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2021.01.07

徳川慶喜の人生に密着!草なぎ剛が『青天を衝け』で演じる15代将軍は、無類のグルメだった?

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250年以上続いた江戸幕府のトップを務めた、徳川将軍15代。
当時、日本で最高の医療を受けられる立場にあったはずの彼らですが、意外にも70歳を過ぎて生きたのは2人だけです。
1人は、初代・徳川家康で、75歳(数え年)まで生きました。戦国の乱世を駆け抜け、心身を酷使していたはずですが、無類の「健康オタク」であったことが功を奏したようです。なにしろ、薬学書をもとに自分で生薬を調合し、体調に応じて服用していたというから驚き。食生活も、麦飯に味噌など粗食に徹し、鷹狩りから水泳まで様々な鍛錬にいそしんだことが知られています。死去する前年に大阪夏の陣に出陣するほど強健であったのは、こうした健康管理のおかげなのは間違いないでしょう。

家康の長寿を支えた粗食の主役は麦飯

77歳まで生きた最後の将軍

では、健康オタクの家康をしのいで77歳の天寿をまっとうしたのは、誰でしょうか?
答えは、第15代・徳川慶喜です。大政奉還によって政権を朝廷に返上し、江戸城を無血開城したのちは、30歳そこそこの年齢にして政界から引退。能力のある者としては、長すぎるリタイア生活を送ったという、徳川15代で異例づくめの人生でした。そして、当時の基準に照らしても、かなりのご長寿であったことも異例です。
さて、慶喜の長寿の秘訣は何であったのでしょうか? 今回はその疑問を探ってみましょう。

一汁一菜の粗食で育った少年時代

慶喜が生まれたのは、1837(天保8)年。徳川御三家の一つ、水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)を父に、有栖川宮織仁親王家の登美宮吉子(とみのみやよしこ)を母に、江戸の水戸藩上屋敷で産声をあげました。七男ということで、幼名は七郎磨(しちろうま)でした。
父の斉昭は、七郎磨を生後7か月で水戸へ送り出します。これは、きらびやかな都会で育つと軟弱者になるという父親の信念からで、一汁一菜の朝食に始まり、勉学と武道の鍛錬が終日続くという、厳しい養育環境のもとで暮らしました。
寝相が悪いからと、枕の両側に剃刀を立たせるなどスパルタ教育を受けた慶喜でしたが、それだけ父親からの期待が大きかったのです。

父から伝授された健康法

11歳になった七郎磨は、徳川御三卿のひとつ、一橋家を相続します。この時に元服し、名を慶喜と改めました。
一橋家の当主となり、江戸に上がった慶喜は、親の期待どおりに壮健な身体と明晰な頭脳を持つ青年へと成長していきます。
文武両道はひとまず筋道がついたところで、今度は父から長生きのための養生法を伝授されます。

黒豆は日に百粒づつ上がり、牛乳も上がり申し候よし、これはかねても申し候通り、御一生御止め成されざるやういたしたく候。(斉昭からの書簡より抜粋)

黒豆(黒大豆)を毎日100粒食べて、牛乳も飲むというのが、斉昭流の健康法でした。当時の日本人に牛乳を飲むという習慣は定着していませんでしたが、慶喜は言いつけを励行していたようです。

徳川斉昭流の健康法のひとつが「黒豆を毎日100粒食べる」

また、慶喜には胸焼けの持病があったのですが、これを斉昭は、水分の摂り過ぎと判断。食事の際にお茶などは飲まず、武芸の修練でのどが渇いても煙草でごまかせなどとアドバイスしています。さらに、入浴時には水でうがいして、吐き出した水で目を洗えとも指示しているのですが、ここまでくると相当あやしい世界です。

