「縄文時代は先住民の文化で、弥生時代は渡来文化」
何となくそんなイメージを持っている人は少なくないだろう。
この定義に則れば、「縄文時代には他国との交流がなかった」、そう考えがちだ。
ところが、実際には縄文時代にも他国、特に朝鮮半島との交流が行われていたのだ(というより、国境の概念がないため、自由に行き来できたと言うのが正しいかもしれない)。その点、世界と繋がったグローバルな時代であった。
そして、縄文時代のグローバル社会のカギを握るのが対馬縄文人だ。
現代がインターネットならば、古代は“シルクロード”!世界は繋がっていた
1990年代半ば、Windows95の登場でインターネットの普及が一気に進んだ。そして、現代はインターネットという文明の機器により、ひとりひとりが非物理的に繋がる世の中となった。
インターネットのように世界を繋ぐものが原始の世界にも存在していた。シルクロードはそのひとつであろう。ここで、シルクロードと聞いてまず思い浮かぶのが、中央アジアや西アジアを経由し、中国とヨーロッパを繋いだ陸の交易路ではないだろうか。
その陸の交易路は、紀元前2世紀から18世紀にかけて物流の拠点であった。生糸や宝石、絨毯などの物理的な品物のみならず、科学技術や学問、そして仏教などありとあらゆるものが中国の敦煌(とんこう)にもたらされ、その後朝鮮半島を経由し、日本に入ってきた。
実は同様の役目を担った道が海上にも存在していたのだ。いわゆる“海のシルクロード”である。
世界文明は紀元前3000年頃に起きたと言われている。日本ではちょうど縄文時代だ。かつてインドのカシミール地方やラージャスタン地方からパキスタンのマクラーン地方にかけての地域にインダス文明が勃興した。その文明を支えたモヘンジョダロやハラッパの遺跡からは石彫りの人物像や男性の石像、踊子のブロンズ像のほか、動物文と独特のインダス文字が刻まれた凍石製の印章などが出土した。
驚くべきことに、インダス文明の遺跡から出土した動物文と画文字を持つ印章は遠く離れたティグリス河口にほど地域でも確認されている。メソポタミアからペルシャ湾を経てインダス文明地域へと通じる海路があり、インダス人はインド産の木綿や宝石をはじめ、アフガニスタン産のラピスラズリなどを持って交易を行っていたものと考えられている。
近年では好戦的なイメージもあるイスラエル。少なくとも紀元前973年から933年までのソロモン王の時代は平和的な対外政策をとっており、エジプトやメソポタミア、アラビアといった近隣の地域と友好な関係を築いていた。そして、陸または海のシルクロードを通じて海上貿易を図ることによって巨大な富を集め、イスラエルの国際的地位を高めていった。
東洋の交易を牛耳っていた阿曇氏
海路を通じた交易は東洋でも顕著に見られた。東洋の交易を牛耳っていたのが、当時西日本から中部地方にかけて支配下に収めていたと伝えられる阿曇氏(あずみうじ)と呼ばれる氏族であった。ちなみに、阿曇は現在の福岡市東区名島(ふくおかけんひがしくなじま)から糟屋郡(かすやぐん)、古賀市(こがし)一帯にかけて存在していた地名であり、阿曇郷と呼ばれていたことに由来する。そこには阿曇氏の本拠地があり、やがて全国に勢力を広げ、遠くは中部地方に拠点を構えた。その証拠に、中部地方には安曇、安住、渥美など、阿曇氏の活動の痕跡を窺わせる地名が数多く存在する。
阿曇氏を一言で表すと、ワタツミの神を信奉する集団であった。『古事記』『日本書紀』によると、阿曇氏はホダカミノミコト(穂高見之命)の子孫と記されている。ホダカミノミコトはワタツミの子であり、その姉妹には神武天皇の祖母に当たるトヨタマヒメ(豊玉姫)がいて、タマヨリヒメ(玉依姫)は神武天皇の母である。つまり、阿曇一族は天皇家とも出自を共有する名家であったのだ。
