1938(昭和13)年12月。東京・目黒にある日本民藝館の創設者である柳宗悦(やなぎ・むねよし/1889-1961)は、念願だった初めての沖縄行きを果たしました。当時は、船の旅。那覇港(現在の那覇ふ頭)に近づく船上の人を迎えたのは、燃えるような瓦の赤と漆喰の白がコントラストをなす家々の屋根並です。「建築の美を愛する程の人は、此の眼福を生涯忘れることができないでしょう」。すでに日本本土では寺院などでしか見ることがなくなっていたという本葺の瓦屋根。しかも奈良の東大寺三月堂や唐招提寺などの〈天平の甍(いらか)〉に通じる本葺瓦が当時の沖縄でなお現役であることの感動を、柳は著作『琉球の富』のなかでアツく、繰り返し述べています。
しかし、彼が見た美しい光景を現代の私たちが見ることはかないませんでした。
1945年から1972年までの27年間、アメリカの統治下におかれた沖縄が本土に復帰して50年になる今年、日本民藝館では特別展「復帰50年記念 沖縄の美」が開催されています。展示には柳と民藝運動の同人たちが4回にわたる沖縄訪問で蒐集した染織品や陶器、漆器などが含まれます。結果として戦禍を逃れることができたそれらは、日本屈指の琉球工芸のコレクションとなり、琉球王国が育んだ美の姿をいまに伝えます。柳宗悦が見つめた沖縄と、その思いについて同館 学芸員、古屋真弓さんに伺いました。
沖縄は民藝の宝にあふれた、美の浄土
日本民藝館が所蔵する作品は約1万7千点。そのうちのおよそ1割、約1,600点が沖縄の工芸品です。柳が沖縄を訪問し集めた19世紀ころの作を中心にしながら、その後の蒐集も合わせてコレクションは発展を続けてきました。この数字からも同館と沖縄の縁の深さがうかがい知れます。
「民藝運動の父」と呼ばれる柳宗悦は、明治以降の近代化で失われていく伝統や民族文化、各地の手仕事の復権を目指す生活文化運動=「民藝運動」を陶芸家の河井寛次郎や濱田庄司らと提唱しました。朝鮮陶磁器との出合いから、無名の職人が作る日常品、人々の暮らしに息づく生活用具に伝統的な美を見出すようになり、彼らはそれを「民衆的工藝=民藝」と名付けます。
柳の学習院高等学科時代の同級生に琉球王国の王家、尚家21代当主、尚昌(しょう・しょう)氏がいました。侯爵を通じて知った沖縄のものの美しさに心を打たれた彼はその研究をはじめ、いつか沖縄へ、という思いを募らせます。しかし、昌氏の突然の他界や関東大震災、京都への移住や外遊などをしている間に時がたち、ようやく訪れた機会は日本民藝館の開館(1936年)の2年後。「島の生活は変わっていて既に時期はおそく、見るべきものは残っていないだろうと聞いていたり、また小さく貧しい島だと繰り返し聞かされていました。しかし、実際に行ってみるとまったくそんなことはなく、『宝の山に入ったようだ』と感動して工藝調査と蒐集の旅を重ねました」と古屋さん。
展示にある映像『琉球の風物』(1939年※)は、柳らが製作した沖縄の日常風景と工芸品の本土への紹介を目的としたフィルム。「映像のなかに長くはありませんが、那覇の古着市の様子も映っています。柳らが毎夕6時に通ったという場所です。そこには絣や縞などたくさんの着物がゴザの上に並べられていて、モノクロ映像を見るだけでも、民藝好きにはたまらない夢のような世界が映されています。私もその中へ行きたいくらい(笑)。柳は狂喜乱舞したことでしょう。華やかな染物の紅型はすでに本土でもある程度知られていたようですが、織に関しては当時、評価はそれほど高くなかった。古着ですから価格は比較的安い。沖縄の人も、だれも美的価値のあるものとして高く評価をしていなかった布を、こんなに素晴らしいものはないと買い漁ります。その価値を本土だけでなく沖縄の人たちにも伝え続けた。沖縄の織物の美は柳が見出したといっても過言ではありません。その最たるものが芭蕉布だったのです」
