2021年大河ドラマ『青天を衝け』に登場する、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。徳川幕府15代・最後の将軍として1867(慶應3)年大政奉還後、紆余曲折を経て明治時代に、徳川慶喜家が創設されました。
今回は、徳川慶喜家の成り立ちから、その血統を支えた孫娘たちの激動の人生を紹介します。
徳川慶喜家とは
1868(慶應4)年、慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ謹慎。同年、徳川宗家の家督を、御三卿※の1つ田安徳川家の亀之助、後の徳川家達(とくがわいえさと)に譲ります。
謹慎が解けた後は、駿府改め静岡で隠棲生活。その生活は30年余りに及び、趣味に打ち込み子宝(10男11女)にも恵まれました。しかし、明治天皇に呼ばれ東京に移住。1901(明治34)年東京市小石川区小日向第六天町(現在の東京都文京区)に住まいを移し、1902(明治35)年明治天皇より公爵を授けられ、徳川慶喜家を興すことを許されました。
徳川慶喜邸宅は、当時の町名から「第六天(だいろくてん)」と呼ばれました。
※御三卿(ごさんきょう)田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家の総称。御三家(尾張、紀伊、水戸)と同様に、将軍の跡継ぎを絶やさぬことを目的に創設。慶喜は一橋徳川家の出身(水戸徳川家の出身。将軍になる準備段階として養子に入る)。
徳川慶喜家の女性たち
「第六天」に関わる女性たちは、徳川慶喜の七男で2代目慶久(よしひさ)氏の次女高松宮宣仁(のぶひと)親王妃喜久子(きくこ)殿下、三女喜佐子(きさこ)氏、四女久美子(くみこ)氏(長女慶子<よしこ>氏は早世)。そして、3代目となる長男慶光(よしみつ)氏に嫁いだ和子(かずこ)氏。
一般社会とは隔絶された優雅な世界で、「お姫様」として過ごす彼女たち。しかし、戦後の華族制度の廃止で、一般市民となりその生活は一変。大変な苦労の中、「昔」に執着せず、それでも「品格」を失わず、平成まで生きて天寿を全うしました。
ここで、徳川慶喜家の女性たちの略歴を記します。
次女・高松宮宣仁親王妃喜久子殿下
1911(明治44)年~2004(平成16)年、享年92
1929(昭和4)年、高松宮宣仁親王殿下(昭和天皇弟)と結婚
1987(昭和62)年、高松宮宣仁親王殿下薨去(こうきょ)
著書『菊と葵のものがたり』
三女・榊原喜佐子氏
1921(大正10)年~2013(平成25)年、享年92
1940(昭和15)年、旧高田藩(現在の新潟県)の当主で子爵榊原政春(まさはる)氏と結婚
2002(平成14)年、政春氏死去
著書『徳川慶喜家の子ども部屋』『殿様と私』など
四女・井手久美子氏
1922(大正11)年~2018(平成30)年、享年95
1941(昭和16)年、旧福井藩の当主で侯爵松平康昌(やすまさ)の長男である康愛(やすよし)氏と結婚
1946(昭和21)年、康愛氏の戦死の知らせを受ける
1947(昭和22)年、康愛氏の親友で医師の井手次郎氏と再婚
2004(平成16)年、井手次郎氏死去
著書『徳川おてんば姫』(95歳で作家デビュー、発刊直後に死去)
長男慶光氏夫人・徳川和子氏
会津藩(現在の福島県)藩主松平容保(かたもり)の孫
1917(大正6)年~2003(平成15)年、享年86
1938(昭和13)年、慶喜家3代目慶光氏と結婚
1993(平成5)年、慶光氏死去
著書(姪山岸美喜氏が、手記をまとめたもの)『みみずのたわごと』
明治維新から50年以上経過していますが、婚姻関係を結ぶのは華族であり幕臣に限られ、「敵味方」の意識は根深いようです。
また、全員夫より長生きをし、著書があるという共通点が興味深いです。
以下で、これらの著書を元に、主に三女喜佐子氏と四女久美子氏の人生を振り返ってみます。
三女・喜佐子氏と、四女・久美子氏の暮らし
ふたりで過ごした幼少期
