日本文化の入り口マガジン和樂web
9月21日(火)
この世にて慈悲も悪事もせぬ人は、さぞや閻魔も困りたまはん(一休宗純)
日本文化の入り口マガジン 和樂web
日本文化の入り口マガジン 和樂web
9月20日(月)

この世にて慈悲も悪事もせぬ人は、さぞや閻魔も困りたまはん(一休宗純)

読み物
Culture
2021.02.14

幕末って何? 2021年大河ドラマ『青天を衝け』の背景をQ&Aでサクッと解説

この記事を書いた人

「幕末って、なんだかよくわからない!?」
2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公は、吉沢亮さん演じる渋沢栄一。時代は幕末から明治です。とはいっても「幕末ってどんな時代だっけ?」「歴史の授業でやったかもしれないけれども、よくわからない」という人も少なくないかもしれません。同じ変革期でも戦国時代などと比べて、幕末は外国の動きや思想もからんで難しく感じられるのも事実。そこで今回は、幕末という時代をQ&A形式でわかりやすく解説します。時代背景を知って、大河ドラマ『青天を衝け』をより楽しみましょう。

幕末か〜「新撰組」が活躍してたってことくらいしか知らないな…

■和樂web編集長セバスチャン高木が解説した音声はこちら

京都

Q1.そもそも幕末って何ですか? いつから幕末なのですか?

幕末とは、徳川幕府が統治していた江戸時代の末期を指します。徳川幕府の末期なので幕末。
幕末がいつからなのかは明確な定義がありませんが、嘉永6年(1853)にペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀(現、神奈川県横須賀市)に来航し、開国を求めた、いわゆる「黒船来航」から始まると考えるのが一般的です。

黒船も幕末のイメージある!

また「幕末の動乱」の始まりとして、安政7年(1860)の桜田門外の変から、とする考え方もあります。

Q2.なぜ黒船が日本に来たのですか?

黒船来航は日本史では突然の出来事のように語られますが、世界史的に見れば、大きな流れの中の必然的な出来事でした。
まず1840年~42年(天保11年~同13年)にかけて清(しん)国でアヘン戦争が起こり、清はイギリスに敗れて不平等条約を結ばされます。また1853年~56年(嘉永6年~安政3年)にはクリミア戦争が起こり、オスマン帝国とイギリス、フランスの同盟軍がロシアを破りました。その結果、イギリス、フランスは勢いを得ますが、勝者側のオスマン帝国は弱体化が進みます。
つまり清国やオスマン帝国などアジアの大国が没落する一方で、イギリス、フランス、プロイセン(現、ドイツ)といったヨーロッパ諸国が、新たな利権獲得を目指して世界を席捲(せっけん)していた時期でした。
また、ペリー艦隊を日本に派遣したアメリカに目を転じると、開拓民が西海岸にまで到達し、フロンティア(未開拓地)が消滅しつつあった時期にあたります。そんな欧米列強諸国にとって、最後に残った魅力あるマーケットが、当時、鎖国(さこく)をしていた日本だったのです。

ペリーさんたちはフラッと日本に来ただけじゃないんですね!

欧米列強

Q3.黒船来航を、当時の日本人はどう受け止めたのですか?

「泰平(たいへい)の 眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」

黒船来航直後に詠(よ)まれた狂歌で、高級な宇治茶の上喜撰に蒸気船をかけ、また四はい(四杯)に4はい(4隻)をかけて、黒船来航当時の幕府のあわてぶりを風刺したことで有名です。では、泰平の眠りを覚まされた当時の日本人は、黒船来航に恐れおののいていたのでしょうか。

まず庶民は、恐れるというよりも興味津々だったようです。なにしろ幕府が「異国船見物禁止令」を出さなくてはならないほど、江戸や近隣から黒船を一目見ようと野次馬が殺到しました。中には小舟で黒船に接近し、乗組員と物々交換をして珍品を手に入れようとしたり、物を売って商売を始めようとする者まで現れています。

