突然ですが、あなたの「生きがい」は何ですか?
コロナ禍で暮らし方や働き方が大きく変わり、「何のために生きているんだろう」と人生をみつめ直す人が増えています。
50年前の日本にも、感染症に苦しむ人びとに寄り添い、その体験の中から『生きがいについて』という本を書き著したひとりの女性医師がいました。
精神科医の神谷美恵子です。
戦後最初の文部大臣となった父のもと、恵まれた少女時代を送った美恵子ですが、初恋の人の死、自身の闘病、医師になることへの両親の反対など、彼女自身が「生きがい」にたどり着くまでの道のりは、決して順風満帆ではありませんでした。
そんな美恵子が「私の生血がほとばしり出すような文字で書きたい」と強い思いを込めて書き綴った『生きがいについて』は、悩みや苦しみを抱える人びとの共感を呼び、日本中に「生きがい」ブームを巻き起こすきっかけとなりました。
先が見えない状況の下、灯台の明かりのように私たちの行く道を照らしてくれる美恵子の言葉を、彼女が生きた軌跡と共にご紹介します。
19歳。ハンセン病の人びとに出会い、衝撃を受ける
美恵子は1914(大正3)年、のちに文部大臣となる内務省官僚、前田多門の長女として生まれました。父の仕事の都合でスイスのジュネーブに暮らした時期もあり、恵まれた子ども時代を過ごします。「平和な家庭生活」を願うふつうの少女だった美恵子に最初の転機が訪れたのは、津田英学塾(現在の津田塾大学)に通っていた19歳のときでした。
キリスト教徒の叔父に誘われて、美恵子は「多摩全生園」という場所を訪れます。多摩全生園は、全国に13ヶ所あるハンセン病国立療養所の1つで、今も患者たちが暮らしています。ハンセン病は、「らい菌」が体内に入りこむことで皮膚や末梢神経がおかされる感染症です。症状が進行すると、手足が変形したり、顔が腫れたり、失明したりすることもあります。現在は薬で治療できる病気ですが、当時は有効な治療薬がなく、患者は家族と離れて隔離されました。治療法が確立した後も、1996(平成8)年に法律が改正されるまで隔離政策が続き、患者たちは長い間人権侵害や差別に苦しんできました。
患者たちの姿に大きなショックを受けた美恵子の心に、「看護師か医師になってこのひとたちのために働きたい」という思いが芽生えます。
20歳。初恋の男性が病気で亡くなる
そのころ美恵子には、想いを寄せる男性がいました。兄の友人だった野村一彦です。腎臓結核を患い、闘病生活を続けていた一彦と美恵子は、お互いを想いながらも、気持ちを伝え合うことはありませんでした。一彦が遺した『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』というロマンチックなタイトルの日記には、美恵子を愛する青年のいちずな想いが繰り返し綴られています。
2人の初恋は、美恵子が20歳になった年、一彦がこの世を去ったことで悲しい結末を迎えます。そのときの気持ちを、美恵子はのちに「将来を共にするはずであった青年に死なれた娘の手記」としてこう記しています。
ガラガラガラ。突然おそろしい音を立てて大地は足もとからくずれ落ち、重い空がその中にめりこんだ。私は思わず両手で顔を覆い、道のまん中にへたへたとしゃがみこんだ。底知れぬ闇の中に無限に転落して行く。彼は逝き、それとともに私も今まで生きて来たこの生命を失った。もう決して、決して、人生は私にとって再びもとのとおりにはかえらないであろう。ああ、これから私はどういう風に、何のために生きて行ったらよいのであろうか。(『生きがいについて』より)
『生きがいについて』という本の中には、このように、ほかの誰かの言葉として、美恵子自身の経験が語られている部分がいくつかあります。
21歳。自身も肺結核に
深いかなしみの谷に突き落とされた美恵子を、さらなる試練がおそいます。津田塾英学塾を卒業して間もなく、21歳の美恵子は肺結核にかかってしまったのです。当時はまだ、結核で命を落とす若者も多い時代でした。美恵子も主治医から「悪化の一路をたどるであろう」と宣告され、軽井沢で数年間の療養生活を送ることになりました。
私にはもう時間というものがなくなってしまったような気がする。(中略)まわりでどんなことがおころうと、自分とはもう何の関係もない。あるのはただ苦しみの永遠のくりかえしだけだ。(『生きがいについて』より)
闘病の末、美恵子は回復しましたが、野村一彦をはじめ、同じ病で命を落とした人たちへの思いは消えることなく心に刻まれました。
いったいなぜ私だけが癒されて、あの人たちは死んで行ったのであろうか、という思いが負い目のようになって、いつまでも心につきまとった。(『生きがいについて』より)
ふつうの女性ならば、恋に憧れたり、幸せな未来を夢みたりする年ごろです。初恋の人の死、さらに自身も死に至ると言われた病を経験したことで、美恵子は生と死について、人よりも深く考えざるをえませんでした。これらの出来事をきっかけに、「病んだ人たちのために働きたい」という美恵子の気持ちはますます強くなっていったのです。
