正倉院宝物、古くは魏志倭人伝の中にも
パール、もとい真珠は数ある宝石類の中でも格が高く、フォーマルな場においてよく用いられるジュエリーである。母なる貝の中で長い年月をかけて育まれた真珠の柔らかな輝きは、研磨やカットを経て美しい輝きを放つ鉱石とは異なる静けさに満ちている。
世界的に見れば、真珠は古代エジプトや中国などで紀元前から珍重されていたと言われるが、日本でもすでに縄文時代の遺跡から数々の天然真珠が発見されている。
なにせ日本は海に囲まれた島国。このため自然界のもたらす真珠は、古しえの日本人にも馴染み深い宝物だったのに違いない。邪馬台国の女王・卑弥呼について記すことで有名な『魏志倭人伝』には、三世紀半ば頃、卑弥呼の跡を継いだ十三歳の少女・台与(とよ)が魏国に対し、男女の生口(奴隷)三十人や錦二十匹とともに、「白珠五千孔」を献上したと記されている。五千個ではなく五千孔と書いているのは、真珠に穴を開け、糸を通した状態だったからと考えられる。
奈良時代に編纂された史書『日本書紀』には、第十九代天皇・允恭(いんぎょう)天皇の時代、現在の兵庫県・淡路島の海底の大鮑の中から、桃の実ほどもある巨大な真珠が見つかったとの逸話が記されている。これを発見したのは阿波国(現在の徳島県)の男狭磯(おさし)という海人で、彼は腰に縄をつけて海に入り、六十尋(約九十メートル)もの深さからこの大鮑を捕ったという。あまりに深い海に潜ったためか、男狭磯自身はこの直後に亡くなってしまうが、古代において真珠が似たような手段を経て集められていたことは想像に難くない。
では、陸に上げられた真珠はその後、どういった用途に用いられていたのだろう。八世紀前半に没した貴族・太安萬呂(おおのやすまろ)は、現存する日本最古の書物『古事記』を編纂した人物だが、今から四十年ほど前に奈良県奈良市で発見された彼の墓には、火葬された骨、青銅製の墓誌とともに真珠が四粒納められていた。現在、墓誌とともに重要文化財に指定されているこの真珠は後の調査で、アコヤガイから取れたアコヤ真珠であること、火をくぐった跡はないため、火葬後に墓誌とともに墓に入れられたらしいことが判明している。
太安万侶は奈良県田原本近辺を本拠地とする、多氏という氏族の出身。特別、海にゆかりのある人物ではない。そんな彼の墓になぜ真珠が入れられていたのか、様々な推測はあれど、まだ確固たる結論は出ていない。ただ奈良時代の朝廷において、真珠が大変珍重されていたことだけは間違いがなく、たとえば、東京国立博物館には聖武天皇が用いたとの伝承を持ち、真珠と玻璃(はり/ガラス玉)を色糸で組んで帯に仕立て上げた「玉帯殘闕(ぎょくたいざんけつ)」が所蔵されている。また同じく聖武天皇の遺品を数多く収蔵する正倉院を見ても、茜色に染めた革に真珠や瑠璃・水晶を埋め込んだ儀式用の靴「衲御礼履(のうのごらいり)」、はたまた様々な色の琉璃玉と三千個に及ぶ小さな真珠を連ねた冠飾り「礼服御冠残欠(らいふくおんかんむりざんけつ)」など、真珠を用いた様々な装飾品は今日に多く伝えられているのだ。
このうち、正倉院の靴と冠は天平勝宝四年(七五二)四月の東大寺毘盧舎那大仏開眼供養の折、すでに上皇となっていた聖武が用いたものと推測されている。だが幾ら国を挙げての一大セレモニーの場とはいえ、真珠をはじめとする宝石類で飾り付けられた靴に、小さな真珠を連ねた垂飾を数多あしらった冠とは。その豪華さには、つい溜息をつかずにはいられない。
あれは真珠か、草の露か
なおこの聖武の冠は、現在は「残欠」の名前の通り、バラバラに壊れ、金銀や金銅の飾り金具、前述の琉璃・真珠を連ねた垂飾など、部品ごとに保管をされている。これは長い年月の間に正倉院内で壊れたわけではなく、実は開眼供養から五百年後の仁治三年(一二四二)、後嵯峨天皇の即位礼に使用される冠の参考にするため、倉から京都に貸し出された帰路、誤って壊されてしまったのである。
聖武の冠を参考にした冠がどのような品であったのか、現在では知る術がない。だが聖武の冠に使われた真珠のおびただしさを思えば、後嵯峨の冠にもまた何らかの真珠が使われていたのでは——とついつい想像してしまう。
それにしても天然品を集めたのだからしかたがないが、「礼服御冠残欠」をはじめ、奈良時代から現在に伝わる真珠の大半は、いずれも直径一センチに満たぬ小さなもの。そこに穴を開けてビーズのように用いているのだから、当時の加工技術の高さには驚かされる。
大粒の養殖真珠を目にすることの多い現在の我々は、真珠と聞くと、皆それなりの大きさがあるものと想像してしまう。ここまで読んでくださった方の中にも、そういう方はおいでではなかろうか。しかし古代の真珠はそもそもすべて天然品なのだから、彼らが見ていた真珠と我々がいま認識している真珠には、相当の差があると考えねばなるまい。
漢詩や和歌にはしばしば、真珠を意味する「白玉」が比喩として登場する。しかし、だとすればこれらの言葉も今日の真珠にそのまま重ね合わせるのではなく、古しえの小さな真珠と思って読み返さねば、当時の人々の心性にはたどりつけない。
十世紀前後に成立したと考えられている『伊勢物語』は、在原業平を想起させる男を主人公とした歌物語。その中でももっとも有名な和歌にも、「白玉」は象徴的に用いられている。
白玉か 何ぞと人の問ひしとき 露と答へて消えなましものを
ある男が恋人を家から連れ出して逃げる途上、女が草の露を見て「あれは何か」と尋ねる。男は先を急ぐあまりそれに答えられぬのだが、その夜のうちに女は雨やどりをしたあばら家で鬼に食われて消えてしまう。実はこれは二人の後を追ってきた女の家族が女を捕らえ、連れ戻したことのたとえ話。いずれにしても恋人が消えた事実を嘆き悲しんだ男が、「あれは真珠ですか、と恋人が問うた時、露だよと答えて、その露の如く私も消えてしまえばよかった」と詠んだ歌が上記の詠草であるが、ここで「白玉」を現在のような大粒の養殖真珠だと解釈すると、草の上に置かれている露と見間違えるはかなさが理解できない。古しえの人々は真珠を現在のそれよりはるかに小さな粒と理解しており、だからこそ一夜にして消えてしまう淡い存在へのたとえが際立つのだ。
我々はいま、大粒の真珠をたやすく手にすることができる。長い歴史の中で多くの真珠が求められ、やがて真珠の養殖を経て、美しい大粒の真珠が我々に身近なものとなったのは、天然の真珠を愛し、その輝きに魅せられた人々の欲求があればこそ。言い換えれば古代の人々の真珠への愛こそが、いまのジュエリーとしてのパールの輝きを支えているのである。