大の豚肉好きとなった青年期

1858(安政5)年に起きた安政の大獄では、水戸藩と朝廷が結託して幕府に反逆したと問われ、慶喜は父や兄とともに謹慎処分を受けます。
処分が解かれると、慶喜は将軍後見職に任ぜられ、14代将軍・家茂を補佐します。家茂の上洛に伴い慶喜も京都に入り、のちに禁裏御守衛総督と摂海防禦指揮の役職を兼務。
1864(元治元)年の禁門の変では、幕府軍を率いて、京都御所へ攻めてきた長州の軍勢を撃退する獅子奮迅ぶりを見せつけました。
これについて、田安徳川家の現当主である徳川宗英さんは、次のように述べています。

禁門の変での活躍ぶりから、慶喜には相当な体力があったことが判る。スタミナ源は豚肉だったのかもしれない。豚肉(特にヒレ肉)は、疲労回復に効果的なビタミンB1、神経や筋肉の機能を正常に保つ働きをするリンや血行を促進する鉄などのミネラルに富んでいる。実は、慶喜は「豚一殿(豚を好む一橋殿)」と綽名されるほど豚肉が好きだった。(『徳川家に伝わる徳川四百年の裏養生訓』より)

この頃の日本は、豚肉が食卓にのぼることは稀でした。ただ、薩摩藩や琉球では比較的よく食べられ、薩摩藩主の島津斉彬は、斉昭に豚肉を贈っていたという記録があるそうです。慶喜は水戸藩時代に、月に数回出されたであろう豚肉の味が忘れられず、大人になって豚肉好きになったのでしょう。薩摩藩の家老・小松帯刀は、慶喜から何度も豚肉をねだられて困ったと記した手紙が残っているくらいです。

豚肉に目がなかった青年期の慶喜の写真(京都大学附属図書館所蔵)

肉食系将軍の誕生

1866(慶応2)年、慶喜は時の孝明天皇の命により、征夷大将軍の座につきます。先見の明のあった慶喜は、江戸幕府という体制はそう長くはもたないと予見しており、将軍職に就くことには前向きではありませんでした。
徳川宗英さんは、慶喜が「ヨーロッパの政治制度を参考にした新政府を建て、フランスの協力を得て軍制や税制も一新するという壮大な構想」を抱いていたと述べており、このきっかけ作りとして外国の公使を招いては晩餐会を開いたそうです。その際に提供された料理は、豚腿肉のハムのトリュフ添えや鶏のささみのクリーム仕上げなど、こってりしたフレンチでした。
連日の晩餐会に出席した慶喜は、歴代将軍随一の肉食系であることは間違いないでしょう。日本側のほかの出席者にとっては、試練だったかもしれませんが。

戦いに負けても食欲は誰にも負けず

肉食外交(?)の甲斐あって、慶喜に対する外国の期待は高まったのですが、それに危機感を持ったのが薩摩藩と長州藩です。
彼らは武力によって幕府を倒す計画を立てますが、慶喜は大政奉還によって機先を制します。それがかえって慶喜の存在感を増すことになり、いよいよ危ないと考えた薩摩藩は、大坂城から進軍する幕府(徳川)軍に戦闘を仕掛けます。これが鳥羽・伏見の戦いです。
兵力的には幕府軍が有利でしたが、薩摩藩の軍勢は錦の御旗を掲げて、自身が官軍であることをアピール。幕府軍は戦意を喪失してしまいます。水戸藩仕込みの尊王思想に染まっていた慶喜は、朝敵扱いされたことですべてを諦め、大坂城を抜け出て、海路江戸へと脱出しますが、そこでもスタミナ食で元気づけようと試みています。

「開陽丸」で品川沖に着いた慶喜は、正月十二日朝に上陸して浜御殿に入ると、青菜のような顔色の幕閣達を尻目に家来を呼び寄せ、「長い京暮らしと船旅で体の脂が抜け、骨がバラバラになってしまったかのようだ。鰻の蒲焼きを買ってこい」と命じた。しかも、「霊岸島の大黒屋で購入せよ」と店まで指定したという。(『徳川家に伝わる徳川四百年の裏養生訓』より)