ワタツミは「海神」「少童」「綿津見」「綿積」「和多都美」という名称で西日本を中心とした神社に祀られている。ここでワタツミと聞いてピンと来ないだろうか、そう、平成14(2002)年に大ヒットしたことでも話題となった奄美出身の元ちとせのデビューシングル『ワダツミの木』だ。もしかすると奄美もまたワタツミ信仰と強く結ばれた土地ではないだろうか。
縄文時代のグローバル社会を支えたのは対馬縄文人だ
ワタツミを祭神とする社格の高い神社が多く残っているのが、国境の島として知られる長崎の対馬だ。
朝鮮半島に現存する最古の歴史書である『三国史記(さんごくしき)』にも示されるように、朝鮮半島と九州の中間に位置する対馬は古代交易の中継地点として栄えていた。漢委奴国王の金印が運ばれた経緯として、中国から対馬を経由し、その後阿曇氏の拠点である志賀島に持ち込まれたというルートが浮かび上がってくる。
ここで、縄文時代に生み出された最高傑作である縄文土器について考えるとしよう。縄の文様や爪で引っ搔いたような模様を特徴とした土器をイメージする人は多いだろうが、関東の縄文文化の影響を受けて根付いたイメージに過ぎないと筆者は思うのだ。一言に縄文文化と言っても、日本全国で一様であったとは言い難い。少なくとも九州の縄文時代前期の土器は、朝鮮半島の影響を強く受けたものとして考えられてきた。
九州の縄文時代前期土器は、朝鮮半島の影響を受けたものとして古くから議論されてきた。確かに、隆起文(隆線文)で文様を構成する轟B式土器と隆起文土器、胴部上半に沈線文によって文様が構成される西唐津死期土器と瀛仙洞式土器、沈線文を中心に幾何学文が土器の外面全体に構成される曽畑式土器と初期櫛目文土器、という縄文時代前期のほぼ同時期に存在する両者を一見したところの類似性は注目されるところである。
(水ノ江和同の論文「九州縄文文化の研究:九州から見た縄文文化の枠組み」)
その他にも、外洋性漁撈(ぎょろう)向けに作られた大きな釣針にも朝鮮半島のものとの類似性が確認される。よって、九州の縄文文化は朝鮮半島との少なからぬ交流を経て発展したものと考えることができる。
日本列島の平定に貢献した対馬縄文人
そこで浮上するのが、朝鮮、九州間における文化の橋渡し的存在としての対馬の縄文人だ。その存在は対馬における縄文時代の遺跡から発掘される骨製品や土器の製法や形が朝鮮半島のものと共通していること、また九州で作られたと思われる黒曜石の石器が対馬の遺跡から出土していることからも裏付けられる。こうした考古学的知見を踏まえ、歴史学者の鄭惠遠氏は対馬は古代の多民族の交易中継地点であったと結論づけている。
縄文時代の対馬が交易の中継地として機能していただろうということは、国内外の数々の歴史書によっても裏付けられる。ここで、対馬の地名に関して考えるとしよう。歴史的に最も古い表記は、中国の三国時代に書かれた歴史書である『三国志』における「對馬國」。その後に編纂された『隋書』では「都斯麻國」となっている。ちなみに、日本で初めて対馬が登場したのは『古事記』であり、その表記は「津嶋」となっている。
歴史書に初めて登場した「對馬國」という地名は、対馬が朝鮮半島の馬韓(ばかん/朝鮮半島南部に居住していた部族集団である三韓のひとつ)の前にあったことに由来する。また、『古事記』に登場する「津嶋」という地名を考えてみても、「津」の「嶋」、すなわち港の島であり、そこには海上の中継地としてのニュアンスが含まれる。
発音と漢字の表記が異なる対馬という名称が、同じ時期に大陸でも倭国でも受け入れられていたことは、この時期までの対馬が、大陸でも倭国でも交易の中継地点として、その存在が受け入れられていたということを読み取ることができる。
