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2022.11.03

ライバルが次々に死去。平安ドリームを叶えた男・藤原道長

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平安時代の人物といえば、藤原道長(ふじわらのみちなが)を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。当時、一大勢力となった藤原氏の中でも特に、一族の栄華を象徴する人物です。2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』では、柄本佑さんが演じると発表されました。

今回はそんな藤原道長について、3分で解説いたします。

藤原道長ってどんな人?

藤原道長は、平安中期に活躍した貴族です。康保(こうほう)3(966)年に生まれ、万寿(まんじゅ)4(1028)年に62歳で没しました。
彼の生まれた藤原北家(ふじわらほっけ)は、藤原氏の中でも特に権力をもっており、道長の父・兼家(かねいえ)は天皇の摂政(せっしょう/幼かったり病弱だったりする天皇を補佐する役目)や関白(かんぱく/大人になった天皇を補佐する役目)を務めていました。
道長は兼家の五男で、当初は跡取りではありませんでしたが、巡り巡って最高の権力を手にします。

道長は5男だったんだ!

父の栄光を継ぐべき兄たちの脱落

藤原北家は摂政や関白の座を独占しており、彼らのやり方は摂関政治(せっかんせいじ/摂政や関白といった重職について政治の実権を握ること)と呼ばれています。
まさに華麗なる一族。ただし、一族内での権力争いは激しいものでした。
道長の父・兼家も、兄弟間の争いの末に摂政と関白の座についています。

そんな兼家の長男・道隆(みちたか)や三男・道兼(みちかね)は、兼家の威光によって異例の大出世を遂げました(側室から生まれた次男と四男はそこまで取り立てられず)。
特に道隆は兼家の死後、関白の座を手に入れます。そして自分も、息子を出世させたり娘を入内(じゅだい/天皇へ嫁がせること)させたりしますが、長徳(ちょうとく)元(995)年に43歳で亡くなってしまいます。
その後、関白に就任したのは道兼でしたが、彼もまたすぐに亡くなりました。
残されたのは、道隆の息子・伊周(これちか)と道隆の弟・道長です。道長は甥と争うことになったのです。

甥との政争に勝利して頂点へ

伊周と道長。伊周は、関白を務めた道隆の正当な跡取りです。となると、伊周のほうが有利に見えるでしょうか?
しかし、道長には強力な支援者がいました。一条天皇の母である、姉の詮子(せんし)です。

一条天皇は、道隆の娘で伊周の妹でもある定子(ていし)を寵愛しており、伊周に配慮したい気持ちがあったようです。しかし、母の詮子の強い説得によって道長を取り立てます。

この時代は現代よりもずっと、コネクションが重要だったんですね。

伊周はというと、長徳2(996)年、一条天皇の先代にあたる花山(かざん)法皇の衣服を弓で射抜く事件を起こし、左遷されてしまいます。
それ以降、道長の権力は確かなものとなりました。

娘の入内と天皇への圧力

長保(ちょうほう)元(999)年、道長は娘の彰子(しょうし)を一条天皇へ入内させます。さらには長保2(1000)年、彰子を中宮(ちゅうぐう/天皇の正妻)に押し上げます。
一条天皇は既に定子を中宮にしていましたが、彼女は一度出家したことを理由に皇后の身分が与えられ、事実上1人の天皇に正妻が2人いる状況になりました。

一条天皇は引き続き定子を大切にしますが、彼女は若くして亡くなってしまいます。2人の間には第一皇子の敦康親王(あつやすしんのう)が生まれており、彰子はその養母となります。
亡き定子を想う一条天皇は、敦康親王を帝位につけたいと考えました。彰子もその気持ちを尊重しようとしましたが、道長は彰子が生んだ敦成親王(あつひらしんのう)を引き立てます。これは、彰子としても不本意なことだったとされます。

自分の孫の即位が現実的になると、道長は一条天皇に圧力をかけて退位させます。その後即位したのは、一条天皇の従兄弟にあたる三条天皇(さんじょうてんのう)です。
道長と三条天皇の関係はとても悪く、道長は自分の孫である敦成親王を早く即位させるために、三条天皇にも退位を迫りました。