異国からの来客にアワアワする幕府と楽しむ庶民。カオスだ〜

一方の徳川幕府は、「たった四はいで夜も寝られず」の狂歌通り、対応に苦慮していました。
日本近海に異国船が現れたのは、ペリーが初めてではありません。19世紀の初頭より、しばしばロシア船が姿を見せており、文化5年(1808)には長崎で、イギリス船が狼藉(ろうぜき)を働くフェートン号事件なども起きています。武士階級はアヘン戦争以後、清国を半植民地化している列強の脅威を知っており、幕府上層部は黒船来航についても、実は事前に情報をつかんでいました。にもかかわらず、いよいよペリーが直接開国を求めてきた際に、幕府はそれに対する準備ができていなかったのです。結果、アメリカに言われるがまま、嘉永7年(1854)に日米和親条約を結ぶことになり、なし崩し的に開国となりました。

え!黒船が来ることを知っていたの!?それで慌てるなんて…ポンコツなのか……

この幕府の弱腰が、大きな問題となります。
江戸時代、2本の刀を腰に差した武士が、庶民よりも上の身分であるとされたのは、有事の際に庶民を守るという大前提があったからでした。ところが200年以上の泰平の世が続いた結果、特に上級武士の多くからはそんな自覚も薄れており、外国船の恫喝(どうかつ)に対しても無力であることが、誰の目にも明らかになってしまったのです。列強の脅威は今後、さらに増すことは間違いなく、「このままでは日本が危うい」と多くの人が考えるようになりました。

描かれたポーハタン号(シカゴ美術館蔵)

Q4.幕末の人々は「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という言葉をよく使いますが、どんな意味なのですか?

「尊王攘夷」の「尊王」と「攘夷」は本来、別々のものです。まず尊王から説明します。

よく耳にする気がするけど意外と知らない「尊王攘夷」

幕末の尊王(尊皇)は「天皇を尊ぶ」という意味ですが、もともとは中国の儒教(じゅきょう)の思想にある、「武力で権力を握る覇道(はどう)よりも、仁徳をもって統治する王道を尊ぶ」という考え方からきています。ちなみに江戸時代、武士はもとより庶民まで、学問といえば儒教(儒学)を学ぶことを指しました。

さて江戸時代の前期、徳川御三家の水戸藩において、水戸黄門(こうもん)で知られる徳川光圀(みつくに)が歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)を始めます。その中で儒教の思想に基づきながら、日本で「王」とは天皇を意味しており、天皇を尊ぶべきであるという「尊王」の考え方を明らかにしました。そもそも幕府の将軍(征夷大将軍〈せいいたいしょうぐん〉)も天皇から任命されたもの。つまり天皇が尊い存在であるからこそ、天皇に任命された将軍にも正当な権威があると考えるわけです(水戸藩で形成されたこうした考え方は「水戸学」と呼ばれます)。
このように「尊王」は幕末に突然現れるものではなく、江戸時代の前期から、いわば武士の常識となっていた考え方でした。

へ〜「尊王」は水戸で誕生したんだ!

また江戸時代の中期から盛んになる「国学(こくがく)」という学問も、尊王という考え方を後押しします。国学とは、仏教や儒教が入る前の、古来の日本人の考え方を明らかにしようとする研究で、本居宣長(もとおりのりなが)や平田篤胤(ひらたあつたね)らが確立しました。豪農と呼ばれる富裕な農家をはじめ、武士や町人の間でも『古事記』『日本書紀』や神道の研究が熱心に行われ、その中で日本における天皇や朝廷の重要性が広く再認識されていくことになります。

そうした下地ができていたところに黒船が来航し、幕府の弱腰が白日のもとにさらされました。その結果、幕府への信頼感が低下する一方で、天皇や朝廷の存在感が増すことになり、「いまこそ古来、連綿と続く天皇をもり立て、その下に結集すべきではないか」という考え方が広がることになりました。

徳川光圀像(水戸市)

Q5.「尊王攘夷」の「攘夷」って何ですか?