(鄭惠遠の論文「雨森芳洲以前の対馬人と朝鮮語に関する研究」)
阿曇氏の拠点が中部地方に置かれていた点を踏まえると、大陸からの技術は中継地点である対馬を経て、九州、さらに東方の地域に広まり、縄文文化が形成されていった。民族の知恵の結集によって世界文明が勃興したように、近隣の他民族との接点があったからこそ縄文文化が醸成されたのではないだろうか。
こうして考えてみると、縄文文化もある種の渡来文化であり、縄文文化と弥生文化の定義上の違いがますます判らなくなるわけだが……。
ちなみに、日本列島の平定に貢献したのは対馬縄文人の阿曇氏であった。大和政権は阿曇氏の伝手で朝鮮半島に進出し、大陸からの鉄器や青銅器などの供給源を確保したのだ。歴史教科書の記述に従えば、縄文時代と弥生時代はまるで別の次元の時代として捉えがちであるが、対馬縄文人である阿曇氏の存在を考慮することによって、縄文時代から弥生時代への移行が点と線で結ばれるようだ。
生活を支えるために、海を越えて買い物に出かけたりも
そもそも、縄文時代には国境という概念が存在していなかった。したがって、対馬と、対馬に最も近い朝鮮半島との間では行き来が自由に行われており、また互いの文化を共有していたと考えるのが妥当であろう。
『魏志倭人伝』の記載にもあるように、対馬は田畑の耕作に適さず、生活の足しとしての食料が供給できない状況にあった。そこで、対馬近海で漁業を展開するとともに、海を渡って朝鮮半島や九州へ出向いては海産物と物々交換をし、米をはじめ生活に必要な物資などを手に入れていた。田畑の少ない対馬に居住する縄文人にとって、生活していくうえで必要な手段であったのだ。
朝鮮半島、対馬間を行き来していたのは対馬縄文人だけではない。朝鮮半島の人もまた対馬に出入りしていた。しかしながら、対馬の地形の関係上、朝鮮半島の人がそこに定住することは少なかった。それに対し、朝鮮半島には多くの民族や部族が移住し、その移住者が支配者となることもあった。そして、対馬縄文人は朝鮮半島への移住組に含まれた。
私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
(平成13年12月18日、宮殿・石橋の間で述べた天皇陛下(現在の上皇陛下)のお言葉より)
日本の天皇家は百済の王家の末裔だとか言われてるが、天皇家のルーツにも関わるその百済の王家の正体とは、実は遥か昔に朝鮮半島に渡った対馬縄文人だったのかもしれない。
少なくとも朝鮮半島に新羅統一国家、日本側に大和朝廷という“クニ”が誕生するまでは、互いに行き来があり、民族は異なれど平穏な日常の中で互いに仲睦まじい関係を築いていたと言える。明治政府下で民族意識の統一を図ることを目的に標準語政策がとられ、のちに帝国主義へと発展していったことを踏まえても、争いの根本的な原因は、異民族間ではなく、民族の統一という理念をもって誕生した“クニ”が絡んだ利権にあるのではないだろうか。
多くの言語を使いこなし、アジアの文化交流に寄与
紀元前3世紀までの対馬は、ある時は朝鮮半島と九州との交易の中継地であり、またある時は東南アジア系や東北アジア系との交流の地であった。さまざまな民族が出入りしていた点においては幕末の横浜港と同じ状況にあった。
東南アジア系海民や東北アジア系海民と、海上移動を介した交流地として、東アジアの文化交流と交易の十字路になっていたことがわかる。この時代に海上交通の十字路になった中継地で活動していた古代対馬人には、地政学的に考えて、朝鮮半島、倭人、東南アジア海民、北東アジア海民などの言語を理解する能力があったと結語できる。
