第1の説
君が代の起源には諸説ありますが、当時何人か軍人が、これに関わっているのは事実で、その中の有力な説を基本に考え直してみたいと思います。
有力な説とは、以前に和樂webで大山格さんが紹介した『元帥大山巌:日露戦役二十五記念』にある談話です。これを現代語で要約すると、
明治3年末から4年にかけてのころ、薩摩出身の軍楽伝習生たちが英国軍楽隊隊長のフェントンから、日本には国歌があるのかと聞かれ、ないのであれば甚だ欠点なので策定すべきと言われた。これが大山の耳に入り、大山は、新たに作るよりも古歌から選び出すべきといい、平素愛誦する「君が代」の歌を提出した。之を聞いた野津も大迫も、実に然りと早速同意したから、之をその伝習生に授けて、彼が師事する英国の楽長に示した。
『元帥大山巌:日露戦役二十五年記念』p42-44
以前に私の記事でも紹介しましたが、薩摩藩出身の伝習員たちへの軍楽伝習は1869(明治2)年9月に始まりました。教授したのはイギリス陸軍第10連隊第1大隊附軍楽隊の楽長フェントン (John William Fenton)です。つまり、フェントンから伝習員経由で、国歌の必要性を説かれ、何人かで相談して歌詞を選定し、作曲はそのフェントンに依頼したということなのです。これが大山の記憶では、明治3年の末から明治4年ころとされています。
しかし、このとき出来た国歌は、明治3年9月の越中島で薩長土肥4藩の陸軍部隊が天皇の御親閲を受けたときに演奏されたとなっており、その後軍楽伝習員は徴兵交代のため帰藩していましたので時代が一致しません。このあたりのことを、『元帥公爵大山巌』においては、「頃は明治3年の末若しくは4年の初なりしならんとあるは、明治2年の末若しくは3年の初であることは、元帥が明治3年8月普仏戦争観戦のために出発して東京にはいなかった事を以て知られる」と著者による注釈が記載されおり、大山の記憶違いであることは明確です。
一方で、大正時代に小山作之助という東京音楽学校(のちの東京芸術大学)の教授が、当時まだ存命だった明治初期の主な人達に直接書簡を送り、話を聞き、調査して、その結果を遺稿として残しています。また、最近では、小田豊二『初代「君が代」』という書籍の中で、これらのことについてとても良く整理されています。
小山の調査結果からは、天皇陛下を祝う歌、すなわち、国歌が必要となり、数人の選定者がいて、それぞれ「自分が君が代を選んで、フェントンに作曲させた」と言っており、それ以上は特定できなかったようです。
ここでいう数人とは、川村純義(後の海軍卿、鹿児島から上京した歩兵大隊の指揮官)、大山巌(後の陸軍大臣、川村とともに砲兵指揮官として上京)、原田宗助(後の海軍技術総監、英語の通訳)、肝付兼弘(英国陸軍を研修中、軍楽伝習開始の立役者)などが登場します。
そして、国歌の必要性を説いたのはフェントンとなっています。
その歌詞は薩摩に伝わる蓬莱山という琵琶歌中の一節から、メロディはフェントンによるものです。ところが日本人の感性に合わなかったということで、1876(明治9)年にメロディを作り直すことになり、1880(明治13)年に出来上がりました。それが今の「君が代」です。つまり、今の君が代は2代目で、「初代君が代」があったということなのです。その「初代君が代」の譜は今も残されています。
第2の説
大体、このような事情で、落ち着いたとも言えるのですが、これを大きく覆す有力な説があります。それは原田宗助によるもので、明治2年7月に英国王子(当時の英国ヴィクトリア女王の次男エジンバラ公)が来日する際に接遇掛であった原田は、川村純義から丸投げされて国歌を作らされたことを晩年になって澤鑑之丞に打ち明け、これが『海軍七十年史談』(1942年発刊)に記載されています。
その内容を要約すると、
明治2年7月に英国王子が来日する際に、各藩から英語に堪能なものが選ばれ接待掛となった。薩摩藩からは原田宗助、静岡藩から乙骨太郎乙(おつこつ たろうおつ)が選ばれた。準備が進むなかで英国軍楽隊長のフェントンから、儀式等の中で日英両国の国歌を演奏する必要があるが、日本の国歌は如何なるものかと問い合わせがあった。これについて川村純義に指示を仰いだところ「総て任せてあるのだから手落ちないように処遇せよ」と丸投げされてしまった。
原田は乙骨と相談して、幕府時代に大奥において毎年元旦に施行された「おさざれ石」の儀式の際に唄った歌に「君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで」とあることから、これを歌詞に決めた。メロディの方は、鹿児島で演奏される琵琶歌中に蓬莱山という古歌があり、そこにも同じ歌詞があるので、この曲が良いということになり、その蓬莱山を原田が実際に唄って、フェントンがこれを聴いて採譜した。
