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2023.08.08

呪いや怒りを込めた、衝撃的な呪詛人形も。ボーダレスな人形文化に迫る【松濤美術館】

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和樂webで人形といえば、伝統芸能の文楽を思い出しますが、もう少し、身近な視点で考えてみると、ウィンドーに飾られるマネキンやキャラクター人形、家に帰れば玩具やフィギュア、お土産でもらったこけしや置き物など、多くの人形に囲まれていることがわかります。私たち日本人にとって、人形とは、過去から未来まで多様な世界を見せてくれる存在といえるのかもしれません。そんなことを考えるきっかけになった「私たちは何者? ボーダレス・ドールズ」展が、現在、渋谷区立松濤美術館で開催されています。

ARTや彫刻という言葉ではくくりきれない日本の人形文化

今回、企画を担当した学芸員の野城今日子さんによると、近代彫刻の世界では、2010年代に、人形は彫刻として捉えられるようになったのだとか。「彫刻という概念自体、明治に入って西洋から輸入されたものですが、単にブロンズ像などの彫刻作品だけでなく、雛人形や仏像、かつての日本にあった置き物など、すべて含めて、人形を学術的に『彫刻』としても分類するようになりました。ただ、私たち日本人が人形について考える時、単に美術としての『彫刻』ではなく、民族的な儀式に使用したり、エンターティンメントとして楽しんだり、商業用として販売するなど、もっと幅広い、多様な意味があると考えたんです」と野城さん。

確かに人形に込める私たちの想いは実にさまざまです。幼い頃には、人形にこっそり話しかけたり、自分を見守ってくれたりする存在として、いつも身近に置く、大切な存在でした。だからこそ、引っ越しや断捨離でも簡単に捨てることはできず、いつまでも特別なものとして扱っていたのです。

子どもの頃から持っている人形で、いまだに手放せないものがありますね……。

ボーダレスの象徴? 男でも女でもない平安時代の人形=呪詛に込めた想いとは?

展示会場に一歩入ると、まず目に飛び込んでくるのが木型の人形です。これは、平安時代前期の邸宅跡から見つかった、なんとも不吉な様子の男女の姿を模したものです。彼らは名前を彫られ、井戸に埋められ、呪いや怒りを込められた人形でした。

「本来、紙や木に人の形を写したものを形代(かたしろ)と呼んでいました。薄い板に切り込みを入れ、手足を表現し、墨で顔を描いた単純な人形代は、大祓いなどの儀式に使われていました。一方、この資料は、男性は烏帽子を被り、女性は髪を結い、高貴な人ではあるけれど、両手を縛られている姿はまさに罪人。男女いずれとも胴体に『葛井福万麿(ふじいふくまろ)』(男)、『檜前阿古(ひのくまあこ)』(女)と名前まで記載されていました。出土された場所のすぐ近くには、彼らの屋敷があったといわれています。史実の記録としては、憎しみを持つ相手に、呪殺目的に使用したという記録はありますが、実際にそれを表現した人形代が出土したことは衝撃だったようです」と野城さん。

呪殺? 何とも物騒な言葉ですが、この人形からは、男女の恋愛のもつれなどを想像させ、相当な怨念を受けていたと思われます。

《人形代》平安京跡出土 平安時代前期 京都市指定文化財 京都市蔵
ドラマや漫画の世界では見たことがありますが、実際に使われていたとは!衝撃的です。

人間の身代わりとして、生活に密接に溶け込んでいった人形たち

平安時代になると、宮廷の文人官僚・大江匡房(1041~1111年)が書いた『傀儡子記(かいらいしき)』や清少納言の『枕草子』に、木で作った人形を操り、歌や踊りを披露し、諸国を巡業していた旅芸人の傀儡子(くぐつし)が登場します。その人形遣いから派生した言葉が「傀儡=かいらい」で、人を思い通りに動かすという意味として現代でも使われています。このように人間の想いや念を人形に吹き込んで、担わせた役割は、どんどん大きくなっていきました。

