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2021.05.07

徳川慶喜はなぜ政権を返上したのか。「大政奉還」によって何が起きなかったかを考える

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大政奉還に至るまで

文久3年の八月十八日政変のクーデターでも、禁門の変でも、そして、幕府と長州の第一次幕長戦争でも、一貫して幕府側に立って参戦してきた薩摩藩が、幕府と距離を置くようになりました。

薩摩藩が幕府を見限ったのは、文久4年=元治元年(1864)に発足した朝廷の諮問機関=参預会議に藩主の父である島津久光を送り込みながら、政見の違いから一橋慶喜と対立したことが発端です。酒席で泥酔した慶喜が、久光と松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)の三人を「天下の大愚物・大奸物」と罵ったため、参預会議は空中分解してしまいました。

参預たちを朝廷から遠ざけた慶喜は、将軍後見職を辞し、あらたに設けられた禁裏御守衛総督に就任、京都守護職の松平容保(会津藩主)、京都所司代の松平定敬(桑名藩主)とともに「一会桑」と呼ばれる勢力を築きます。

一会桑は、それぞれ幕府の出先機関の一部を担う立場でしたが、政局に関与しようとする諸藩を朝廷から遠ざける一方、朝廷との深い関わりを土台に、江戸の幕閣から国政の主導権を奪おうとしていたとされます。(一会桑が「政権」であったかどうかは、学説が定まっていません)

薩摩藩は、敵対していた長州藩と秘密提携を結びます(薩長盟約)。御所に発砲したことで朝敵となったうえ、馬関戦争で四ヶ国連合軍に惨敗を喫した長州藩は、破約攘夷が無謀であることを悟り、薩摩藩と手を結んだのです。そして、薩摩藩から水面下での支援を受けた長州藩は、第二次幕長戦争で、襲来した幕府軍を撃退、各所で反撃に転じる勢いを示しました。戦い半ばで14代将軍の家茂は病没、幕府側劣勢のまま停戦となり、15代将軍は慶喜が継ぎました。 

慶応2年12月25日(1867年1月30日)に孝明天皇が天然痘に罹って崩御したあと、薩摩藩は、あらためて朝廷の諮問機関の設立を提唱します。かつて慶喜に罵られた久光、春嶽、宗城の三人に土佐藩の前藩主・山内容堂を加えた「四賢侯会議」と呼ばれるものです。

政局は、兵庫(神戸)開港の期日を確定すべく勅許を獲得しようとする慶喜と、朝敵となっていた長州藩の処置を同時に申し渡すべきだと主張する四賢侯とが激しく争いました。兵庫開港は幕府が諸外国に約束したことでしたが、朝廷が許諾せず延期になっていました。このままだと諸外国は朝廷に直接交渉を迫りかねないため、5月23日の朝議(朝廷の会議)で夜を徹して粘りに粘った慶喜が、翌朝に至って兵庫開港の勅許をもぎとりました。しかし、幕府と四賢侯との関係は、すっかり冷めきってしまいました。こうして幕府から人心が離れたことで、いよいよ「倒幕」は現実味を帯びてきました。

薩摩藩と土佐藩の密約

6月に入って、土佐藩の後藤象二郎は、薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らと会合して、以下の約定を結びます。

一、国体を協正し万世万国に亘て不耻是第一義
一、王政復古は論なし宜しく宇内の形勢を察し参酌協正すべし
一、国に二王なし家に二主なし政刑唯一君に帰すべし
一、将軍職に居て政柄を執る是天地間あるべからざるの理なり宜しく侯列に帰し翼戴を主とすべし
右方今の急務にして天地間常に有之大條理なり心力を協一にして斃て後已ん何ぞ成敗利鈍を顧るに暇あらむや
  皇慶応丁卯六月
勝田孫弥著『西郷隆盛伝』第3巻 p126より

まずは、「日本を国際社会に対し、恥ずかしくない国にしたい」ことを掲げ、そのために「王政復古は論を待たない」としています。その理由は、「一つの国に二人の君主がいてはならない。一人の君主によって統治されるべきだ」というもので、「征夷大将軍を、諸大名と同列の地位に改めるべきだ」としています。

要は「幕府を廃止すべし」という点で、土佐藩と薩摩藩とが合意したわけです。ただし、武力を用いて「幕府を倒す」とは言っていません。平和的に幕府を自主廃業させられるなら、それでも良いわけです。

