歌舞伎には「しがねえ恋の情けが仇(あだ)」と始まる有名な台詞があります。
『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』というお芝居で、美男の与三郎が3年ぶりに再会したお富に言う長台詞です。つまらない恋にはまってしまったばっかりに、与三郎は全身34か所に傷を負い、若旦那という立場を失い、今では「切られ与三」と呼ばれるチンピラに……。
与三郎とお富の間に一体なにがあったのでしょうか。2023年4月に歌舞伎座で与三郎を演じる片岡仁左衛門さんに、お話を聞きました。あらすじの紹介とともにお届けします。
木更津海岸で出会った与三郎とお富
『与話情浮名横櫛』は、江戸時代に作られた全九幕の長編ラブストーリーです。八代目市川團十郎が初演し、明治から昭和の初めに活躍した十五代目市村羽左衛門が現在の形に仕上げました。物語の舞台は木更津海岸から。
「木更津海岸見染」のあらすじ
与三郎は、江戸・伊豆屋の若旦那ですが、放蕩三昧の挙句に勘当され、今は木更津に住む親戚に預けられています。この辺りの博徒たちをたばねるのは、赤間源左衛門という親分です。ある日、与三郎が木更津海岸へ浜見物に行くと、源左衛門の妾で芸者あがりのお富たちが潮干狩りをしています。ふたりはすれ違い、目をあわせ、江戸から離れた地でお互いに一目で恋に落ちるのでした。
仁左衛門さんに、与三郎という役についてうかがいます。
「与三郎は江戸の二枚目の代表の一つに入るようなお役です。十五代目の市村羽左衛門の小父様の与三郎の素晴らしさが神話のように伝わっていて、私の初演当時は、まだ小父様の名演を実際にご覧になった方が大勢いらっしゃいましたから大変緊張しました。与三郎が弟からの手紙を読む場面では手が震えたことを覚えています」(片岡仁左衛門さん。以下、同じ)
与三郎は、江戸にある伊豆屋という立派な小間物問屋の若旦那です。
「与三郎は(子どものいない)伊豆屋に跡取りとして養子に入りますが、その後、弟が生まれます。養子の自分ではなく実子の弟が家を継ぐべきだと考え、与三郎は身を引くために、わざと勘当されるような放蕩三昧をしたんですね。そのような背景はありますがそうした事を深堀せず明るく演じています。お客様にも楽しんでいただける場面ですね」
「見染」と「源氏店」を繋ぐ「赤間別荘」
「赤間別荘」のあらすじ
ある日、源左衛門が旅で家をあけることになりました。その夜、お富はこっそり与三郎を呼び出します。逢瀬の場所は、源左衛門の別荘です。与三郎は戸惑いながらも人目を忍んでやってきました。2人が密会しているその時、源左衛門と子分たちが突然別荘に乗り込んできます。与三郎は捕らえられ、源左衛門たちに刀で斬りつけられ半死半生に。お富は逃げ出しますが、追い詰められて海へ身を投げるのでした。
戦後の上演記録※をみると、「源氏店」は過去101回上演がありました。そのうち60回は「見染」もあわせた上演です。しかし「見染」と「源氏店」のあいだの場面「赤間別荘」も含まれていたのは17回のみ。その「赤間別荘」を、今回仁左衛門さんは上演されます。
「かつては皆さんがこの狂言のストーリーをご存知でしたから、人気の高い『源氏店』の場を単独でお見せしても満足していただけました。けれども今の時代は、それがだんだん難しくなってきたように思えます。この作品をご存じない方が『見染』の場のすぐ後に『源氏店』の場をご覧になったら、別の狂言がはじまったかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。『赤間別荘』での出来事を後から説明する台詞はありますが、それよりもその場をご覧にいれた方が分かりやすいでしょう」
分かりやすさへのこだわりは「歌舞伎を楽しんでいただきたい」との思いから。
「歌舞伎は分からないから見ないんです、と言われることがあります。見る前に勉強をした方が良いでしょうか、とおっしゃる方もいらっしゃる。もちろん物によっては事前にあらすじなど予習していただければ、より楽しくご覧いただけると思います。でも予習などしなくても充分楽しんでいただける出し物も沢山あります。お客様にお分かりいただけるように、まず私たちが(近年省かれていた場面も)きちっと演じる。そしてお客様に“歌舞伎は面白い”と感じていただける。そういうお芝居を目指すことが重要だと思っています」