青森県津軽地方には、人形が「人」の身代わりとなって伝承されてきた事例がありました。「山で働く人たちが、12人で山に入ると神の怒りに触れ、災いが起こるという伝承があったんです。そのため『サンスケ』と呼ばれる人形を作り、13人目の人間として、一緒に入山させていました。この風習が1970年代まで続いていたようです」と野城さん。

このサンスケが、人であることを神様に示すため、人間と食卓を一緒に囲んだり、声をかけるなどして、人間同様に扱っていたそうです。

《サンスケ》昭和時代・20世紀 青森県立郷土館
サンスケは、災いから守ってくれる身近な存在だったのですね。

もはや人形ではない「生人形」はなぜ作られたのか?

安本亀八(三代)《生人形 徳川時代花見上臈》明治時代・20世紀 東京国立博物館蔵 Image: TNM Image Archives

「日本人の伝統的な風習に『人形供養』があります。物ではなく、者として見ているからこそ、生まれた習慣だと思います。展覧会の宣伝用のリリースを作る際、『私たちは何者?』という言葉を英訳する際に、『Who are we?』と書いたんですが、ネイティブチェックで『人形は人間ではないので、weは使いません』と返ってきたんです。でも私たちの中には人形は『物』ではなく、『者』であり、その感覚が日本人ならではないかと思いました」と野城さん。確かに日本のマネキンをはじめ、等身大の人形の容姿は、どこまでも人間らしく製作するように求められます。

「生人形がブームとなったのは、幕末から明治初期にかけてです。今でいうテレビや映画のようなエンターティンメントの一つでした。熊本県出身の安本亀八と松本喜三郎という二大トップが、爆発的に人気を呼んだ時代でした」

人間を生き写しにしたような「生人形」はその表情もさることながら、動きや身に付ける衣装も精巧に作られています。これが江戸時代に作られていたことを考えると、人形師の技術の高さにも驚かされます。この時期、生人形は海外で開催された万国博覧会にも出展され、大絶賛を浴びました。

「私たちは何者?ボーダレス・ドールズ」展(渋谷区立松濤美術館)会場風景

「生人形師の安本亀八や松本喜三郎は、若い頃から生きているかのような等身大の人形を制作し、大変な人気を博していました。松本喜三郎は、彫刻家の高村光雲に『震えるように感動した作品の数々』と言わしめた逸材でもありました。また、今回、展示している≪松江の処刑≫は、愛媛の三津浜地区に伝わる伝承を再現したものですが、この地域から出たことがない貴重な生人形です。ただ、残念なことに、日本で完全な形で残っている生人形はとても少ないんです。幕末から明治への転換期に、見世物細工として、生人形は低くみられるようになり、いつしかブームの終焉を迎えて衰退していきました」

吉村利三郎《松江の処刑》 1931年頃 三津浜地区まちづくり協議会蔵
暴漢に襲われた時に相手を殺してしまった悲劇の女性。娘の訴えから、斬首しようとする父。明かりを灯す幼い妹。三体の人形から、それぞれの思いが伝わってくるようです。

マネキンは彫刻?ART?西洋化に影響を受け、生人形はマネキンとして商業的な人形へ

時代の変遷で、ディスプレイの分野にも活路を見いだした生人形師が手掛けた商業展示用のマネキンは、海外から入ってきた洋装マネキンとは、容姿も表情も全く違います。精巧に人を模して作られる生人形は、新たなファッションを提案する存在へと生まれ変わっていきました。

人体模型を製作していた島津製作所では、輸入品に頼っていた洋装マネキンを国内生産へと切り替えます。創立者の孫であり、東京美術学校の彫刻科を卒業した島津良蔵は、彫刻家の荻島安二や向井良吉と出会い、斬新なマネキンを製作するようになりました。

