京都・丹後で生産される美しい絹織物、丹後ちりめん。誕生したのは江戸時代中期のことです。古より絹織物の里だった丹後の町を歩くと、どこからともなくガチャ・ガチャ・ガチャと機織りの音が…。奈良時代、天平11(739)年には「丹後のあしぎぬ」が聖務天皇に献上されており、東大寺大仏殿の北北西にある正倉院には今なお御供物として残されています。
峰山町にある老舗の縮緬問屋「吉村商店」。屋号の丹後屋の「丹」を染め抜いた清々しい暖簾
丹後はもともと農業と織物が盛んな地でしたが、京都・西陣で「お召しちりめん」が開発されると「丹後精好」は売れなくなり、農業の凶作とあいまって人々は危機に直面します。そこで、享保5(1720)年、丹後峰山藩(京丹後市峰山町)の絹屋佐平治(きぬやさへいじ)という人が、京都西陣で修業をし、門外不出だった縮緬の技術を丹後へ持ち帰ったのが「丹後ちりめん」の始まりでした。峰山町・金刀比羅(ことひら)神社の境内にある木島神社には、養蚕の敵である鼠を退治してくれる狛猫が奉納されています。絹を尊ぶ人々の心が感じられます。
今なお息づく、丹後ちりめんの機織り
縮緬は、経(たて)糸と緯(よこ)糸が交互に組み合っている平織りの絹織物。強い撚りをかけた生糸を緯糸に使い、織りあげてから精練することで撚りが解けて布が縮み、シボと呼ばれる細かい凹凸ができるのが特徴です。丹後ちりめんはしなやかで染色性に優れているため、友禅染の生地としても定着し、日本の和装文化を支えてきました。昭和30〜40年代には、ガチャッと織れば万単位で儲かる「ガチャマン」と呼ばれた最盛期を迎えます。
和装の減少とともに織物産業は衰退しますが、今なお、丹後は着物の生地の約6割を生産する国内最大の絹織物産地です。
与謝野町の加悦SL広場では隆盛期に活躍した加悦鉄道の蒸気機関車(国指定重要文化財)の勇姿が見られる
さて、与謝野町の加悦(かや)地区は、丹後ちりめんの産地としてだけではなく、与謝峠を介して丹後各地と京都を結ぶ物流の拠点としても盛栄しました。その「ちりめん街道」と呼ばれる区域には、商家や病院、銀行など約260棟の建物が残り、活気に満ちていたころの面影を残しています。
ちりめん街道の軒下にかかる暖簾
旧加悦町役場庁舎(現在、観光案内所)を起点に、格子窓の商家などが立ち並ぶ、ちりめん街道を歩いてみましょう。街道沿いに残るひときわ大きな屋敷・旧尾藤(びとう)家は必見です。加悦の発展を支えた有力家のひとつで、当時の繁栄を極めた商家の暮らしが窺い知れます。織物の営みが育んだ、住居と機場が一体となった機屋や商家、その風景を巡るうちに約300年にわたる京都・丹後の絹織物の歴史や文化が体感できます。
「ちりめん街道」フォトギャラリー
生糸ちりめん商として幕末に栄えた旧尾藤家。和風建築と増築した洋館で構成される和洋折衷の住宅(京都府指定有形文化財)は一般公開されており、特注品のステンドグラスや照明など、調度品が今なお魅力的
地域で初の西洋医学の診療所だった旧伊藤医院診療所と、玄関の西洋風の彫刻
金刀比羅神社内には木島神社があり、なんと狛猫が
天満神社から望む風景と長い階段
網野神社の境内にある蚕織(こおり)神社のちりめんおみくじ。毎年奉納される丹後ちりめんでつくられる
峰山町の金刀比羅神社の絵馬は猫形
昭和9(1934)年に架けられた天神橋
ちりめん街道のあちこちにお地蔵さん。地蔵盆には地元の子供たちが化粧する
家々の意匠を見て歩くだけでも楽しい
旧川嶋酒造酒蔵でしか買えない日本酒「ちりめん街道」
街道でいちばん古い下村家住宅。かつて郵便局の使命を担っていた