与三郎の「しがねえ恋の情け」の行方
「源氏店」のあらすじ
赤間別荘での一件から3年後。雨の中、湯屋から帰ってきたのはお富です。あの夜、お富は命を捨てるつもりで海へ飛び込みましたが、和泉屋多左衛門に命を救われ、今は多左衛門の妾として源氏店で暮らしています。お富は相変わらず素敵な女性です。軒先で雨宿りをしていた藤八も、お富に思いを寄せている様子。お富は藤八を家に招き入れますが、さらに招いていない来客があります。蝙蝠安(こうもりやす)というチンピラです。安は、傷だらけの友だちの養生のためにお金をくれ、と強請にきたのです。門口で待っている“友だち”こそが与三郎でした。与三郎はお富が生きていたことに驚きつつ、詰め寄ります。そして冒頭に紹介した名台詞で、恨みつらみをぶつけるのでした。お富にも事情があるようですが、この場は多左衛門がお金を渡しておさめます。そして与三郎とお富の運命はさらなる展開を迎えます。
与三郎は序幕の育ちの良さそうなイメージから、がらりと雰囲気が変わります。
まず目につくのは全身の傷。34か所あると言います。顔を傷つけられた色男は、魅力を失うどころか新たな色気を放ちます。顔の傷に魅力をアップさせる演出効果があるのでしょうか。「それは、特にないと思います」と仁左衛門さんは笑います。
「顔の傷で色気が増すとは一概には言えないんじゃないかと私は思いますけどね」
仁左衛門さんが「歌舞伎だから」意識すること
「歌舞伎はどんな場面、状況でもそこに美がなければいけないと思います」
与三郎は、見た目だけでなく置かれた状況も大きく変わりました。
「大店の若旦那だったにもかかわらず、自分の間違いから実家に縁を切られ、今では物乞いのような暮しをしていますからね」
心境の変化はどのように表現するのでしょうか。
「『源氏店』の場でもあえて深く掘り下げずに勤めています。以前(別の俳優が)色々な事情を抱えた“陰”の気持ちを込めて演じている与三郎を見ました。なるほど、とも思いました。けれども私の場合、陰の部分は極力抑えてまず、お客様に歌舞伎独特の旋律を楽しんでいただけるように心がけています」
その理由を「歌舞伎だから、でしょうね」と説明します。
「もちろん歌舞伎には、掘り下げて演じなくてはならないお芝居がたくさんあります。『与話情浮名横櫛』も、もし全幕を通して上演するなら与三郎も演じ方が変わってくると思います。ここが歌舞伎の難しいところです。今回の場合『源氏店』の場は特に絵画的にもセリフのリズム的にも理屈抜きに明るく楽しんでいただければと思っています」
取材の結びに仁左衛門さんに、このお芝居が好きかどうかうかがいました。
「好きです。でも、なぜ? と聞かれても説明はできません。歌舞伎に対してもそう。好きですが、どこがどう好きなのか説明ができません。話は変わりますがジャンルが違っても、演者はお客様が喜んでくださる事に快感を覚えます」
仁左衛門さんは、物心がついた頃にはその感覚があったそうです。
「お芝居の深い内容も分からない子どもの頃から舞台を踏み、お客様から拍手をいただき、それが気持ち良くてそれをずっと引き摺っているんですね。今では善人でも悪人でもどんな役を演じても、お客様がその役に魅力を感じていただけるような、そんな役者でありたいと思っています」
仁左衛門さんが出演する『与話情浮名横櫛』は、4月27日まで歌舞伎座での上演です。
十五代目片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)さん
現在の歌舞伎界を代表する俳優の一人。本名の片岡孝夫で初舞台。1998年1月と2月の歌舞伎座で『吉田屋』伊左衛門、『助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)』助六ほかで十五代目片岡仁左衛門を襲名した。2015年重要無形文化財保持者(人間国宝)。2016年第二十三回読売演劇大賞・最優秀男優賞。2018年文化功労者。4月2日より歌舞伎座『鳳凰祭四月大歌舞伎』の夜の部にて『与話情浮名横櫛』に出演。
※参考:公益社団法人日本俳優協会「歌舞伎公演データベース」