大黒屋は、江戸時代に創業した鰻の蒲焼きの老舗ですが、万葉の昔から鰻はスタミナ食として重宝されてきました。それが、18世紀の終わりから江戸前の蒲焼きがちょっとしたブームになり、グルメな慶喜がそれを知らないはずがありません。大黒屋の鰻がよほど美味だったようで、その後もたびたびこの店の蒲焼きを取り寄せています。

くわえて食指を示したのが鮪(まぐろ)です。浜御殿(徳川将軍家の別邸)から江戸城に移っての夕食は鮪三昧。刺身に味噌漬けにアラの部分までもれなく堪能。現代人にはうらやましい限りですが、実は当時、鮪は不人気で、特にトロは誰も食べず捨てられていたそうです。特に武家では、鮪の別名の「しび」が「死日」を連想させると忌避されるほど。しかし、慶喜は、タンパク質をはじめ栄養満点であるこの魚を好みました。

豚肉に鰻に鮪にと、慶喜はスタミナ食好き

多趣味のリタイア人生も長生きに貢献

新政府軍と戦う気力を喪失した慶喜は、再挙を求める周囲の声に耳を貸さず、上野の寛永寺に籠りました。江戸城が開城すると、江戸から水戸へ、さらに駿府(静岡)へと下って、そこで30年近く暮らすことになります。
まだ30代前半で隠居というかたちで第二の人生を始めた慶喜ですが、駿府時代に22人の子宝に恵まれるなど、家庭生活はおおむね充実していたようです。ただし、他の旧幕臣と同様、経済的に楽ではない期間が長くあり、グルメな食生活を切れ目なく続けられたかといえば疑問です。
記録によれば、畑作に従事する旧幕臣から作物の献上が毎年あったそうで、その内訳は「薩摩芋やお茶を中心に、松茸・枝豆・胡麻・蜜柑・梨・ざぼん・大根等」とあります。毎日の肉食は無理でも、バラエティに富んだ食材に舌鼓を打ったことでしょう。
ところで、長い隠居生活で慶喜の人生を特色づけたのは、趣味でした。カメラや自転車といった西洋伝来の新しいものから、狩猟、釣り、乗馬、和歌、囲碁・将棋、陶芸、はては刺繍まで、いろいろなジャンルの趣味に打ち込みました。

隠居生活では囲碁・将棋など様々な趣味に没頭

いうまでもなく趣味は、日常のストレスや退屈を解消し、前向きに生きる気力を増すという意味で、とても健康的なものです。慶喜が手を染めた趣味には、身体や手先を動かすものも多く、こうした要因が慶喜のご長寿人生に寄与したことは容易に推測できます。
幕末・維新期の志士の多くが、公務のストレスや酒色で命を縮めるなか、おおらかでマイペースに生きた慶喜が、歴代将軍で一番の長命を誇ったのも当然なのかもしれませんね。ついでながら、来年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、慶喜の家臣であった渋沢栄一が主人公ですが、草なぎ剛演じる慶喜も登場します。劇中の食事のシーンで彼が何を食べるか、注目してみるのも一興でしょう。

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参考・引用図書

『徳川家に伝わる徳川四百年の裏養生訓』(徳川宗英/小学館)
『徳川ごはん』(永山久夫/mores出版)
『父より慶喜殿へ―水戸斉昭一橋慶喜宛書簡集』(大庭邦彦/集英社)
『老いと病でみる幕末維新』(家近良樹/人文書院)

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NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 青天を衝け: 渋沢栄一とその時代

アイキャッチ画像:国立国会図書館

書いた人

フリーライター。北国に生まれるも、日本の古くからの文化への関心が抑えきれず、2019年に京都へ移転。趣味は絶景名所探訪と美術館・博物館めぐり。仕事の合間に、おうちにいながら神社仏閣の散策ができるYouTube動画を制作・配信中→Mystical Places in Japan