攘夷という言葉も、中国の儒教に由来します。
中国周辺の野蛮な異民族(これを夷狄〈いてき〉と表現します)が国内に攻め込んできたら、夷狄を追い攘(はら)うことが攘夷でした。それをもとに幕末の日本では、西洋列強の脅威を打ち払うという意味で攘夷という言葉が用いられたのです。

この言葉を広めたのも、水戸藩の「水戸学」が大きく関わっていました。
文政7年(1824)、水戸藩領の大津浜(現、北茨城市)に、イギリス人が上陸する事件が起こります。水戸藩の儒学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)はこの事件に衝撃を受けました。長い海岸線を持つ水戸藩では、いつ外国の侵攻を受けるかもわからず、またそれは島国である日本全体にもいえることで、どこで侵攻が起きてもおかしくありません。翌文政8年(1825)に幕府は「異国船打払令」を出しますが、会沢は、命令を実行して外国の侵略から日本を守るためには、幕府を筆頭に日本人が天皇の下で一致団結して(尊王)、異国(夷狄)を打ち攘わなければならない(攘夷)、としたのです。ここに尊王と攘夷が結びつき、「尊王攘夷」という言葉が生まれました。

この「尊王攘夷」という考え方には多くの人が共鳴し、やがて武士だけでなく庶民を含めて全国に広まり、当時の日本人の「常識」となっていきます。なお、本来「尊王攘夷」には特に過激な意味はありませんでした。ところがその後、幕府が開国へと政策を転じると、「尊王攘夷」は幕府を批判するスローガンとして使われることになるのです。

水戸藩の藩校・弘道館内の「尊攘」の書(水戸市)

Q6.渋沢栄一は一橋家に仕えますが、江戸時代、農民が武士になることは許されたのですか?

2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一は、武蔵国榛沢(はんざわ)郡血洗島(ちあらいじま)村(現、埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれました。つまり農民ですが、のちに一橋(ひとつばし)家に仕える武士となります。しかし、ちょっと待ってください。江戸時代、農民が武士になるなんてことが許されたのでしょうか?

結論からいうと、可能でした。

え!身分制度は!?

私たちは江戸時代というと、武士を頂点とする厳しい身分制度があり、農民や町人が武士になることはないと思いがちです。もちろんほとんどの人は、農民は農民のまま、町人は町人のままで生涯を終えましたが、条件が合えば、身分移動することができました。
たとえば武家の養子となる、また人物や才能を認められて武士として取り立てられる場合があります。あるいは裕福であれば、お金で武家の株を買い、武士になることもできました。渋沢の場合は、人物を認められて取り立てられたケースです。また勝海舟(かつかいしゅう)の曽祖父は農民出身の鍼灸(しんきゅうし)師でしたが、旗本の株を購入して武士の身分となりました。

Q7.渋沢が仕えた一橋家とは、どんな家なのですか?

和樂web編集部がある小学館の所在地は東京都千代田区一ツ橋ですが、この一ツ橋という地名は、付近にかつて江戸城の堀に架かる一ツ橋という橋と、一橋門があったことに由来します。その門の近くに屋敷があったのが、一橋家です。
一橋家は、正しくは一橋徳川家。御三卿(ごさんきょう)の一つで、御三家(ごさんけ)に次ぐ高い格式の家でした。

えぇ…!8年間一ツ橋に通っていたけど、地名の由来は知らなかった!!