結局、長和5(1016)年、敦成親王は後一条天皇(ごいちじょうてんのう)として即位します。このときはまだ幼かったため、道長が摂政になります。ここで彼は念願の天下を手にしたのでした。
ちなみに道長は、関白にはなりませんでした(打診を受けたけれど断ったエピソードは伝えられています)。
また、晩年は病に苦しむことが多かったようです。

この世は俺のもの? あの有名な和歌

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
現代語訳:この世は私のための世なのだと思う。まさにこの満月のように欠けたところがないように思える(ほど私は満ち足りている)。

道長と言えば、この和歌をイメージする人も多いのではないでしょうか。
これは、道長が三女の威子を後一条天皇に入内させたとき(叔母と甥の結婚でした)の祝宴で詠まれたもので、同時代の貴族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)の日記『小右記(おうき、しょうゆうき)』に記されています。道長自身の日記には記載がありません。
一条天皇の彰子だけでなく、三条天皇の中宮も後一条天皇の中宮も彼の娘でした。
3代にわたって中宮を輩出した道長としては、頂点に登り詰めた高揚感がついこの歌に表れてしまったのではないでしょうか。

この世は俺のもの、なんて言ってしまっても咎められないほどの権力……。

複数の天皇に圧力をかけるほど、自分の権力欲に正直だった道長。
「この世をば〜」の和歌を見ても、かなり傲慢な人に思えるかもしれません。ただ、微笑ましい姿を見せることもあったようです。
それは寛弘(かんこう)2(1008)年、待望の皇子・敦成親王が生まれたときのこと。彰子に仕えていた紫式部(むらさきしきぶ)の『紫式部日記』に、詳細が書かれています。

あるとき道長は、生まれたばかりの敦成親王を抱きあげたときに、おもらしをされてしまいます。
濡れた服は火であぶって乾かされますが、そのときの道長は気分を害するどころか、「この若宮(皇子)の尿で濡れるなんて嬉しい。濡れた服をあぶっていると、思いが叶った気分になる」と喜んだといいます。

待ちに待った彰子の出産、しかも生まれたのは皇子。
敦成親王は、道長が頂点に上りつめる足掛かりになります。
尿をかけられても嬉しくなってしまったのは、輝かしい未来が見えてきたからかもしれません。一方で、純粋に孫が生まれた嬉しさのあまりデレデレになったとも解釈できます。

彰子の皇子出産は、まさに道長のターニングポイントでした。平安時代、出産時の空間は白を基調に統一されていたそうです。画像出典:Colbaseより『栄花物語図屏風』(東京国立博物館所蔵)の一部

時の権力者だった道長の人物像は、多くの記録や文学作品に書かれています。
本人の日記である『御堂関白記(みどうかんぱくき)』をはじめ、先述の藤原実資の『小右記』や紫式部の『紫式部日記』。
同時代の貴族・藤原行成(ふじわらのゆきなり)の日記『権記(ごんき)』も、藤原道長の全盛期に執筆されたもので、当時の雰囲気が窺えます。
物語文学なら、歴史物語の『大鏡(おおかがみ)』や『栄花物語』(えいがものがたり)がおすすめです。
いろいろな角度から、藤原道長がどのような人物か見つめてみると面白いですよ。

人は誰でも、見る角度によって違う姿になります。道長がどんな人だったのか、探ってみるのも面白そうですね!

アイキャッチ画像:画像出典:Colbaseより『紫式部日記絵巻断簡』( 東京国立博物館所蔵)

主な参考文献
『藤原道長』 山中裕/著 吉川弘文館 2008年
『藤原道長の日常生活』 倉本一宏/著 講談社現代新書 2013年
『藤原道長事典―御堂関白記からみる貴族社会』 大津透・池田尚隆/編 思文閣出版 2017年
『藤原氏 ―権力中枢の一族』 倉本一宏/著 中央公論新社 2017年

書いた人

日本文化や美術を中心に、興味があちこちにありすぎたため、何者にもなれなかった代わりに行動力だけはある。展示施設にて来館者への解説に励んだり、ゲームのシナリオを書いたりと落ち着かない動きを取るが、本人は「より大勢の人と楽しいことを共有したいだけだ」と主張する。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。