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2021.12.04

郵便用語は「やまとことば」ばかり!日本郵便の父・前島密がこだわった理由とは

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明治の初め、文明開化で西洋文明が日本に取り入れられる際に、たくさんの言葉が日本語化された。「銀行」「会社」「社会」「個人」「哲学」「野球」など、多くは漢字を音読みして組み合わせた漢語だが、その中にあって異彩を放つ一群の言葉がある。それは1871(明治4)年に発足した郵便に関わる用語だ。

「切手(きって)」「はがき」「手紙(てがみ)」「小包(こづつみ)」「為替(かわせ)」「書留(かきとめ)」…。その多くが、日本古来のやまとことばで表されているのだ。これらの言葉は「日本郵便の父」といわれる前島密(1835~1919)の指導の下で作られた。

本当だ! 言われるまで全然気づきませんでした!

なぜ前島は、郵便用語を漢語ではなく、やまとことばで表すことにしたのだろうか。

前島密(前島記念館蔵)

前島密は筋金入りの漢字廃止論者

前島は、日本語を分かりやすく使いやすい言葉に改革しようと情熱を燃やし続けた人でもあった。そして、そのためには漢字を廃止すべきだと訴えていた。

幕臣だった32歳の頃の1866(慶応2)年には、将軍・徳川慶喜に漢字廃止を建白。明治になってからは新政府に対し、1869(明治2)年に同様の建議を行っている。1873(明治6)年には全文ひらがなの新聞「まいにち ひらがなしんぶんし」を創刊。1899(明治32)年には帝国教育会の国字改良部長、翌1900(明治33)年には自ら設立を働きかけた政府の国語調査委員会の会長に就任するなど、終生にわたり漢字廃止と国語改革に取り組んだ。

前島密が創刊した「まいにち ひらがなしんぶんし」(前島記念館蔵)

前島個人は漢字が苦手だったわけではない。蘭学や英学のほか、当時の知識人の教養だった漢籍にも通じていた。幕末に名乗っていた「巻退蔵」や後年の「密(ひそか)」、長男に付けた「彌(わたる)」の名は、いずれも儒教の四書の一つ『中庸』を朱子が解説した『中庸章句』から取られたもので、漢字で表された中国の古典に前島が深い愛着を持っていたことがうかがえる。

オランダ語、英語、中国語に通じていたのですね。4カ国語が分かるマルチリンガル!

そんな前島が漢字廃止を唱えた最大の理由は、日本ではさまざまな学問を学ぶ上で、まず長い年月をかけて数千字もの漢字を覚えなくてはならず、そのために西洋諸国に比べて子供たちの教育が遅れているという危機感だった。

1866(慶応2)年12月、前島は将軍慶喜に建議した「漢字御廃止之議」の冒頭で次のように述べている。

国家の大本は国民の教育にして、其(その)教育は士民を論ぜず、国民に普からしめ、之を普からしめんには成る可(べ)く簡易なる文字文章を用ひざる可からず。

御国に於ても西洋諸国の如く音符字(仮名字)を用ひて教育を布かれ、漢字は用ひられず、終には日常公私の文に漢字の用を御廃止相成り候様にと奉存候。

国民に広く教育を普及させるためには、覚えるのに時間がかかる漢字を廃止し、西洋諸国のローマ字と同じ表音文字であるかな文字を日常の文章で使うべきだと進言しているのだ。

晩年に書かれたとみられる「将来の国字問題(漢字廃止と二十年)」と題する文章でも、こう指摘する。

漢字のために日本の人間はどれ程智力上の損害を被っているか分らないのである。只単にこの憶(おぼ)え悪い解り悪い、無数の漢字を習うためのみに幾多の歳月を費やして学問そのものの研究に達する迄に徒(いたずら)に脳漿(のうしょう)をしぼり去って了うのである。

この文章で前島は「漢文や漢詩を書いたり作ったりするのは、文芸上から妨げない事である」としつつも、その実用性を疑問視。「漢文を習ってそれが今日の実用になると思うのは謬見(びゅうけん)である。現に漢文として習っているのは支那の古文であるから、これに通じても十分に時文を読み時文を作る事は出来ないのである。それならば寧(むし)ろ専門に支那語として習った方が可い」とくぎを刺している。(※編集部注:カッコ内引用部分は原文表現ママ)

