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Culture
2021.11.02

1988年のF1を震撼させた伝説のチーム「マクラーレン・ホンダ」とは?Hondaウエルカムプラザ青山に行ってきた

この記事を書いた人

ホンダという会社は、レースに挑戦することで技術力を獲得してきた側面がある。

「レースとは走る実験室」という言葉の如く、他社と競争して自社製品の欠点や弱点を見出すためには、積極的にレースへ参加するしかない。ホンダの歴史とは、サーキットを駆け抜けた記録でもある。

そんなホンダがF1に与えたインパクトは、非常に大きい。特にマルボロカラーの「マクラーレン・ホンダ」は、世界自動車史を永遠に変えてしまう成績を残した。

憧れの「紅白のマシン」が目の前に

東京都内に所在するHondaウエルカムプラザ青山にて、10月18日まで開催されていた『Honda F1 2021 2nd Stage ~夢は挑戦の先にしかない~』というイベントに筆者は足を運んだ。

※こちらのイベントは終了しました。

このイベントの会期中、本来であれば三重県の鈴鹿サーキットでF1日本GPが開催されるはずだった。が、こちらは新型コロナウイルスの影響で中止になってしまう。Hondaウエルカムプラザ青山を訪れたF1ファンは、

「やっぱり残念ですよ」

と、異口同音に話す。しかもホンダは、2021年シーズン限りでF1から事業撤退する。最後の日本GPを、ホンダは走ることすら許されなかったのだ。

その悔しさを紛らわすかのように、訪問者は誰しも展示品のF1マシンに見入っていた。この展示品の中には、紅白のマシンも混ざっている。いや、このマシンこそが此度のイベントの目玉と言っても過言ではない。

10年の中断を経た日本GP

ホンダのF1での活動は、全4期に分けられる。

第1期は1964年から1968年、本田宗一郎が現役の経営者として君臨していた時代である。60年代のホンダは二輪メーカーとしての知名度はあったものの、四輪に関しては実績がなかった。にもかかわらず、65年のメキシコGPでは標高2,000m以上の地理条件に合わせた絶妙なキャブレター調整が奏功し、F1初勝利を掴み取った。

しかし、「ホンダF1チーム」と言えばやはり第2期だろう。1983年にF1復帰したホンダは、当初はスピリット・レーシングと、その後はウィリアムズを経てロータス、そしてマクラーレンにエンジンを供給した。マルボロのパッケージカラーが描かれたマシンを覚えている読者は少なくないはずだが(現在はタバコメーカーが広告を出すことは禁止されている)、あれこそF1に衝撃を与えたマクラーレン・ホンダマシンである。

80年代後半、日本ではF1ブームが巻き起こっていた。

F1日本GP自体は、1976年と77年に富士スピードウェイで開催されている。しかし77年の日本GPは、フェラーリ所属のジル・ヴィルヌーヴのマシンが宙を舞ってコースを飛び出し、観客と警備員が死亡するという事故が発生した。

なお、この観客がいた場所は立ち入り禁止区域である。今であれば観客のモラル、そして会場警備を怠った主催者の責任が指摘されるが、77年当時のマスコミは何とヴィルヌーヴ個人を批判した。その上で彼は業務上過失致死罪の疑いで書類送検されたのだ。モータースポーツに対する理解度が低かった時代の出来事である。

そこから日本GPは10年も開催されなかった。が、この10年の間に技術立国日本の繁栄は自明のものとなり、同時にモータースポーツのファンも増加した。

1987年11月開催のF1日本GPは、鈴鹿サーキットで行われた。日本でのテレビ放映はフジテレビが担当し、T-SQUAREの楽曲『TRUTH』を番組のイメージ曲にした。モータースポーツに合致する曲調の『TRUTH』は、日本人の胸にその印象を深く刻み込んだ。T-SQUAREを知らない人でも『TRUTH』なら聴いたことはあるはずだ。