薩摩藩の伝習員に対する軍楽伝習は明治2年9月からなので、このときはまだ始まっていませんでした。つまり大山の言う、フェントンから国歌の必要性を伝習員が聴いて策定した時期よりも、これはもっと前のことなのです。
フェントンが作曲した「初代君が代」、そして薩摩琵琶歌中の蓬莱山もYouTubeで聴くことができます。両方を聴き比べると、実は似ていないのです。小田豊二も著書『初代「君が代」』のなかで、メロディは似ていないと書いています。
二つの説のポイントを整理
これらのポイントを整理すると異なる二つの事が起きていることがわかります。メロディについてのみ整理すると。
【原田説】
・明治2年7月の英国王子来日をきっかけに策定
・川村純義に丸投げされて、蓬莱山を原田が唄い、フェントンが採譜
【大山説と小山説を整理】
・明治2年末から明治3年始めころ、フェントンが国歌の必要性を説いた
・作曲はフェントンに依頼
・初演は明治3年9月の越中島で天皇の御親閲
【蓬莱山と「初代君が代」のメロディは似ていない】
ここでフェントンと川村純義はいずれにも関与していて、さらに、川村は軍楽伝習を視察に横浜へ出向いた際にフェントンから国歌の必要性を説かれたとされています(『海軍軍楽隊沿革史』より)。このため、大きく異なる二つの説がありながら、メロディは同じと考えられ、矛盾が生じているのです。この矛盾は小田豊二の著書の中でも解消することはできませんでした。この矛盾を解くカギは、原田に総てを丸投げしたという川村の行動にあります。
明治2年3月の薩摩藩内の兵制改革によって常備隊が編成され、川村は4月に800人で編成される常備銃隊の二番大隊長となり、同年9月に鹿児島藩知事の島津忠義の上京に際して、当該大隊を率いて上京しました。そして共に上京したのが、一番大隊(指揮官:野津鎮雄)及び二砲座(指揮官:大山巌)でした(田村栄太郎『川村純義・中牟田倉之助伝:明治海軍の創始者』より)。冒頭で紹介した大山巌の談話にある野津は、この野津鎮雄のことであり、大迫は共に上京した少参事という職にあった大迫貞清のことです。
つまり、明治2年7月の英国王子来日の際、川村はまだ東京にはいなかったのです。原田の言う、「国歌の演奏等について川村純義から丸投げされた」ことは真実ではないのです。
当時、鹿児島に電信は敷設されていませんでしたので、東京にいない川村が丸投げなどできる訳がありません。なぜ原田はここだけ真実を語らなかったのか。それは儀式を滞りなく済ませたとはいえ、勝手にその場しのぎの国歌を制定したことには変わりありません。それをずっと隠していたわけです。小山が大正時代に調査していたときには語らず、晩年になって澤鑑之丞に語ったということは、それほどに大それたことをした自覚があり、言い出せなかったのでしょう。しかし、澤に対して語った際も、「川村に丸投げされた」という言い訳をつけ、すべてを正直に言うことができなかったと推察できます。
『海軍七十年史談』には、川村の話が具体的に引用されていて、およそこれが原田の創作であるとは思えないほどの臨場感があるのですが、川村はその場にいなかった以上、これは真っ赤なウソです。
新説:「初代」の前にもう一つ「君が代」があった
明治2年の英国王子来日の際の国歌は、原田と乙骨だけで事を進めたと考えると、矛盾が解けます。つまり「初代君が代」の前にもうひとつ君が代があったのです。これを、「まぼろしの君が代」と呼ぶことにしましょう(大井説ですね)。それは蓬莱山を原田が歌って、これを聴いてフェントンが採譜したもの。それは、明治2年7月の英国王子来日の際にだけ演奏されたのです。儀式の中では軍楽隊による日英国歌の演奏となりますので、歌詞は必ずしもありません。英国側の参加者は、英国の国歌ともう一つ日本の国歌らしき曲が流れたと思ったでしょう。日本側は、まだ外交儀礼には慣れていないことから、二つの曲が流れた程度の認識だったのではないでしょうか。その実態を知っている日本人は、原田と乙骨などほんの一部の担当者だけだったのです。
その後、フェントンによる薩摩藩の伝習員に対する吹奏楽伝習が始まります。フェントン自信も、勝手に日本の国歌を作って演奏するというある意味大変なことをしたわけですから、ちゃんとした国歌が必要と、伝習員に伝える事で、それが大山巌に伝わったのです。横浜へ視察に来た川村に対してフェントンが直接伝えていてもおかしくはありません。それが明治2年の末から明治3年にかけての出来事です。そして歌詞は、大山に加え、原田と乙骨も含めて何人かで合議した際に、大山が蓬莱山の歌詞を発案し(原田と乙骨が導いたのかもしれません)、正式にフェントンに依頼して出来上がったのが「初代君が代」ということになります。