現代の常用漢字のように、使える漢字を制限してはという案に対しても、前島は否定的だった。「仮に制限しても金持にこれだけの金を使えというようなもので、有れば使いたいのは当然である、気に入った骨董品があれば買いたくなると同じく、知っている文字があればそれを使いたいのは止むをえぬ事である、それよりは全く廃して了う方が弊害が無いのである」(「将来の国字問題」)と力説している。

江戸時代には、人名などの固有名詞ですら表記にこだわらず、知識を誇示するために様々な漢字を使ったと聞きます。

官公庁か観光庁か、帰省中か寄生虫か

漢字を廃止しようとする場合、障害になるのは、漢字の音読みを組み合わせて作り出された膨大な数の同音異義語だ。かな文字で書いたり耳で聞いたりしたときに判別できない言葉が多すぎる。

前島は漢字の弊害を指摘する中で、漢字の音読みで発生した同音異義文字の問題に言及している。1900(明治33)年に設立された国語調査会の設置理由書では次のように述べている。

漢字に在りては同音異義のもの頗(すこぶ)る多きのみならず、原音において明かに存ぜし差異を滅却して鶯、鴨、鷗、王、翁の如き同一にオーと発音し、高、合、公、光、劫の如きまた同一にコーと発音し、その間何等の差異も存ぜざるに至れり。しかしてこれらの字音を一々器械的に記憶せしむるはその本字の形体を記憶せしむるよりも実に一層の困難あり。

漢字の「音読み」といっても、中国語の原音に忠実な読み方ではない。日本語に取り入れる際に、原音にあった発音やアクセントの違いを無視して、無理やり日本語に元からある発音に当てはめている。そのため、聞いただけでは区別できない数多くの同音異義語が生じてしまった。これらの漢字の読み方を覚えるのは、漢字の形を覚えるより、もっと難しい。そう指摘しているのだ。

同音異義語の多さによる混乱は今も続いている。コンピューターのかな漢字変換で文字を入力するようになってからは、誤変換にも悩まされるようになった。貴社の記者が汽車で帰社するかはともかく、交通事故で重体なのか渋滞なのか、寄生虫か帰省中か、官公庁か観光庁か、製紙工場か製糸工場か、公海か黄海か航海かは、聞いただけではすぐには分からず、全体の文脈から判別するしかない。

あー、確かに。

文脈からは判別しづらい同音異義語もある。2001年に中国の外務大臣が日本語で行った記者会見で「(日本側に靖国参拝を)やめなさいとゲンメイしました」と言ったところ、本人は「言明」のつもりだったようだが、「厳命」と一部で報じられて物議を醸したこともあった。「言明」なんて日常の話し言葉ではめったに使われることはないが、新聞が外国政府要人の発言を紹介する時には、よく登場する。私自身も通信社の外信部にいたころ使った覚えがある。「…と述べた」より「…と言明した」の方が、さも重要な発言であるかのように印象づけられるからだ。中国の大臣も、なまじ日本語に堪能で日本の新聞を読んでいたために、「言明」がポピュラーな日本語だと思い込んでいたのかもしれない。

漢字の音読みによる同音異義語の多さは、外国人が日本語を学ぶ上でも障害になる恐れがある。以前、日本文学研究者のドナルド・キーン氏に取材したとき、氏は「コウショクという地名があるのを知って驚いた」と話していた。長野県の更埴(現在の千曲市)という地名は、1959年の市制施行時、「更級(さらしな)郡」と「埴科(はにしな)郡」それぞれの頭文字をくっつけて音読みすることで新市名として生み出された。今でも長野自動車道の更埴インターチェンジなどにこの地名が使われている。日本の近世文学に詳しいキーン氏としては、「コウショク」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが「好色一代男」だったのだろう。

郵便用語のなりたちは

前島が漢字の弊害を力説し、日常使う言葉から漢字を追放するよう訴えていたことを考えると、郵便用語をやまとことばにしたのも、ひょっとしたら将来の漢字廃止を念頭に、同音異義語の多い漢語の使用を避ける意図があったのではないかと思えてくる。

やまとことばで定められたそれぞれの郵便用語の成り立ちについて、前島自身はほとんど語っていないし、公式な記録もあまり残っていない。郵政博物館(東京都墨田区)によると、分かっているのは、「切手」と「はがき」についてぐらいだという。

「切手」については、最初は「郵便印紙」としたかったようだが、当時の一般の人に分かりづらく、創業に当たって不利益と考え、以前から使われていた支払い証明の紙片を示す言葉である「切手」を使うことにしたという。

「きって」の響き、親しみやすくてけっこう好きです。

1871(明治4)年の郵便開業にあたり日本で初めて発行された切手「竜文切手」(郵政博物館蔵)

「はがき」については、前島がいろいろな人にポストカードに当たるものについてどんな名前がいいか相談していたとき、学友から提案されたのが「はがき」だった。「言の葉を書く」ということで「葉書」になったらしい。

「言葉」については、こちらの記事をどうぞ!なぜ「ことば」は「葉」という漢字を使うの?語源を紹介!

