2024(令和6)年から流通する予定の新5千円札。その肖像に選ばれた女性が津田梅子(つだうめこ)です。明治時代に日本人女性としてはじめての海外留学生となり、帰国後は津田塾大学の前身となる女子英学塾を開いて、女性の教育に尽くしました。また、ヘレン・ケラーやフローレンス・ナイチンゲールという、同じ時代を生きた世界の偉人とも対面をしています。現代女性のパイオニアとなった、津田梅子の人生を辿ってみましょう。
6歳で岩倉使節団とともにアメリカへ
津田梅子は幕末の色濃い1864(元治元・文久4)年12月に江戸で生まれました。出生時の名前は「むめ(うめ)」、のちに梅子と改名をします。
幕府の通訳として欧米へ渡航した際に「こちらには髪を結える人がいないから」とちょんまげを切り落としてしまったという父・津田仙の意向により、1871(明治4)年に岩倉使節団とともに海を渡り、アメリカへ留学しました。数え年で8歳、現在の年齢の数え方だと横浜から船が出たときにはまだ6歳で、船の上で7歳の誕生日を迎えています。
岩倉具視(いわくらともみ)が全権大使、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らが副使をつとめた岩倉使節団は、欧米の制度などを視察することを目的としていました。
同じ船には40名以上の留学生が乗っていましたが、そのうち女子留学生は5人。梅子は最年少です。
教師になる夢を抱いて、17歳で帰国
アメリカに到着した梅子と会ってその年齢に驚きながらも、留学先に落ち着けるよう心を砕いてくれたのは、当時ワシントンで外交官をつとめていた森有礼(もりありのり)です。梅子は裕福なアメリカ人夫妻のランマン家に寄宿して、わが子のように愛されながら学校へ通いました。8歳のときには、梅子自身の希望でキリスト教の洗礼をうけています。
5人の女子留学生のうち年長の2人は先に帰国をしましたが、残る梅子と山川捨松(やまかわすてまつ)と永井繁子(ながいしげこ)の3人は、当初から予定されていた10年の留学期間をアメリカで過ごしました。自分たちをトリオ(3人組)と呼んで、帰国後まで続く絆を育んでいます。
梅子が帰国したのは、女学校の卒業に合わせて10年の予定を1年延長した1882(明治15)年。同年に大学を卒業した捨松と同じ船で帰国の途についたのは、18歳の誕生日を迎える直前でした。梅子と捨松は船の上で、帰国したら捨松が寄宿先で姉妹のように育ったアリス・ベーコンを日本に呼びよせて、3人で女子のための学校を開こうと夢を語り合っています。日本の女性たちのリーダーとなって、国のお金で留学をさせてもらった分の恩返しをしたいと思っていたのでしょう。
早すぎる結婚への疑問と、夢への一歩
幼いころにアメリカへ渡って、日本で育ったよりも長い年月を過ごした梅子は、帰国した当初は日本語におぼつかないところがあったといいます。それでも日本の人々は、梅子がアメリカから持ち帰った知識や作法、髪型やファッションにまで興味津々でした。
社交界の人気者となった梅子が驚いたのは、日本の女性たちが10代半ばの若さで、親の決めた相手と結婚していくことでした。留学から帰国した男性が明治政府から期待され、厚遇されているのに対し、梅子たち女子留学生には結婚という道しかないようにも思えました。いわゆる良家の女子が、自らの意思で職業を持って働くということは、当時の日本ではまだ一般的なことではなかったのです。
梅子には、これからは親が決めた相手ではなく、自らパートナーを選んで結婚する世の中になるべきだ、という思いがあったようです。また、教師として働くことで、経済的にも自立した女性でいたいと考えていました。
梅子は夢をあきらめず、21歳のときには伊藤博文が設立を後押しした華族女学校(現在の学習院女子大学の前身)の教壇に立ちます。
同じ夢を抱いて帰国した捨松は、のちに陸軍元帥となる大山巌(おおやまいわお)に求婚されて結婚し、社交界の有力な既婚女性として女子高等教育への支援を続けていました。また華族女学校で働く同僚には、アメリカから訪日したアリス・ベーコンの姿もありました。
日本における女子高等教育はまだスタートしたばかり。梅子は教師としての経験を積みながら、理想とする女子高等教育のビジョンを胸に描いていったのではないでしょうか。
アメリカに再留学し、大学に通った20代
日本では英語を専門に教えていた梅子ですが、25歳のときに華族女学校を休職してふたたびアメリカへ留学。フィラデルフィアの名門女子大学ブリンマーで生物学を修めました。
大学でのびのびと学び、アメリカで親子のような時間を過ごした懐かしいランマン夫妻とも交流しながら、充実した数年間を過ごしています。
のちに日本で学校経営の苦楽を共にするアナ・ハーツホンともブリンマー大学で出会い、友情を育んでいきました。
ほかにもアメリカから講演に招かれたり、イギリスの大学で講座をとって学んだりと、20~30代の梅子は数回海を渡っています。またその機会を利用してアメリカではヘレン・ケラーと、イギリスではフローレンス・ナイチンゲールとの対面を果たしました。
30代で女子英学塾を設立
梅子が念願だった女子英学塾(のちの津田塾大学)を開いたのは1900(明治33)年、36歳のときです。華族女学校と兼任で教えていた女子高等師範学校という、安定した勤め先を退職してのチャレンジでした。
はじめは東京の麹町(現在の千代田区一番町)にあったごく普通の家を校舎にして、初年度に迎えた生徒は10人。名前に「塾」をつけたのは、少人数で一人ひとりの個性を伸ばす教育を理想に掲げていたからといわれています。
女子英学塾はその後順調に生徒を増やし、校舎も広い場所へと引越しをしていきますが、経営を軌道に乗せるのは決して楽ではなかったようです。ともに学校を作る夢を描いた捨松をはじめ、有力な支援者もいました。アリス・ベーコンやアナ・ハーツホンは、ほぼ無給で生徒に教えてくれていました。それでも梅子は自らの給料を削って、なんとか最初の数年間を乗り切っています。
1902(明治35)年に名前を当世風に梅子と改名。専門的な教育を通して女性の生きる世界を広げ、自立へと導くことに人生を捧げました。
関東大震災と、アメリカからの復興支援
梅子が晩年にさしかかるころ、危機は突然訪れました。1923(大正12)年に東京を襲った、関東大震災です。地震後の火災で校舎が燃えてしまい、アナ・ハーツホンが急遽アメリカに帰国して、再建のための資金集めに奔走しました。
梅子が亡くなったのは、まだ64歳だった1929(昭和4)年のこと。たくさんのエール(寄付)によって、1932(昭和7)年に東京・小平に完成する新しい校舎を見ることはできませんでした。梅子をしのび、女子英学塾から津田英学塾へと学校が名前を改めたのは、新校舎が完成した翌1933(昭和8)年のことです。
たった6歳で親元を離れて、アメリカへ留学した津田梅子。帰国後もまた身ひとつで女子の教育に尽くし、その強い心が人をひきつけ、協力者を呼び、偉業を成し遂げた人生でした。
アイキャッチ画像:財務省ウェブサイトより(https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/20190409.html)
参考書籍:
『津田梅子』著:大庭みな子(朝日新聞社)
『人と思想116 津田梅子』著:古木宜志子(清水書院)
『津田梅子を支えた人々』(有斐閣)
『津田梅子の社会史』著:高橋裕子(玉川大学出版部)
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)