長谷川等伯、伊藤若冲、葛飾北斎…和樂でも何度も取り上げてきた日本の絵師たちですが、実はまだまだ隠されてきた秘密がいっぱいあるのです。今回は長谷川等伯(はせがわとうはく)の人生と作品の秘密をご紹介します。
長谷川等伯の人生
悔しい思いを繰り返した青年時代
室町から桃山時代にかけて政治や文化の中心であった京では、漢画から始まった狩野派ややまと絵系の土佐派などの画派が絵画制作を一手に引き受けていました。
そんな時代に能登国七尾(のとのくにななお)に生まれた長谷川等伯は、絵仏師となり、30代前半に一念発起して京を目ざします。等伯は画力に並々ならぬ自信をもっていたのですが、絵の仕事を得たくても狩野派の厚い壁にことごとく跳ね返され、何度も砂を嚙むような思いを味わっています。
長谷川等伯「仏涅槃図」重文 1幅 絹本着色 桃山時代(16世紀)1000.0×約600.0㎝ 本法寺
表現の裏に見える狙い
そんな状況に一矢報いるために等伯は戦略を練り、やがて大仕事を遂行するのです。「仏涅槃図」は名を成した後の作ですが、10mもの大きさや「白雪舟五代」の署名などに、雌伏(しふく)の時代に培った広報戦略の才がうかがわれます。
長谷川等伯、息子の死
等伯にとって不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であり、目の上のたんこぶのような存在であった狩野派の頭領・永徳の訃報。それは等伯にとって、長年願い続けた打倒狩野派を現実のものとするチャンスでもありました。
等伯は京都画壇の逆風にさらされながら、わずかな人脈をフル活用して千利休や大徳寺の高僧らとの人脈を築き、絵師としての知名度を上げていきました。それに伴って長谷川派を形成し、いつか狩野派に取って代わることを願っていたのです。
そして、永徳の没した翌年、秀吉の子・鶴松の菩提を弔うために建てられた祥雲寺の障壁画の制作をまかせられ、順風満帆と思われたのですが、後継者と目していた長男・久蔵が早逝。派閥継続の夢ははかなく潰えました。
桜図壁貼付 長谷川久蔵 国宝 16世紀 紙本金地着色 4面 各172.5×139.5cm 智積院 京都。まばゆい金地に今を盛りと咲き誇る桜。絢爛豪華な本作は、豊臣秀吉が、3歳で亡くなった嫡子の菩提寺・祥雲寺(現・智積院)のために、「松林図屛風」で名高い長谷川等伯の一門に命じた障壁画の1図で、息子の久蔵が描いた。秀吉と等伯、両者がそれぞれの息子のはかない人生と重ね合わせて見た桜なのかもしれない。
代表作品を紹介
画面をよーく見てみると…国宝の作品は下絵だった?
水墨画の最高傑作として日本美術史上に名を残す「松林図屏風(国宝)」には多くの謎があります。
長谷川等伯「松林図屏風」(左隻)国宝 六曲一双 紙本墨画 桃山時代(16世紀末)各156.8×356.0㎝ 東京国立博物館 Image:TNM Image Archives
まずは静寂の情景といわれているものの、そのタッチは非常に荒々しいこと。そして、重要なポイントが、紙の継ぎ目がところどころ合ってなくて、構図が不安定に見えることです。左隻を例にとると、3扇と4扇の間のちょうど中央にあたるところがずれていて、紙継ぎを正しく合わせると下の画像のようになります。
しかし、これでは地面の高さにずれが生じるため、本来はこの間に絵があったのではないかという説もあります。そんなことから、下絵だったことが考えられているのですが、真相は松林図に描かれているような霧に包まれたままです。
重要文化財「商山四皓図」
南禅寺の塔頭・天授庵を再興、万丈には桃山期を代表する絵師である長谷川等伯が描いた障壁画が残されています。4人の隠士を画題にした「商山四皓図」では、等伯の簡略化された筆使いに、晩年ならではの深い精神性を感じます。
重要文化財 長谷川等伯 「商山四皓図」(部分) 慶長7(1602)年 天授庵
出身地には近年発見された「猿猴図屏風」も展示
石川県能登地方の中心市七尾(ななお)は、桃山美術の画聖・長谷川等伯生誕の地。都の文化を取り入れ、交易による経済的豊かさを背景に、古くから芸術や文化活動が盛んな地域でした。
等伯が青年期までを過ごした七尾市は、石川県能登島ガラス美術館や能登演劇堂、七尾城史資料館など、文化施設巡りが楽しい街。平成27(2015)年に発見された等伯の「猿猴図屏風」も、市内の七尾美術館に収蔵されてます。長谷川等伯「猿猴図屏風」紙本墨画 二曲一隻 160×240cm 石川県七尾美術館
この作品は、描かれている猿のポーズが、京都・龍泉庵の「枯木猿猴図」や、相国寺「竹林猿猴図屏風」などに類似しています。しかし、3作とも猿の毛の筆法がまったく異なる興味深い作品。七尾美術館はこのほかにも、等伯の作品を多数所蔵しており、特別展などで公開しています。
◆石川県七尾美術館
公式サイト
長谷川等伯は狩野永徳の絵を盗み見ていたのか!?
このふたつの絵は、桃山時代を代表する絵師、狩野永徳(かのうえいとく)と長谷川等伯(はせがわとうはく)の作品です。ふたつを見比べると、楓と檜の違いはあれど、中央にどっしりとした木の幹を斜めに描き、左右に枝葉を広げた構図がよく似ています。制作順でいうと「檜図屛風」が先なので、等伯が参考にしたのでしょうか……。
▼画像をスライド!
左/狩野永徳「檜図屏風」、右/長谷川等伯「楓図」
桃山時代といえば、織田信長や豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたことで知られています。活気に満ちたこの時代に天下人(てんかびと)が好んだのは、この絵のように金箔を全体に押し碧色で濃く彩色した金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)。豪勢かつ勇壮な絵は、城郭や寺院にこぞって用いられました。
この金碧障壁画の担い手こそ狩野派で、御曹司として若いころから天与の才を発揮した永徳にとってはまさに独壇場。「檜図屛風」は47歳で没した永徳の最晩年の作で、もともと八条宮家御殿(はちじょうみやけごてん)の襖絵を屛風に改めたものとされます。
狩野永徳「檜図屛風」紙本金地着色 8曲1隻 170.3×460.5㎝ 桃山時代(16世紀) 東京国立博物館
対する等伯は一旗揚げるために能登国七尾(のとのくにななお)から上京した一匹狼。当然、「檜図屛風」を見る機会などなかったはずです。しかし、永徳亡き後、秀吉に認められた等伯はみずからの画業のすべてをかけて「楓図」を完成。
長谷川等伯「楓図」紙本金碧 4面 172.5×139.5㎝ 桃山時代(1592年ごろ) 智積院
永徳をしのがんとする等伯の気魄(きはく)が、狩野派風の構図の金碧画を描かせたのかもしれません。しかし、細部を見ると、装飾的な「檜図屛風」に対して、「楓図」は自然の営みがありのままに描かれていて、その神髄は似て非なるもの。不思議な符合は、桃山時代の二大巨頭の違いを、かえって如実に物語っています。