脇つきはがき(郵政博物館蔵)

「手紙」や「小包」については、言葉の成立経緯を示す史料は見つかっていないが、どちらも以前からあった言葉を郵便用語に転用したようだ。

前島記念館(新潟県上越市)の利根川文男館長は、前島が郵便用語にやまとことばを使った理由について「前島は『西洋に影響されるよりも、やまとことばがあるよ』と言っている。日本人の国という考え方が背景にあったのではないか」と推測している。

不思議なのは、多くの郵便用語がやまとことばなのに、「郵便」という言葉はなぜ漢語なのかという点だ。宿場を意味する「郵」という字に「便」をくっつけて日本で作られた造語だとも言われ、NHKの大河ドラマ『青天を衝け』でもこの説に沿って、明治政府に設けられた「改正掛」で前島密や渋沢栄一らがこの言葉を生み出す場面が描かれていた。だが、江戸時代から既に漢学者は飛脚のことを「郵便」と呼んでいたいう説もある。

確かに。どうして「郵便」は音読みの言葉にしたんだろう?

ただ、「郵便」が前島自身の造語であるかどうかはともかく、前島がこの語の採用を支持していたことは確かなようだ。

「郵」という字は 今の日本でも郵便関連以外で使われることはまずない。まして明治の初めには、この字を「ユウ」と読めて、「郵便」の意味を理解できる人はほとんどいなかったはずだ。郵便ポストに記された「郵便」の文字を「タレベン」と読んで公衆便所と勘違いする人がいたという笑い話も残っている。このエピソードが本当なら、どのような姿勢で用を足そうとしたのかも気になるところだが、それはともかく、漢字廃止を唱えていた前島が、なぜこの見慣れない漢字にこだわったのかは謎のままだ。

漢字を捨てられない日本

前島らにより1872(明治5)年創刊された「郵便報知新聞」(前島記念館蔵)

前島密は郵便制度の創設だけでなく、江戸遷都を建言したり、鉄道敷設計画を立案したり、新聞事業を育成したり、東京専門学校(現在の早稲田大学)の創設に参画して初代校長を務めたりと、数々の偉業を成し遂げてきた。彼が手がけた中で、唯一実を結ばなかったのが漢字廃止だった。

それは、難しい漢語をたくさん知っていることが知性と教養の証しであるかのような幻想を、私たちがいまだに捨てきれないからだろう。難しい漢字熟語を使うことで、たいしたことを言っていなくても、さも含蓄のあるありがたい言葉であるかのように、聞く人をけむに巻くこともできる。力士が横綱昇進を告げられた時のあいさつで「堅忍不抜」とか「不惜身命」とか「万里一空」とか、一般にあまり知られていないような四字熟語を使う奇妙な習わしがあるのも、そのことを物語っている。

だが今や、日本と同じ漢字文化圏といわれた韓国や北朝鮮、ベトナムなどでは漢字が消滅しつつあり、本家の中国は文字数を減らすため簡体字という略字を採用している。そして漢字の呪縛から脱することのできない日本では、漢語による同音異義語があふれかえり、言葉が分かりづらくなる一方だ。こうなることを、前島密は幕末の頃から予見していたのかもしれない。「漢字のために日本の人間はどれ程智力上の損害を被っているか分らないのである」という彼の言葉を、もう一度かみしめたい。

前島密肖像(前島記念館蔵)

参考文献:
前島密『前島密自叙伝』(日本図書センター)
山口修『前島密』(吉川弘文館)

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北九州市生まれで小学生の頃は工場萌え。中学3年から東京・多摩地区で育ち、向上心を持たず日々をのんべんだらりとすごす気風に染まる。通信社の文化部記者を経て、主に文化・芸能関連を取材。神戸のビフカツと卵焼きを挟んだ関西風卵サンドが好物。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。