土佐藩、慶喜の背を押す

慶応3年9月、土佐藩から慶喜に「大政奉還すべきです」という建白がありました。

皇国興復ノ基業ヲ建テント欲セハ、国体ヲ一定シ、政度ヲ一新シ、王政復古、万国万世ニ不恥者ヲ以テ本旨トスヘシ(『徳川慶喜公伝』四 p73より

日本の国家体制を一新し、「万国万世に恥じない」新政権を築こうというのです。このように、有力な諸藩が積極的に新政権に参画して協力するならば、幕府から朝廷ヘの政権交替も、けして夢ではありません。

京都を拠点とした一会桑は、江戸の幕閣と対立したことが多々ありました。慶喜が京都にいるまま将軍になったあと、江戸の幕閣はいうことを聞きません。政権とは、あらゆる者を従わせる存在ですから、老中が将軍の意向を顧みないようでは、もはや政権とはいえません。慶喜も「そろそろ潮時か」と思ったことでしょう。いまや幕府の命脈は尽きていました。

慶喜、大政奉還を決す

幕藩体制を維持できないことを悟っていた慶喜は、慶応3年10月14日(1867年11月9日)、朝廷に大政奉還を申し出ました。それによって、300年に及ばんとする徳川幕府は幕を引き、鎌倉幕府から数えれば700年近く続いた武家政治がおわることにもなりました。家康以来15代も続いてきた幕府を終わらせることは重大な決断でした。

歴史上の武家政権は、いずれも朝廷から委任を受けて政治をおこなう建前でした。それを慶喜は「従来之旧習」であるとして、政権を朝廷に返しました。新体制を築くべきだということです。

水戸徳川家に生まれ、幼い頃から水戸学の尊王思想を叩き込まれてきただけあって、慶喜にとって大政奉還を厭う理由はありません。すでに欧米列強の公使たちが日本に乗り込んできていましたが、彼らに日本を代表するのは天皇なのか将軍なのか、その答えを明確に示すのには大政奉還するのが最もわかりやすいのです。

朝廷はボールをキープできるのか

サッカーに喩えてみましょう。

旧来の幕藩体制を維持しようとする佐幕チームと、慶喜のもとに集まったにわか仕立てのチーム大政奉還との試合です。

いま、佐幕チームのゴール前に隙が生じました。独走した慶喜は、チームメイトの会津・桑名を置いてきぼりにしてしまい、しかも慶喜はマークされてしまい、突破は困難です。朝廷はノーマークだけれども、ボールをパスしたところで、そのボールを朝廷がゴール前までキープして巧くシュートを決めることができるかどうかは疑問です。朝廷には政権を維持できるほどの領土=税収が無く、人材も不足しており、どうみても政権担当能力はありませんでした。

慶喜は、後年、以下のように回想しています。

若し(もし)、王政を復古せんにも、公卿・堂上にては力足らず、諸大名とても同様なり。さりとて諸藩士等が直に大政を執行するは、事情の許さざる所なり(『徳川慶喜公伝』四 p79より

常識人だった慶喜からすると、位階も与えられていない諸藩士を、いきなり天皇の政権を支えるスタッフとして御所に上げることは出来ないと考えていたのでした。よしんば、各藩から少しずつ人材をレンタル移籍させたとして、はたして諸藩が日本代表チームに相応しい選手を供出するのか、まったくの未知数です。

せっかく返上した政権を、列強の横槍で掠め取られ、外国人顧問による傀儡政権でもつくられてしまったら幕府は犬死にですから、慶喜は慎重にならざるを得なかったのです。

幻に終わった新政権構想もあった

さて、大政奉還によって朝廷までパスが通りました。しかし、朝廷がボールを持て余すことも慶喜は見通していたようです。不意にパスをまわされても、朝廷としては、とりあえず慶喜にボールを戻すほかないということです。

幕府には全国政権を運営できるだけの税収があり、優秀な幕臣たちが実際に政権を担っていました。いくつもの失政があったので、幕府の解体は避けられないとしても、徳川家が日本一の勢力を維持したまま新政権の中枢に居座ることも充分に可能なはずでした。そのような徳川家を中心とする議会政治の構想は、西周の『議題草案』において具体化されています。それについては、「王政復古」の回で説明します。