江戸幕府を開いた徳川家康は、宗家の跡継ぎが絶えた場合に備えて、御三家を置いたといわれます。それが尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家でした。やがて家康が心配した宗家が絶える事態が、7代将軍家継(いえつぐ)の急死で起こります。その結果、紀伊徳川家の当主が宗家を継いで、8代将軍吉宗(よしむね)となりました。ドラマの『暴れん坊将軍』でもおなじみです。

しかし吉宗がライバルである尾張を抑えて将軍となるまでには、水面下でさまざまな暗闘がありました。それを踏まえて吉宗は、自分の息子たちに新たに田安(たやす)家、一橋家を創立させ、さらに吉宗の長男である9代将軍家重(いえしげ)も息子に清水(しみず)家を立てさせて、今後、宗家が絶えた際には、田安、一橋、清水のいずれかから後継者を出すことにしたのです。この三家が御三卿でした。

御三卿は御三家と異なり、いずれも藩ではありませんし、代々の家臣もいません。また石高(こくだか)も均しく10万石で、御三家の尾張62万石、紀伊53万石、水戸35万石とは大きな差があります。屋敷はいずれも江戸城内にあり、将軍の身内として扱われました。11代将軍家斉(いえなり)は一橋家の出身ですから、吉宗のねらい通り、御三卿が機能した場面もあったといえます。

幕末も近い弘化4年(1847)、12代将軍家慶(いえよし)の意向で、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男が一橋家を継ぐことになりました。まだ11歳ながら聡明で知られたこの少年が、一橋慶喜(よしのぶ)。幕末の台風の目となり、最後の将軍となる人物です。やがて慶喜は幕府の要職に就くことになり、家臣の少ない一橋家では、有能な人材を求めていました。渋沢栄一が一橋家に取り立てられたのには、そうした背景があったのです。

三つ葉葵紋

Q8.幕末の動乱は尊王攘夷を主張する側と、開国を進める側の対立といってよいのですか?

よく幕末の対立構造を「尊王攘夷vs.開国」と表現しますが、必ずしも正確ではありません。前述したように、尊王攘夷という考え方は当時、広く日本人に浸透していました。幕府の為政者たちも、その点では同じなのです。幕府は嘉永7年にアメリカやイギリスと和親条約を結び開国しますが、これは開国を拒む手段がなかったため、やむを得ず行ったものでした。和親条約はその後、オランダやロシアとも結ばれますが、基本的に限られた港を開き、求められれば外国船に水や食料、燃料等を供給するという、日本側が恩恵を与える限定的な取り決めです。

しかしその後、アメリカからの強い要望があり、幕府は安政5年(1858)に日米修好通商条約を締結しました。これは単に港を開くのではなく、積極的に貿易を行うという取り決めです。背景として当時、清国で再びイギリス、フランスとの戦いが起きており(アロー号事件〈第二次アヘン戦争〉)、アメリカは、アヘンの輸入禁止の条項を含む条約を先にアメリカと結んでおけば、イギリスやフランスの日本侵略を阻止できると説いたといいます。幕府にすれば、これも拒むことは困難だったのでしょう。

海外からの圧に太刀打ちできない日本……

しかし、尊王攘夷の世論がある手前、京都の朝廷の許可を得て、「帝も条約を許されたのなら」と世間を納得させたうえで条約締結に臨むことにします。ところが……。朝廷はあくまで攘夷を主張し、幕府に許可を与えません。アメリカと朝廷の板挟みとなった幕府は、ぎりぎりまで朝廷と交渉しますが断念、やむなく大老(たいろう)井伊直弼(いいなおすけ)の決断で、条約締結に踏み切りました。

井伊直弼像(彦根市)

しかし、勅許(ちょっきょ、天皇の許し)を得ずに通商条約に調印したことは、尊王にも攘夷にも反する行為であり、当然ながら非難の声が諸方からあがります。水戸藩主や尾張藩主ら御三家や、越前松平家のような徳川一門も幕府を批判しましたし、朝廷も幕府に説明を求めました。