年子の喜佐子氏と久美子氏。周囲からは「お二方」と呼ばれ、何でもお揃い、何をするのも一緒でした。
「第六天」の広い庭や長い廊下を走り回り、スカートで木登りをして、擦り傷切り傷は日常茶飯事。
え?! スカートで木登りって。「お姫様」の本を読んでいるはずでは? と、思わず表紙を見返してしまいました。
もちろん、お付きの者が黙っているはずはなく、「そんなことをあそばすと、未来の殿様がびっくりあそばします」「大将軍のお孫様があられもない」とピシャリ。敬うけど甘やかさない態度に、私は温かいものを感じます。
女子学習院に通っていた2人は、小さいときは自家用車通学。16~17歳くらいになると、念願の電車通学をすることに。しかし、同伴するお付きの者を撒いて、2人で先に学校に行ってしまったことも。なかなかのおてんば振りです。
姉・喜久子妃殿下の存在
喜佐子氏と久美子氏、2人の姉である高松宮宣仁親王妃喜久子殿下。
喜佐子氏とは10歳、久美子氏とは11歳離れていましたが、優しくも厳しい「お姉様」でした。
2人が10歳の頃に亡くなった母親は生前、「自分でお召しをたたむような家には、嫁には行かせませんよ」と伝えていました。しかし母親亡き後喜久子妃殿下は、「何でも自分のことは自分でさせよ」と、お付きの者が着る物や持ち物を揃えていた習慣を廃止に。喜久子妃殿下には先見の明があり、「1人の人間」としての躾を重視。お付きの者の「お姫様」としての躾と、対照的です。
久美子氏は思春期の少女の胸の内を、このように明かしています。
どの服を着ようかと迷う必要はありませんが、自分たちで選びたいという気持ちもやっぱりありましたので、何となく釈然としない感じでしたね。
『徳川おてんば姫』56ページ
もしかしたら、「自分のことは自分で」がうれしかったのかもしれませんね。
両親を早くに亡くしたものの、2人は喜久子妃殿下や兄慶光氏とその夫人の和子氏、そしてお付きの者に支えられ、仲良く伸び伸び育ちます。
それぞれ結婚のため「第六天」を離れますが、その後戻ることはありませんでした。戦後、華族制度の廃止により莫大な財産税を課せられ、国に物納されたのです。
実家に戻れないなんて、寂しいですね。
戦時下での結婚。それぞれの人生を歩み始める
やがて2人は結婚。「お殿様」と「お姫様」の結婚と、現実離した世界。しかし、戦争の足音は近づき、平和な結婚生活にも影を落とします。
三女・喜佐子氏の人生
20歳で、旧高田藩主の子爵榊原政春氏と結婚した喜佐子氏。お見合い結婚ですが、お互い人柄に惹かれます。とはいえ、箱入り姫は戸惑うことばかり。それまで運転手が行きたい場所に連れて行ってくれたので、待ち合わせができない。お店でお金を払うのはお付きの者がしていたので、支払い方法が分からない。そんな様子も温かく見守る政春氏との新婚時代は、幸せいっぱい。
一方で、何をするにも一緒だった久美子氏が寂しがっていたことは、当時は知らなかったそう。恋は盲目ですね。
陸軍に所属していた夫が出征中の1942(昭和17)年に、長女を出産。1944(昭和19)年次女を出産するも、1945(昭和20)年3月10日の奇しくも東京大空襲の日に、次女は気管支炎が悪化し亡くなりました。
夫は喜佐子氏と長女、お腹の中にいた長男の身を案じ、自身の故郷新潟県高田に疎開をさせることを決意。しかし、東京の夫の側にいたい喜佐子氏は反対し喧嘩に。ついに夫に「早く高田に行ってしまえ! 」と怒鳴られ、失意のうちに東京を離れました。
慣れない生活で苦労しながらも長男を出産し、夫も戦死することなく、終戦を迎えました。
戦後、これまでの価値観が一気に崩れ、喜佐子氏は精神的に辛い思いをしました。数年経ち、落ち着いた頃。長年の習慣で、夫を「殿様」と電車の中で呼んだところ、周囲の視線が一斉に自分に集まるのを感じました。「これは普通ではない」と気づき、その呼び方を止めるところから、「昔をとる」ことに意識を向けました。
幸い自身も夫も子どもたちも健康で、主婦として母として祖母として、生涯を終えました。