(鄭惠遠の論文「雨森芳洲以前の対馬人と朝鮮語に関する研究」)
実際のところ、対馬の遺跡からは馬韓や弁韓(べんかん)、九州地方との交易を示す遺物が多数出土している。このことから、対馬縄文人には朝鮮半島や九州地方の言葉を理解する能力があったと解釈されている。なお、言葉の伝達に対馬縄文人は関与しておらず、古墳時代以降の日本と朝鮮半島間の交流を通じて日本に伝わったものとされている。
紀元前2世紀から4世紀にかけて、朝鮮半島南部には馬韓のほか、辰韓(しんかん)や弁韓といった3つの民族集団が居住していた。男女の習慣などにおいては倭国と似通った点が多いことが報告されている。また、倭人には入れ墨をする習慣があったと言われているが、これは海洋民族全般に見られる特徴であるとか。こうして、古代日本人の風習には縄文時代における文化交流の影響が関係しているということがひとつ言えるだろう。
幕末の横浜では、日本人と諸外国の人々との会話においてピジンと呼ばれる日本語と英語をチャンポンにしたような言葉が用いられていたが、縄文時代の対馬では一体どのような言葉が話されていたのだろうか。
まず、中国の歴史書である『後漢書(ごかんじょ)』『三国志』の記載によると、朝鮮半島南部に居住していた民族が話していたとされる言葉はそれぞれ異なっていた。
一方、対馬縄文人の言葉は日本の言葉と同様、紀元前3世紀頃に形成されたとされている。対馬における出土品などを鑑み、基本は朝鮮半島や九州の言葉とは異なりつつも、多くの共通点を持っていただろうとされている。
その後、朝鮮半島に多くの民族や部族が出入りしたことと相まって、古代朝鮮語は瞬く間に複雑な変化を遂げた。一方で、日本において大和朝廷が成立すると、対馬の言葉は日本の言葉に取り込まれ、やがて朝鮮と対馬の言葉の違いは明確となった。同時に、その頃から東南アジアや東北アジアの言語能力を失い始めた。
幕末の横浜では、日本語と相手国の言葉をミックスさせた、あらゆる外国人にとって理解しやすい言語を生み出された。一方の縄文時代の対馬では他所からの定住者が少なかったということもあり、基本的に自分たちの言葉を変えることはなかったという見解も。これは幕末の横浜との決定的な違いである。したがって、対馬の縄文人は朝鮮半島や日本、その他東南アジアや北東アジアの言葉をそれぞれ外国語として習得していたものと推察されている。
ここから考えられるのは、対馬の縄文人がいかに幕末の横浜の人たちを上回る言語処理能力を有していたということだ。そして、対馬の人たちの語学の資質は千数百年の時を越え、秀吉の朝鮮出兵後の戦後賠償時に高く買われ、日朝の友好の架け橋として外交に寄与。その結果、江戸の町に“韓流ブーム”をもたらしたのだ。
おわりに
日本語のルーツをめぐっては、言語学者の間では朝鮮や中国のみならず、インドのタミル語説も浮上している。その説は類型論的に立証されたわけではないけれども、縄文時代において世界が繋がっていたことを考えると、そのような説が出るのも不思議ではない。
さて話は変わるが、昨今の機械翻訳技術の進歩によって、世界中の人たちが繋がり、ボーダレスとなる未来が眼前に迫ろうとしている。
そんな日本の未来は、ある意味で“縄文化”ではないだろうか。
(主要参考文献)
『海の古代史-幻の古代交易者を追って』布施克彦 彩流社 2018年
『海のシルクロード史-四千年の東西交易』長澤和俊 中公新書 1989年
「雨森芳洲以前の対馬人と朝鮮語に関する研究」鄭惠遠 博士論文(神戸学院大学)2016年
「九州縄文文化の研究 : 九州からみた縄文文化の枠組み」水ノ江和同 博士論文(同志社大学)2012年