興寺は後世、信長の焼き討ちにあって焼失。万治元(1658)年、山麓に再興された。平治の乱で命を落とした朝長・義朝ら、源氏一族の位牌を祀り、その菩提を弔っている。

天台宗の寺院・篠尾山円興寺。本尊の聖観音菩薩立像は国の重要文化財。大垣市の紅葉スポットでもある

〔取材〕
円興寺(大垣市青墓880)
〔参考文献〕
『平治物語』(小学館)
岡本與吉『青墓村の歴史と伝説』
清水進『資料で探る西濃の歴史』
大垣市立青墓小学校『ふる里青墓』
馬場光子 論文「傀儡女(くぐつめ)『延寿(えんじゅ)』伝承生成考」

書いた人

岐阜県出身岐阜県在住。岐阜愛強し。熱しやすく冷めやすい、いて座のB型。夢は車で日本一周すること。最近はまっているものは熱帯魚のベタの飼育。胸鰭をプルプル震わせてこちらをじっと見つめるつぶらな瞳にKO

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。