これに対し、肚(はら)をくくった井伊大老は、当時、もめていた14代将軍の座を紀伊徳川家出身の徳川家茂(いえもち)に決めるとともに、幕府を批判する者たちを徳川一門、大名、公家、一般の武士や浪士を問わず、すべて処罰します。「安政の大獄(たいごく)」と呼ばれるもので、「ご公儀(こうぎ)の政道に口を挟むなどもってのほか」という強烈な意思表明でした。このとき、14代将軍の座をめぐって家茂の対抗馬であった一橋慶喜も、「隠居謹慎」の処分を受けています。しかし、安政の大獄は多くの人々の反感を買い、安政7年(1860)、井伊大老は桜田門外において水戸浪士らによって暗殺されました。幕府の権威は地に堕ち、幕末の動乱が始まることになるのです。

以上の流れの表面だけを追うと、「通商条約を結び開国路線を進める幕府vs.尊王攘夷を主張する朝廷と多くの人々」のように見えます。しかし、幕府も外国に対抗できる手段がないのでやむなく開国をしたのであって、外国の言いなりでよいとは考えていません。たとえば安政2年(1855)には、鎖国中の江戸時代に唯一外交貿易をしていたオランダの協力で、長崎に「長崎海軍伝習所」を開設。列強に対抗できる日本海軍の育成を図っています。

一方、尊王攘夷を主張する人々も、その具体的な内容は一致していません。おおまかに大別すると、「幕府が外国と結んだ条約などは無視して、即刻、異国を追い払え」と主張する人々と、「列強とは、いますぐに戦っても勝ち目はない。まずは開国、貿易をして日本の国力を高めることで、列強の脅威を防ごう」と考える人々の二つに分かれます。学問上では前者を「小攘夷派」、後者を「大攘夷派」と呼び、「大攘夷派」の考え方は明治維新後の明治政府にも引き継がれました。

結局、尊王攘夷については誰もが共通の認識を持ちながら、それをどのようなかたちで実現し(幕府のあり方も含めて)、列強の脅威を防ぐか、というところで意見が分かれ、幕府支持派と反幕府派の対立が激しくなっていくのです。

Q9.幕末の頃、渋沢栄一は何をやっていたのですか? 大河ドラマの演者もあわせて紹介!

これは分かりやすい!大河ドラマの予習にもピッタリ♪

前述の通り渋沢(演・吉沢亮)は、武蔵国榛沢郡血洗島村の農家に、天保11年(1840)に生まれました。幼名は栄二郎、その後、栄一郎と名乗ったようです。父は市郎右衛門(いちろうえもん、演・小林薫)、母はゑい(演・和久井映見)。父の市郎右衛門には商才があり、藍玉(あいだま、藍染めの染料を固めたもの)の製造販売で大いに成功して、家は豊かでした。渋沢は幼い頃より、父親の藍の葉の買い付けを見て成長し、14歳頃からは父に代わって買い付けや染物屋まわりを任されるほどであったといいます。

そのかたわら、従兄の尾高新五郎惇忠(おだかしんごろうあつただ、演・田辺誠一)が開いていた塾に通って学問を、また、やはり従兄の渋沢新三郎(しんざぶろう)に剣を学びました。この時、渋沢と一緒に学んでいたのが、2歳年上の従兄・渋沢喜作(きさく、演・高良健吾)です。当時の裕福な農家では、たしなみとして学問、剣術を学ぶことが普通に行われていました。

また尾高新五郎の塾では「水戸学」も学んでおり、尊王攘夷という考え方にも接していたといいます。折しも渋沢が14歳の時に黒船が来航。騒ぎを肌で感じていたことでしょう。

渋沢栄一の生家(深谷市)

17歳の時、渋沢家は領主の岡部藩安部(あんべ)家より500両の御用金上納を命じられます。現在の価値に換算して、1,000万円以上の大金でした。この理不尽な命令に渋沢は、父に代わって安部家の役人(演・酒向芳)と交渉しますが、役人は「農家の小倅(こせがれ)」の話などはなから聞く耳を持たず。渋沢はこの事件をきっかけに、武士になって世の中を変えたいと思うようになったといわれます。なお2年後の安政5年(1858)、渋沢は尾高惇忠の妹・千代(演・橋本愛)と結婚。

尾高惇忠の実弟・渋沢平九郎がイケメンなんです……!

