6月になると1年が半分過ぎ去ろうとしていることに時が経つ早さを感じる方も多いのではないでしょうか。「年中行事で知る日本文化」をテーマにした彬子女王殿下の連載。今回はその半年の節目に行われる季節の行事、夏越の祓(なごしのはらえ)や、季節の和菓子「水無月」についてです。
京都では身近な存在、夏越の祓
文・彬子女王
水無月というのは、京都に来るまで馴染みのない和菓子だった。夏越の祓に食される、白や緑の外郎生地の表面に、小豆を散らして三角形に切ったあのお菓子。京都では、6月になると、どこかにお伺いするときに出していただくお茶菓子が、水無月である確率が非常に高くなる。正直に申し上げれば、「ほっぺたが落ちるようにおいしい」食べ物ではないと思っている。ただ、この時期は街のおまんやさんはもちろん、スーパーやコンビニエンスストアでも必ず売っている水無月は、京都で暮らす時間がだんだんと長くなるにしたがって、私にとって「6月に食べないとなんだか具合が悪い和菓子」になっていった。
宮中では、6月と12月の晦日に、人々の罪穢れを祓い清めるために大祓が行われる。その大祓に先立って行われるのが、節折(よおり)の儀である。出御された天皇陛下に、御服をお進めし、それをお下げになる。次に御麻で、三度御体を撫でてお返しになる。そして、篠竹で、陛下の御体五か所の寸法を測り、墨で印をつけ、その部分を音高らかに折る。最後に、御壺に息を三度吹き入れられるという儀式が二度繰り返される。最初が「荒世(あらよ)の儀」、二回目を「和世(にごよ)の儀」という。平安時代から行われていたが、応仁の乱で中絶し、明治になってから再興された儀式である。
この大祓が、民間に根付いていったのが、6月30日の夏越の祓。東京にいるときは、大祓の日という認識はあったけれど、夏越の祓という言葉すら知らなかった気がする。京都にきてからは、6月になるとそこかしこの神社に茅の輪が設置され、お料理屋さんでは水無月豆腐が、お菓子屋さんでは水無月が並び、夏越の祓が否応なしに身近なものになっていったのである。
茅の輪くぐりの由来
初めて夏越の祓に参列したのは、数年前。上賀茂神社での夏越大祓式にお招き頂いたのがきっかけだった。辺りが少しずつ夕闇に包まれていく中での初めての茅の輪くぐり。「水無月の夏越の祓する人は千歳の命延ぶといふなり」と心の中で唱えながら、左・右・左と8の字を描くように歩いて通り抜ける。通り抜けた瞬間、新たな一歩を踏み出せたような、とても清々しい気持ちになった。
茅の輪くぐりは、蘇民将来の伝説に由来している。須佐之男命が一夜の宿を借りようとしたが、裕福な弟である巨旦将来には断られてしまう。でも、貧しい兄の蘇民将来は快く迎え、心を込めて粟飯などでもてなした。須佐之男命はそのお礼に、「蘇民将来之子孫也」と書いた茅の輪を腰につけておけば、災厄から逃れられると告げられる。斯くして、巨旦将来の子孫は滅ぼされてしまったが、蘇民将来の子孫は免れたという故事にちなみ、茅の輪をくぐって、災厄や罪穢れが祓われることを祈るのである。
席に着き、紙の人形(ひとがた)に名前を書き、左右真ん中と体を撫でて、息を吹きかける。これが、陛下のなさる節折の儀の簡易版かと少し気持ちが高揚した。すっかり日も暮れた夜8時。祭儀が開始される。夏越大祓の情景を歌った「風そよぐならの小川の夕ぐれはみそぎぞ夏のしるしなりける」が朗々と詠みあげられ、中臣祓詞が奏上される中、何万枚という人形が橋殿の上から神職さんの手によって、はらはらとならの小川に投流されていく。篝火に照らされながら流されていく人形は、その軽さとは裏腹に、たくさんの人たちの心の重さをも背負っているのだろう。だからこそ、その光景は美しく、人の心を打つのだと思う。私も、すべての方たちの心が安らかでありますようにと祈らずにはいられなかった。
儀式が終わり、お決まりの水無月を出していただく。でも、そこでふと思ったのだ。茅の輪も人形も大祓の儀式に由来している。水無月は、氷室の氷を模したものと言われているけれど、大祓と氷は何か関係があるのだろうかと。
意外!水無月が6月30日に食べられるようになった理由
調べてみたところ、驚くべき事実が判明した。古来、6月1日の氷の節句には、朝廷に氷室の氷が献上され、それを食して暑気払いをする慣習があったが、庶民は氷を手に入れるのは難しいので、氷に見立てた餅を「氷餅」といって食したのだそうだ。でも、あくまでこれは6月1日の食べ物で、6月30日の食べ物ではない。
一方、夏越の祓の日には小麦で作った餅を食べるという習慣が、室町時代にはあったことがわかっている。長らく禁裏御用を務めた虎屋では、享保10年(1725)から幕末まで、毎年6月30日に御所に「水無月蒸餅」を納めていた記録があるそうだ。これがどうやら水無月の菓銘の由来であるらしい。また、この蒸餅には砂糖とささげ豆が練りこまれていたそうで、今の水無月に小豆が使われているのとつながる。でも、なぜ三角なのか、氷なのかの謎が残るなと思いながら、論文を読み進めていたら、こんな引用文が目に飛び込んできた。
京都の三条若狭屋の主人であった藤本如泉の記した『日本の菓子』(1968年刊)に
お菓子の「水無月」は、生菓子の「氷室」より考案されたもので、加茂の水無月祓の神事にこじつけて、京都では、毎年六月三十日に暑気払いのおまじないとして市民が頂くように、菓子屋の知恵で作られました。
と記載があるというのである。思わず声が出てしまった。「うそやん」と。論文を読みながら、あんなに笑ったのは初めてである。バレンタインデーやホワイトデーにチョコレートを贈るのは、日本の洋菓子業界が始めたものだけれど、もしかしたらそれよりも早く和菓子業界が行っていたとは。それでも私は、今年も「創られた伝統菓子」を求めて、和菓子屋さんに足を運んでしまうはずである。
参考文献:浅田ひろみ「水無月考」『和菓子』9号、2002年