芭蕉や苧麻(ちょま)といった沖縄に自生する素材を用い、色を染め、那覇や南風原(はえばる)の絣、久米島の紬、読谷の花織、八重山や宮古諸島の上布など、沖縄では地域ごとに特色ある布がつくられました。一部の作品はガラスケースなしで展示され、繊細な手しごとを間近に眺めることができ、作り手の息づかいさえもが感じとれます。
沖縄には、日本の美しい文化の源流がある
沖縄での滞在は4回の訪問で100日近くになりました。「中でも民藝協会の人達と協同して、一軒の家を借り調査に研究に製作にいそしんだ数ケ月間の滞在は、私達を一入(ひとしお)この島の人達や風物に近づけました」(「沖縄の思い出」)と書くように、柳たちは工芸調査と並行して離島を含め沖縄各地を歩き、土地に暮らす人々や建物などの撮影に精力的に取り組みます。関心は工芸にとどまらず、音楽や踊り、言葉、自然、建築や墓などへと広がりました。沖縄には生活に芸能があると同時に芸能に生活がある。また、生活には信仰が息づき、それらが人々の生み出すもののかたちに表れている――たくさんの人との交流を通じて強くした思いも『琉球の富』からは伝わります。
瓦屋根に天平を重ねたように、沖縄の言葉には「最も古格ある大和言葉を保有している」と万葉の時代を重ねました。「万葉集」の歌詞でわからないものは沖縄最古の歌集「おもろそうし」の研究で明らかになる、とも述べています。「それゆえ言葉に対する姿勢は特に象徴的で、当時、沖縄方言を廃し標準語を普及させようとする県と方言を守る姿勢で対立し、方言論争にまで発展しました。単純にものがきれいだから、という態度だけで調査に臨んでいたのではなく、真理と美の追求に取り組んだのです。現代になって、沖縄で島の言葉を子供たちに教え、継いでいこうとする取り組みが進むようになったと聞き、柳の思いが実ったようでよかったなと思います」(古屋さん)
遺された記録では、尚家の厚意で見学を許可された首里城、歴代王が眠る玉陵(たまうどぅん)、王家の菩提寺である円覚寺など、王家関連の施設の写真が戦前の姿を伝え、とても希少です。
戦後の沖縄工芸復興を導いた『芭蕉布物語』
多くのものが失われた沖縄で、戦後、日本民藝館に残された作品とともに工芸の復興の力となったのが、柳が1943年に著した『芭蕉布物語』です。
「現存する日本の織物の中で、最も秀でているものの一つが芭蕉布」と柳が断言した布は、王族ばかりでなく、庶民の着物として沖縄の暮らしになくてはならないものでした。原料の糸芭蕉から糸をつくり、糸を染め、機で織る工程や道具、着こなしに至るまで、正しく、健全な布が生まれる過程を丁寧に書き記しています。この本を手に取り、消滅しかけた伝統技法を復興させたのが、大宜味村喜如嘉(おおぎみそんきじょか)の平良敏子さんです。同じように、復興と継承に尽力し、日本民藝館の所蔵品をもとに復元作品の制作にも取り組んだ染織家の大城志津子さん、首里織の宮平初子さんらの作品も展示されています。
戦後、柳は沖縄を再訪することはありませんでした。しかし、その心は常に沖縄にあったのでしょう。1961年の氏の逝去に際して執り行われた日本民藝館葬では、その遺志に基づきジーシーガーミ(厨子甕 ※下の写真)がしつらえられました。「壊滅的な状況から沖縄の人々は立ちあがり、文化、伝統を継いできたこと、さらにその先の将来へと伝えていこうとする思い。展示を通じて、少しでもそうした気持ちをもっていただけたらと思います」(古屋さん)
(参考文献)
柳宗悦『琉球の富』ちくま学芸文庫、2022年
展覧会基本情報
展覧会名:復帰50年記念 沖縄の美
会場:日本民藝館
会期:2022年6月23日(木)~8月21日(日)
休館日:月曜日(祝日の場合は開館し、翌日休館)
入館料:一般1,200円、大高生700円、中小生200円
日本民藝館特別展サイト:https://mingeikan.or.jp/special/ex202206/