あっという間に年末。年賀状に大掃除など、早くしなければと思い準備をしていても何かと気ぜわしい時期です。連載「年中行事で知る日本文化」では、彬子女王殿下が大晦日の由来や行事について解説してくださります。毎年行っている行事の歴史を知って人々の祈りの積み重ねに触れると、自身の気持ちに一本筋が通るような心地になります。
初めての「誰かとの年越し」
文・彬子女王
年越しの瞬間を誰かと迎えるというのは、子どもの頃からの夢であったかもしれない。そもそも夜更かしが得意ではないので、0時を回るころは基本的におねむなのだが、元旦は朝から行事が続く。夜更かししていると翌朝に差し障りが出るので、9時くらいに年越しそばを頂いて、三々五々部屋に戻り、新年に備えるというのが常だった。赤坂では除夜の鐘も聞こえない。子どもの頃は、寝ている間に年は明けていたし、少し大人になってからも、自分の部屋でひとり「ゆく年くる年」を見て、「年が明けた」ことを感じて眠りにつくというのが、私の大晦日である。
そんな私が初めて誰かと一緒に年越しの瞬間を迎えたのは、英国の地だった。博士論文の執筆が慌ただしくなってきて、日本に帰国する余裕がなく、オックスフォードに残ることにした年のこと。日本人の友人一家が、「新年に寮で一人というのもさみしいでしょう」と大晦日から家に招いてくれた。皆で年越しそばを頂き、お茶を飲みながらおしゃべりしていると、次第に0時が近付いてくる。やはり除夜の鐘を聞かないと雰囲気が出ないと、英国より先に新年を迎えているはずの日本の除夜の鐘の映像を動画投稿サイトで探したけれど、新年早々そんなことをしている人は当時はおらず、前の年の映像で我慢することにした。
そうこうしていると、外からパラパラパラ~っと花火の音がする。「あ、年明けたのかな」と言い、3人で顔を合わせて「あけましておめでとうございます」と言った。英国は、クリスマスは家族で集まり、大切にするけれど、大晦日はそれほどではない。友達や恋人と一緒に年越しの瞬間はお酒を飲んで大騒ぎするくらいで、年明け2日からは普通に仕事が始まるので、わりとあっさりしている。初めての「誰かとの年越し」は、想像していたより感慨深いものではなかったけれど、なんだかやはりいいものだな、と思ったのだった。
大晦日と月の関わり
晦日というのは、三十日(みそか)のことで、1年最後の晦日のことを大晦日という。晦日のことを、「つごもり」ともいうが、これは「月隠り(つきごもり)」の変化した言葉といわれている。旧暦では、新月、つまり朔の日が1日にあたる。月末はほとんど月の光が見えない時期になるので、このように言われるようになったようだ。
この「つきごもり」は「月籠り」の意味もある。古くは、日没が一日の終わりと考えられていた。つまり、大晦日の夜は一年の最後の夜ではなく、新年の始まり。夜になれば年神様が各家に来られるので、神社やお堂にこもり、夜通し火を焚いて眠らずに年神様をお迎えしたのだという。元旦にお雑煮を頂くのは、年神様にお供えしたものを下ろし、神様と同じものを頂くと言うのが本来の意味であるし、日付が変わった真夜中や元日の朝に初詣に行くと言うのも、この月籠りの習慣から生まれたものだろう。
月籠りの名残?京都八坂神社の「をけら詣り」
他にも、月籠りの習慣の名残と考えられる行事がある。12月31日の夜に行われる京都の八坂神社のをけら詣りである。12月28日の鑚火式(さんかしき)で、古式にのっとり火きり臼と火きり杵できり出されたご神火が、ご本殿の白朮(おけら)灯籠に灯される。そして31日午後7時の除夜祭が斎行された後、境内に吊るされた灯籠にご神火は移され、人々の願いを記した「をけら木」と白朮の欠片と共に、夜を徹して燃やされる。白朮とは、キク科の植物で、乾燥させた根を燃やすと強い香りを発することから、邪気を払うと言われている。解熱・鎮痛効果などもある漢方薬としても使われ、お正月の屠蘇散の原料の一つにもなるものである。この「をけら火」を、授与所で頂く火縄に移し、消えないように家まで持ち帰り、この火を使ってお雑煮を作ったり、大福茶をいれたり。神様の火で作った食べ物を頂けば、一年無病息災で過ごせるという。火縄の残りは、台所に吊るし、火伏のお守りとなる。
当日は、をけら火が消えないように、火縄をぐるぐる回しながら境内を歩いている人がたくさんいる。回転する火が残像となってそこかしこに残るのがとても幻想的で、年迎えの高揚感も手伝って、少し異世界に迷い込んだような感もある。年神様が下りてこられる空気感というのは、こういうものなのかもしれない。
年神様が下りてこられる日
日本人とは不思議なもので、月が改まるときはさほどのことはないけれど、年が改まると気持ちが切り替わるという方が多いのではないだろうか。年末に大掃除をしないままだと、なんだか気持ちよく新年を迎えられなかったり。いろいろと嫌なことがあった一年でも、年が改まればいい年が始まるような気がしたり。やはりこれは、大晦日には年神様が幸せを運んできてくださると皆が心のどこかで思っているからのような気がする。これがただの晦日にはない、大晦日の力なのだろう。
年神様は、新しい年の安全と豊作を司る神様。だから家々では、年神様の依り代である門松を立て、鏡餅をお供えし、松の内が明け、年神様がお帰りになると、その力を分けて頂くために、鏡餅はお汁粉などにして頂き、1年の無病息災を祈るのである。
やはり「ゆく年くる年」を見ながら、布団の中で年神様をお迎えするのは失礼だろうか。思えば、年神様をお迎えしての新年なのだから、私はいつも「ひとり」ではなかったことにふと気付いた。
※アイキャッチは『千代田之大奥 御煤掃』 楊洲周延 をトリミング。国立国会図書館デジタルコレクションより