安政7年、桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼(演・岸谷五朗)が路上で水戸浪士らに討たれると、幕府に批判的な者たちが全国で勢いづきました。渋沢も村にじっとしておれず、翌年、父を説得して江戸に出ると、塾や剣術道場に通いながら、いわゆる尊王攘夷の志士たちと交わります。そして過激な計画をくわだてるに至りますが、そんな渋沢に声をかけてきた人物がいました。一橋家用人の平岡円四郎(ひらおかえんしろう、演・堤真一)です。平岡は渋沢の人物を見込んで一橋家への仕官を勧めますが、胸中にくわだてを秘めていた渋沢は確答せず、血洗島村に戻りました。

渋沢のくわだてとは、横浜の外国人居留地を襲い、焼き討ちするというものです。幕府が結んだ条約を無視し、攘夷を実行しようと計画したのでした。さらに渋沢は、そのための準備として、まず近所の高崎城(現、高崎市)を奪い、武器類を調えたうえで横浜に向かうとします。無謀としかいいようのない暴発でした。

渋沢の暴発は、幸いにも直前で中止となります。止めたのは、従兄の尾高長七郎(ちょうしちろう、演・満島真之介)でした。長七郎は自分が関西で見てきた、尊王攘夷派の挙兵失敗と、その勢力が幕府方によって朝廷から一掃された事実を伝えたのです。長七郎の説得を受け入れた渋沢でしたが、すでに武器類を屋敷の土蔵に運び入れていました。その噂が領主や幕府に伝われば、間違いなく罪人として捕縛されるでしょう。危険を悟った渋沢は、従兄の喜作とともに、ほとぼりが冷めるまでしばらく身を隠すことにします。

二人は京都に向かうことにしますが、まず足を向けたのは江戸の一橋家の平岡のもとでした。幕府の追っ手がかからぬうちに、平岡に頼んで一橋徳川家の家臣になってしまえば、幕府の追及をかわせるだろうと考えたのです。平岡は主君の一橋慶喜(演・草彅剛)に従って上洛中でしたが、渋沢のことは平岡の妻・やす(演・木村佳乃)が承知しており、二人は一橋家用人家来という肩書をもらって、無事に京都へとたどり着きます。

京都で平岡と再会した渋沢と喜作は、一橋家の家臣となりました。渋沢にすれば横浜焼き討ちを計画するほどの反幕府派だったのが、徳川家の一門に仕官したわけで、「変節」以外の何物でもありません。しかし主君である一橋慶喜は、尊王攘夷の思想を生んだ水戸藩の出身。しかも英明で知られています。「一橋慶喜様のために働くことは、世の中を変えることにつながるのではないか」。そう考えた渋沢は、この後、一橋家で大いに活躍することになりますが……。

今回の紹介はここまでとしましょう。これより先はまた別の機会に。
本記事で、まずは幕末という時代のおよその雰囲気を知っていただければ幸いです。そのうえでぜひ、大河ドラマ『青天を衝け』を楽しんでください。

わぁぁぁ!!先が気になる……!!!大河ドラマ『青天を衝け』も一気に楽しみになりましたぁ!

和樂web編集長セバスチャン高木が音声で解説した番組はこちら!

■前編

■中編

■後編

参考文献:『渋沢栄一伝記資料』、水戸史学会編『水戸の道しるべ』(展転社)、安藤優一郎『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。編集部を離れるも、いまだ燃え尽きておらず、noteに歴史記事を自主的に30日間連続で投稿していたところ、高木編集長に捕獲される。「歴史を知ることは人間を知ること」だと信じている。ラーメンに目がない。