荻島安二《マネキン》1926年 株式会社七彩蔵

マネキンの発展に、荻島安二や向井良吉のような一線級の彫刻家が関わっていたことに驚きました。彼らの作るマネキンは、アートといえるほどモダンで美しく、これらが芸術としての評価に繋がった理由でもある気がします。商業用というくくりを超えた自由な発想は、日本古来の人形に対する想いの深さを表しているように思います。

向井良吉《SA-10》1952年 株式会社七彩蔵 ⒸMASAYUKIHAYASHI

ラブドールは性を対象としたものだけでない人間らしさを放つ

「人形代には、憎しみや恨みを持つ人物への身代わりとしての役目を負わせましたが、愛情を向ける対象としての身代わりとして作られたのが、ラブドールです。今回展示されているラブドールは、オリエント工業が福祉的な意義も持って、愛情を注ぐ対象として作られました。さまざまな背景を持つ人々の心に寄り添うという役目も担っていると思います」と野城さん。

村上隆の『KO²(ここ)ちゃん』は、オタク文化が世界のアートシーンへと飛躍した実例です。フィギュアという「彫刻」でも「工芸」でもないジャンルではあるけれど、人形に対する人間の愛情を新しい形で表現し、世界的な評価へと繋がりました。

村上隆《Ko²ちゃん(Project Ko²)》1/5原型制作BOME(海洋堂)1997年 個人蔵 ©︎1997 Takashi Murakami/Kaikai Kiki Co., Ltd. All Rights Reserved.

「日本の歴史を振り返れば、民族、考古、工芸、彫刻、玩具、現代美術と、実にさまざまなジャンルのボーダーラインを縦横無尽に飛び越えながら、分野を問わず、曖昧な存在を武器として生きながらえてきた唯一無二の造形物が人形といえるのではないでしょうか。それが現代のフィギュアへと繋がっているように思います」と野城さん。

人形の変遷はそのまま人間の心情の変化?

日本の人形は、人間の『身代わり』として私たちに寄り添ってきました。そこには日本人の深い人形愛のようなものを感じます。野城さんは「人形は、私(人間)たちそのものの写し鏡です。だからこそ、各時代と地域の人間の感情を写すさまざまな形の人形が生まれ、多様な分野に派生することが可能であったように思います。人形代の系譜、変遷が、この展示のタイトルである『私たちは何者?』という問いかけの一つでもあります」と語ります。

一つひとつの人形に込められた物語を見つめながら、日本人が胸のうちに秘めたさまざまな言葉を人形から読み解いてみてください。自分自身を見つめ直す時間となるに違いありません。

小島与一 《三人舞妓》 1924年 アトリエ一隻眼
枠にはめ込むことが難しい人形という存在。展示作品から、自分にとっての人形は何なのか?そんなことを考えるきっかけとなりそうです。

私たちは何者?ボーダレス・ドールズ

会場:渋谷区立松濤美術館
会期:2023年7月1日(土)~2023年8月27日(日)
   前期:7月1日(土)~7月30日(日)/後期:8月1日(火)~8月27日(日)
入館料 一般1,000円(800円)、大学生800円(640円)、
高校生・60歳以上500円(400円)、小中学生100円(80円)
※( )内は団体10名以上及び渋谷区民の入館料
※土・日曜日、祝休日及び夏休み期間は小中学生無料
※毎週金曜日は渋谷区民無料 ※障がい者及び付添の方1名は無料
※入館料のお支払いは現金のみとなっております。
※本展覧会の出陳作品には、18歳未満の方(高校生を含む)がご覧になれない作品が一部含まれます。あらかじめご注意くださいますようお願い申し上げます。
休館日 月曜日
公式ホームページ
主 催: 渋谷区立松濤美術館
協力:一般財団法人日本玩具文化財団、横浜人形の家

書いた人

旅行業から編集プロダクションへ転職。その後フリーランスとなり、旅、カルチャー、食などをフィールドに。最近では家庭菜園と城巡りにはまっている。寅さんのように旅をしながら生きられたら最高だと思う、根っからの自由人。

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幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。