25歳。父から医師になることを許される
父親をはじめ周囲の人びとは、大きな病気を患った美恵子が医学の道に進むことに反対しました。けれど、時が経っても美恵子の意志が変わらないことをさとった父が、根負けする日がやってきます。
「美恵子は医者になるかなーー 君も医学にとりつかれたのだろう。それが何か運命なんだろう。いい俺もあきらめた。俺の生きている限り応援してやるからやれ」(『神谷美恵子日記』より)
25歳でようやく念願の医学を学び始めることができた当時の想いを、美恵子は情熱的な言葉で日記に綴っています。
病気の人の相手をして自己満足するのが私の目的ではない。(中略)私は人を、人の心を、体を、社会を、健全にするために一生を燃やしつくしたいのだ。(『神谷美恵子日記』より)
41歳で子宮癌に。20年越しの思いが叶い、長島愛生園へ
30歳で東京女子医科専門学校(東京女子医科大学)を卒業し、晴れて医師になった美恵子ですが、「ハンセン病の人びとのために働きたい」という彼女の願いが実現するまでには、そこからさらに10年あまりの年月が必要でした。
その間に美恵子は結婚し、二児の母となります。精神科医としての仕事のかたわら翻訳者、語学教師としても働く彼女の毎日は多忙をきわめていました。1955(昭和30)年、41歳になった美恵子に、またも試練が降りかかります。子宮癌と診断されたのです。そのときの心境を、美恵子は「ガンを宣告されたある主婦の手記」として書き残しています。
私がガンにかかっているということがわかったとき実におどろきました。いきなりドカンと頭をなぐられたような感じでした。(中略)私にはいろいろ人生への夢がありました。その大部分はまだ実行できないでいたことでした。死というものがやって来たら、どんなに中途半端な人生でも、そのはんぱなままで去って行かなくてはならないのだ、ということに、今さらのように愕然としました。(『生きがいについて』より)
仕事を持つ女性として、妻として母として充実した日々を過ごしながらも、自分の死を意識したとき、どうしてもやり残したことがあると美恵子は感じていたのです。それは19歳のときに出会ったハンセン病の患者たちへの思いでした。
ああもし愛生園へ行けたら! あそこで私は正気をとり戻すだろう。光田先生の反小市民的な、温い、純粋な精神とあの病める人々の中で。(『神谷美恵子日記』より)
愛生園とは、岡山県瀬戸内市の長島にあるハンセン病国立療養所「長島愛生園」のこと。美恵子は学生時代、実習でこの場所を訪れていました。光田先生とは当時愛生園の園長だった人物です。
放射線治療によって癌の進行を食い止めることに成功した美恵子は、夫のすすめもあり、本当にやるべきだと感じていたことに挑戦する決意をしました。長島愛生園で、精神科医として働くことになったのです。
片道5時間かけて愛生園へ通った15年間
当時美恵子が暮らしていた兵庫県の芦屋から長島愛生園へは、列車と船を乗り継いで片道5時間の道のりでした。美恵子は43歳からおよそ15年間、週末を中心に愛生園へ通う生活を始めます。
美恵子が患者たちに行ったアンケート調査の中で、半数ほどの人びとは「毎日、時をむだにすごしている」「たいくつだ」などと将来に希望がないことを嘆いていました。一方で、少数ではありますが、生きるよろこびを感じているという回答もありました。
ここの生活……かえって生きる味に尊厳さがあり、人間の本質に近づき得る。将来……人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。これは人間の望みだ、目的だ、と思う。(『生きがいについて』より)
この文章を記したのは、愛生園に暮らしていた詩人、志樹逸馬という人物です。美恵子と出会ったとき、彼は39歳。「かなりの重症で、松葉杖にすがって歩いている体は永年の病のためにおとろえ、髪の毛はすでにまっしろであった」といいます。
また、愛生園で「青い鳥楽団」というハーモニカの楽団を指揮していたハンセン病患者、近藤宏一との出会いも、美恵子に大きな影響を与えました。病気の後遺症で目が見えず、指先の感覚も麻痺していた近藤は、感覚が残っている唇と舌を頼りに、点字を読む勉強を始めます。それは文字通り血の滲む努力でした。近藤が読んでいた点字本は、破れた唇から噴き出す血で赤く染まったといいます。それでも近藤は音楽を演奏することに希望を見出し、楽団の仲間のために、音符を舌で読み解き伝えようとしたのです。
同じ状況に置かれても、生きがいを感じられる人とそうでない人がいる。この違いはどこから来るのだろうーー
美恵子の中に生まれた素朴な問いが、のちに『生きがいについて』を執筆する出発点になりました。
「生血がほとばしり出すような文字で」本の執筆に取りかかる
1958(昭和33)年、美恵子は日本で最初に開かれたゴッホの展覧会を見に行きます。そこで彼女は、ある「啓示」を受けとりました。