しかし、このメロディは「我が国の声調にかなっていない」、「日本人の感性に合わない」と改定を求める上申書「天皇陛下ヲ祝スル樂譜改訂ノ儀」が、明治9年に初代海軍軍楽隊長の長倉彦二(後中村祐庸と改姓名)から提出され、宮内省と改訂の方向で検討に入りました。
初代と2代目「君が代」の違い
具体的にどのような問題があったのか、素人なりに筆者が聴いてみた感想を述べます。
君が代の歌詞は、五七調なのですが、メロディをつけると五七調の切れが曖昧になり、単なる文字の羅列に音符が付いたような感じがします。それが声調にあってない、日本人の感性に合わないということなのでしょう。
そして、新たに作り直されたのが現在の国歌「君が代」(2代目)です。
「君が代」の初演は、1880(明治13)年11月3日の天長節で、宮内省式部寮雅楽課によって宮城内で演奏されました。この時点で、これを国歌として取り扱ったのは、海軍省と宮内省のみでした。当時陸軍は異なる曲を使用していました。なお、「君が代」(2代目)を誰が作ったかに言及すると、また諸説出てくるのですが、ここは省略します。
「君が代」(2代目)は、海軍軍楽隊のお雇い教師、ドイツ人のF. エッケルト (Franz Eckert, 1852-1916) によって吹奏楽用に編曲され、1888(明治21)年に海軍省から各条約国に「大日本禮式」(JAPANISCHE HYMNE)の題名で送付されました。
つまり、対外的にはここで日本の国歌として宣言されたわけです。国内的には、文部省が1893(明治26)年に儀式の際の歌詞と楽譜を定めた際に「君が代」を含め、陸軍にあっては1897(明治30)年に「君が代は陛下及び皇族に対し奉る時に用ゆ」と制定しました。
海軍では明治13年に策定してから、この「君が代」を国歌としていたものの、規則として明記されたのは、1912(大正元)年8月9日「儀制ニ關スル海軍軍樂譜」によります。そこには、君が代は、「天皇及皇族ニ對スル禮式及一月一日、紀元節、天長節、明治節ノ遙拜式竝ニ定時軍艦旗ヲ掲揚降下スルトキ」に演奏すると書かれています。
不思議なことに、これらは全て各省での規則であって、法律では定められていなかったのです。しかし太平洋戦争が終わるまで、「君が代」は国歌として揺るぎない地位にありました。戦後、国歌改定の議論はあったようですが、引き続き「君が代」が使われたのは、法律として制定されていないという曖昧さも一つの要因だったのではないでしょうか。
戦後、海上自衛隊においては、1961(昭和36)年1月18日「儀礼曲の統一に関する通達」が制定され、その最初にいつ演奏するのかが定められています。
君が代
(1)国旗又は自衛艦旗の掲揚降下の場合
(2)諸儀式において儀式の執行者が必要と認める場合
やはり法律ではなく、各省庁による規定というスタイルは戦前のままでした。
君が代が国歌として法制化されたのは、1999(平成11)年のことです。「国旗及び国歌に関する法律」(国旗国歌法)が国会で成立、13日に公布(号外第156号)され、次のように即日施行されました。
国旗及び国歌に関する法律をここに公布する。
御 名 御 璽
平成十一年八月十三日
内閣総理大臣 小渕 恵三
法律第百二十七号
国旗及び国歌に関する法律
(国旗)
第一条 国旗は、日章旗とする。
2 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
(国歌)
第二条 国歌は、君が代とする。
2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
(以下「略」)
「まぼろしの君が代」(大井説)から数えると、実は3代目にあたる現在の「君が代」は130年を経て、正式に国歌として法制化されたのです。
参考文献
小田豊二『初代「君が代」』(白水社、2018年)
塚原康子『十九世紀の日本における西洋音楽の受容』(多賀出版、1993年)
楽水会『海軍軍楽隊-日本洋楽史の原典-』(国書刊行会、1984年)
田村栄太郎『川村純義・中牟田倉之助伝:明治海軍の創始者』(日本軍事図書、1944年)
澤鑑之丞『海軍七十年史談』(文政同志社、1942年)
大山元帥伝刊行会 編『元帥公爵大山巌伝』 (大山元帥伝刊行会、1935年)
猪谷宗五郎 編『元帥大山巌 : 日露戦役二十五年記念』(川流堂、1930年)
公爵島津家編輯所編纂『薩藩海軍史 下巻』(薩藩海軍史刊行會、1929年)
その他「公文備考」などアジア歴史研究センターHPからダウンロード
海上自衛隊東京音楽隊HP
大山格「曾祖父は「君が代」を制定していない。日露戦争の総司令官、大山巌に関するウソ・ホント」和樂web