大政奉還で、なにが起きなかったか

慶喜が大政奉還の意志を幕臣たちに布告したのは10月12日でした。その翌日、13日には諸藩の重臣を二条城に呼んで、大政奉還の趣旨を説いています。

このとき、実は「討幕の密勅」が準備されていて、14日にも薩摩藩と長州藩に交付されようとしていました。それは、武力による倒幕の大義名聞になり得るものでしたが、大政奉還が申し入れられたら効力を失います。なにせ、討つべき幕府は消滅してしまうのですからね。かなりタイトなスケジュールですが、速やかに大政奉還を申し入れたら戦争を回避できるかもしれません。

坂本龍馬は13日の会見の場に臨む後藤象二郎にあてて手紙を書いています。土佐藩から建白した大政奉還が実現しないときは、象二郎も生きては帰れないはずだから、そうなったら「海援隊一手を以て大樹(将軍のこと)参内の道路ニ待受」仇を討つとまで言って、尻を叩いていました。(参考URL

文面から龍馬の必死な姿勢が伝わってきます。討幕の”密勅”というくらいですから、もちろん密かに計画されていたことですが、薩摩藩士と交際があった龍馬は、情報をつかんでいたのかもしれません。

城内では大政奉還の趣旨説明を終え、なにか意見があるなら慶喜が直々に聞くというので、薩摩藩の小松帯刀、芸州藩の辻将曹、土佐藩の福岡孝弟、そして象二郎が面談を希望しました。その席での象二郎の様子を、後年の慶喜は以下のように証言しています。

何も言わない。ただ未曾有の御英断で有難い、同様のことを何か言ってお辞儀をしただけだ。(大久保利謙 校訂『昔夢会筆記』東洋文庫76 平凡社 昭和41年 p240より)

象二郎は随分とアガっていたようで、龍馬の激励にもかかわらず「何も言わない」のでした。同席した帯刀が、こぼれ球を拾います。

それから(老中の)板倉に小松が逢って言うのには、今日は誠にどうも非常な御英断で有難い、ただ今からすぐに御参内、その事を申し上げられるようにしたい、こう言うのだね。そこで板倉が、それは尤も至極だが、摂政はじめおいでがないのに、どうも今すぐに御参内というわけにはいかぬ、いずれ明日御参内の上申し入れる、手続きを経なければいけないから……。それならそれでよろしゅうござる、どうぞ速やかに申し上げるように……。その節に板倉が、しかしまた御聴済にならぬようなことがあっては困るから、お前たちが行って周旋して、御聴済になるようにしたい、こう板倉が言って帰した。そうして板倉が言うのには、どうもああ性急では困る……、もうその時は夕刻である……、こうこういうことに申しおきました、それはそれでよいということで、その日はすんでしまった。(大久保利謙 校訂『昔夢会筆記』東洋文庫76 平凡社 昭和41年 p240)

いますぐ、大政奉還を朝廷に申し入れましょう。いまがダメなら明日には申し入れましょう、という具合に急かしたのです。

その甲斐あって、「討幕の密勅」は14日に交付されてしまいますが、同日に大政奉還が朝廷に申し入れられたため、21日には「討幕取り消しの密勅」が発せられて効力を失います。ギリギリセーフ、帯刀のナイスプレーでした。

薩摩藩のほか、長州藩と芸州藩が幕府との戦争に出兵する密約を交わしていたため、帯刀の一存では戦争を取りやめることが出来なかったのです。しかし、帯刀は武力に訴えるという「最後の手段」を、極力避けようとしたのです。

要は、大政奉還によって、予期された戦争が起きなかった、ということになります。

しかし、政権交替までには、もう一段階、越えねばならぬ峠があります。新政権の発足です。それを望まなかったのは、幕府の権力を回復すべきだと考えた人たちでした。戦争の火種は、そこにもあったのです。

朝廷は大政奉還の申し入れを受けたあと、当面は徳川家に政権を委任することとし、ボールは慶喜のもとに戻されました。しかし、佐幕チームは、ボールを奪う機会を虎視眈々と狙っていました。戦争を回避できなかったのは年表が示すとおりですが、その間に、なにが起きなかったのか、「王政復古」の回に続きます!

書いた人

1960年東京生まれ。日本大学文理学部史学科から大学院に進むも修士までで挫折して、月給取りで生活しつつ歴史同人・日本史探偵団を立ち上げた。架空戦記作家の佐藤大輔(故人)の後押しを得て物書きに転身、歴史ライターとして現在に至る。得意分野は幕末維新史と明治史で、特に戊辰戦争には詳しい。靖国神社遊就館の平成30年特別展『靖国神社御創立百五十年展 前編 ―幕末から御創建―』のテキスト監修をつとめた。