迫るような緑に圧倒された。自分も表現に身を捧ぐべきことを改めて思った。(中略)展らん会場でも帰途の電車の中でもその事を思いつづけていた。余生をその使命に燃やしつくせよ、と。(中略)希望にみちてたちあがるーー そんな気持だ。やっと時が来たのだ。
ここで言う「表現」というのは、本の執筆を意味しています。愛生園の患者たちと接する中で、人間の「生きがい」について深く考えるきっかけを得た美恵子は、患者たちから学んだことを本の形にして多くの人に伝えたいと考えるようになったのです。
その後、実に7年もの歳月をかけて、美恵子は『生きがいについて』を執筆しました。当時の美恵子の日記からは、「このままガンで死んでもいいように」という強い思い入れをもって、彼女が全身全霊で執筆に向かったことが伝わってきます。
どこでも一寸切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。(中略)体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形でとり出すこと。(『神谷美恵子日記』より)
ずっと船の上、汽車の上を通して書いていた。今「苦しみと悲しみの意味」というところをかいているので、文字通り心血注ぐといった感じ。ああいっそ自分の血でかけたらいいものを!(『神谷美恵子日記』より)
30年分の思いを込めた著書『生きがいについて』
美恵子が最初にハンセン病の患者たちと出会ってから、30年後に出版された『生きがいについて』。美恵子は精神科医でしたが、この本にむずかしい専門用語はあまり使われていません。むしろ誰にでもわかるやさしい言葉づかいで、人はなぜ、どんなときに生きがいを感じるのか、一度は人生に絶望した人たちがふたたび生きがいをみつけるまでの心の軌跡が丁寧に綴られています。医学というジャンルを超え、文学や哲学の書としても読むことができます。
何よりも心にのこるのは、病んだ人、苦しむ人たちを上から目線で励ましたり、憐れんだりするのではなく、心からの深い感謝と尊敬をもって向き合おうとする美恵子のまなざしの純粋さです。
しかしなんといっても主役はらいのひとたちである。(中略)どんな師のことばよりも、どんな書物の説くところよりも、らいのひとたちの、生きた存在に接しえて来たことが、私に多くのものを教えてくれたと思っている。(『生きがいについて』より)
『生きがいについて』は、美恵子ひとりの本ではなく、これまで出会ってきた患者たちと共に作り上げた「共著」だと、彼女は考えていたのかもしれません。
20代の終わり、美恵子は「癩(らい)者に」と題してこんな詩を書いていました。
光うしないたる眼うつろに
肢(あし)うしないたる体になわれて
診察台の上にどさりとのせられた癩者よ
私はあなたの前に首(こうべ)をたれる
(中略)
なぜ私たちではなくてあなたが?
あなたは代って下さったのだ
代って人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ(『うつわの歌』より)
愛する人を病で失い、自身は病気から回復した若き日から、「なぜ私ではなくあなたが?」という思いを、美恵子は心の奥にずっと持ち続けていました。美恵子にとってハンセン病の患者たちと接することは、自身の過去と向き合う道程でもあったのではないでしょうか。
病んだ人たちと共に歩んだ道のり
58歳で長島愛生園での仕事を引退した美恵子は、翌年から狭心症を患い、入退院を繰り返すようになります。当時の心境が、「同志」と題された短い詩に綴られています。
こころとからだを病んで
やっとあなたたちの列に加わった気がする
島の人たちよ 精神病の人たちよ
どうぞ 同志として うけ入れて下さい
あなたと私のあいだに
もう壁はないものとして(『神谷美恵子の世界』より)
美恵子は最後まで、病んだ人たちを見下ろすのではなく、敬意をもって彼らから学ぼうとする姿勢を崩しませんでした。15年という長い間患者たちに寄り添いながら、馴れあいになったり、彼らの苦しみを理解したつもりになることもありませんでした。
1979(昭和54)年、神谷美恵子は65歳でその生涯を閉じます。
彼女が生涯を賭けて書き上げた『生きがいについて』は、出版から50年以上が経つ現在も、多くの人に読み続けられるロングセラーになっています。
「何のために生きているんだろう」とふと思ってしまう夜は、誰にでもあります。
そんなときにはこの本のページを開いて、神谷美恵子の「生血がほとばしり出すような」言葉に触れてみてはいかがでしょうか。
心の琴線に触れる一節に、出会えるかもしれません。
参考文献
神谷美恵子『生きがいについて』(みすず書房)
『神谷美恵子日記』(角川文庫)
神谷美恵子『うつわの歌』(みすず書房)
『神谷美恵子の世界』(みすず書房)
野村一彦『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。』(港の人)
伊波敏男『ハンセン病を生きて』(岩波ジュニア新書)