四女・久美子氏の人生
1941(昭和16)年、久美子氏は旧福井藩の当主で侯爵松平康昌の長男である康愛氏と結婚。
夫康愛氏は海軍将校として、結婚から3か月後には軍隊生活(当初は、月に1~2回は自宅に戻ってきていた)。1942(昭和17)年に男児を出産するも、2日後には亡くなりました。当時の食糧・医療事情の不安定さが、分かります。
その後、1944(昭和19)年には長女を無事出産。しかし、戦局が悪化し東京都八王子市に疎開。幼子を抱えて農作業に薪割り水汲みをこなし、出征した夫の帰りを待つ日々。しかし、終戦の翌年届いたのは、「夫戦死」の報告のみ。
喜佐子氏は、「私には慰める言葉もなかった」と記しています。
夫と死別した当時、久美子氏はまだ20代前半。当時の慣習で、本人の意志と関わらず再婚話が出てきました。
結局、夫の友人で復員した医師の井手次郎氏と1947(昭和22)年再婚。一方辛い別れが。前の婚家である松平家が、血筋を絶やさないために、長女を引き取るというのです。久美子氏も徳川家の人間で、家の重みは十分理解しているので、涙を呑んで自分だけが離籍しました。
戦後でも、こういう世界はあったのですね。
2年ほどして、次郎氏は横浜市の下町で開業。忙しいときは、久美子氏も手伝いましたが、喧嘩のケガ人が駆け込んでくるような現場でした。それでも、持ち前の順応性ですぐに慣れました。
とはいえ、酔っ払いがいたり娼館があったりと良い環境ではなく、長男も生まれたので、2年たらずでその医院は閉めました。
その後は喜久子妃殿下のはからいで、高松宮邸内の官舎に移り、その中に医院を開設。夫は生涯現役を貫きました。
閉院後は、千葉県で団地住まいに。デイサービスに通いつつ、静かな余生を暮らしました。平成の始めから文章を書き溜めて、2018(平成30)年に95歳で作家デビュー。発刊から1か月後、 ホッとしたように、静かな眠りにつきました。
私が感銘を受けた、2人の言葉
激動の2人の人生で、私が感銘を受けた記述を記します。
喜佐子氏
人にかしずかれ労せずして暮らしていける身分にある者には当然の義務というものがあって、自由は望んではならない、常に人への配慮を忘れてはならない、自分を律することに厳しくなければならない、と思っている。
『徳川慶喜家の子ども部屋』270ページ
久美子氏
(お付きの者には)行儀や言葉の遣い方はもちろん、人としてあるべき姿や品格も厳しく躾けられました。「やりたくない」「嫌い」「美味しくない」といった人に不快な思いを抱かせるような言葉も決して口にしてはいけませんでした。
『徳川おてんば姫』 30ページ
私は「かしずかれる」身分ではないけれど、人として大切なこととして肝に銘じたいです(少し、耳が痛いですが)。
おわりに
2人は、このような思いを「品格」として持ち続け、一方で「昔」に執着しなかったことで、戦後を穏やかに暮らせたのではないでしょうか。
コロナ禍で大きく変わった生活の中、私は「前だったら」「昔だったら」と、何度もこぼしました。2人は、この状況を空の上でどう見ているのだろうと、考えました。
「時代は変わるものです。でも大丈夫ではないでしょうか? 乗り越えられると思います」と、上品な言葉で返されると思います。
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<協力>
山岸美喜氏
<参考資料>
高松宮妃喜久子『菊と葵のものがたり』(中公文庫、2002年)
榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋』(草思社、1996年)
井手久美子『徳川おてんば姫』(東京キララ社、2018年)
徳川和子・山岸美喜『みみずのたわごと』(東京キララ社、2020年)
日本経済新聞夕刊『墓継承問題 慶喜家も直面』(2021年3月4日付)
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徳川おてんば姫