マクラーレン・ホンダの衝撃

マクラーレンとホンダの提携が実施されたのは、翌88年から。年々厳しくなっていくパワー規制と燃料使用量規制は、低燃費技術を確立させたホンダのエンジンに対してむしろ有利な条件を与えた。新開発のマシンMP4/4を88年シーズンのために投入し、さらに「ブラジルの貴公子」アイルトン・セナと「プロフェッサー」アラン・プロストのラインナップがマクラーレン・ホンダに盤石の勝利をもたらした。88年シーズンのマクラーレン・ホンダの戦歴は、16戦15勝。誤植すら疑われてしまうような数字だ。しかも15勝のうちの10勝は、セナとプロストのワンツーフィニッシュである。つまり、このふたりにトラブルでも発生しない限り、他のチームはそれに肉薄することすらできなかったのだ。この年の日本GPで優勝したのはセナである。そして彼の勝利を、あの本田宗一郎が見守っていた。この時点で、宗一郎はホンダの経営から退いて久しい。そんな1906年生まれの老人が、1960年生まれの若いドライバーに肩を組まれて満足げに笑っている写真が残っている。宗一郎はレーサーには殆ど関心を示さなかったが、ことセナに関しては自分の孫のように接していたという。セナもその気持ちを強く感じ取り、宗一郎の前で歓喜の涙を流したこともあったそうだ。

テクノロジーは勇気と共にある

筆者がHondaウエルカムプラザ青山を訪れた時、出入り口前にはMoto GPアメリカズで優勝したマルク・マルケスのマシンも展示されていた。マルケスはレプソル・ホンダの所属レーサーだ。「夢は挑戦の先にしかない」。その言葉は、今後もホンダの発展を支えるアイデンティティーとして生き続けるだろう。テクノロジーの進展は、常に勇気と共にあるのだ。

セナのその後についても書かなければならないだろう。

宗一郎がこの世を去ってから3年後、彼の孫とも言うべき偉大なるセナは「速さの代償」を差し出す瞬間を迎えた。

1994年のサンマリノGPである。もしかしたらこの年のサンマリノは、悪魔に呪われていたのかもしれない。予選から事故が相次ぎ、日本人ファンからも愛されていたローランド・ラッツェンバーガーがクラッシュの末にこの世を去った。そして決勝ではスタート直後にペドロ・ラミーがJ.J.レートに衝突した。セーフティカーが飛び出し、全車両を先導する。

6周目にレースが再開された。先頭はセナ、2位はミハイル・シューマッハ。しかしセナのマシンは7周目、「タンブレロ」と呼ばれる高速左コーナーを曲がり切れずにコンクリートバリアに激突する。

「セナがクラッシュした!」

「レッドフラッグを振れ!」

「シドはまだ来ないのか!?」

観客席は騒然となり、ピットクルーは動揺し、「F1ドクター」シド・ワトキンスの乗ったメディカルカーが出動する。しかし親友の脳外科医の奮闘虚しく、セナは神の国へ旅立った。

このサンマリノGPまで、F1では12年も死亡事故が発生していなかった。しかし貴公子の事故死は、F1の安全対策の欠如を白日の下に晒した。ドライバーの落命はあってはならないことだが、一方で悲惨な事故がモータースポーツの安全性改善にインパクトを与えたという事実もある。

神の国で再会した宗一郎とセナは、今もサーキットを見つめているはずだ。肉体は滅んでもスピリットは受け継がれる。巨大な挑戦に臨む熱い魂がある限り、モータースポーツは決してなくならない。

◆ホンダウエルカムプラザ 青山
公式サイト:https://www.honda.co.jp/welcome-plaza/

【参考】
Honda Collection Hall 走行確認テスト「マクラーレンHonda MP4/4 1988年」 2014/9/17-YouTube

書いた人

ノンフィクションライター、グラップリング選手、刀剣評論家。各メディアでテクノロジー、ガジェット、ライフハック、ナイフ評論、スタートアップビジネス等の記事を手がける。