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2023.06.13

平安の宝石に映る名もなき人々の影 澤田瞳子「美装のNippon」第2回

きらびやかな宝飾品で身を装い、飾りつけること。そこには「美しくありたい」「暮らしを彩りたい」という人間の願いがあります。 新連載「美装のNippon 〜装いの歴史をめぐる〜」では、作家・澤田瞳子氏にさまざまな装身具や宝飾品の歴史をたどっていただき、「着飾ること」に秘められたふしぎをめぐります。

竹取物語に描かれたジュエリー

 絵本やアニメーションでもおなじみの「かぐや姫」は、九世紀後半から十世紀前半頃に成立した「竹取物語」が原典である。美しい竹の中から生まれた少女が成長し、帝をはじめとする多くの求婚者たちを拒みながら故郷の月に帰っていく物語の中に、ある宝飾品が登場することをご記憶だろうか。

 それはかぐや姫が求婚に訪れた五人の貴族を諦めさせるべく、様々な難題を彼らに提示する場面。車持皇子という人物がかぐや姫からせがまれる、銀の根、黄金の茎、白き玉の実を持つ「蓬莱(ほうらい)の玉の枝」という宝物である。
 蓬莱とは東の海の果てにあると考えられた、仙人の世界。そもそも実在するかすら分からぬ異郷である。そこで車持皇子は港から船出をするふりをしてこっそり帰宅すると、簡単には人が寄り付けない家を作って、一流の鍛冶職人六人を召し集めた。自身も彼らと同じ家に籠り、全財産を投じて、宝の枝を作らせる。そして三年後、たった今、蓬莱から戻ってきたふりをして、完成した枝を麗々しくかぐや姫の元に持参するが、なんとそこに職人たちがやってきて、「宝の枝を作った賃金を、まだもらっていない」と騒ぎ立てたため、皇子の嘘はあえなく露見してしまう——というのが、蓬莱の玉の枝にまつわるストーリーである。

『竹取物語 上』(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 無論、これはあくまで物語。蓬莱の玉の枝が本当に製作されたわけではないのだが、注目すべきは「竹取物語」において、この職人の一人が自らを「内匠寮(ないしょうりょう)の工匠、あやべの内麻呂」と称している事実である。
 内匠寮とは奈良時代に設置された役所で、宮中で用いられる雑器の製作・装飾などを司った。大同四年(八〇九)の時点では、画師(絵師)や金銀工、木工などが百人以上所属していたらしいので、形式こそ役所であるが、実際には官立工房と考えた方が適切だろう。九世紀前半に成立した「延喜式」という法律書には、そんな内匠寮の工人が作る品物が様々記載されており、屏風や几帳などの木工品の他、白銅火炉(合金の火鉢)や銀の箸といった品々が確認できる。

 「竹取物語」の作者が「蓬莱の玉の枝」の作り手を内匠寮の工人に設定したのも、そんな宮廷直轄の工房の人間であれば、誰も見た事のない宝物を作る技量があると考えたためだろう。ただ実のところ奈良・平安時代の宮廷人にとって、金銀や玉といった宝飾品類は比較的馴染み深い存在であった。

 たとえば宮廷に出仕する役人や貴族が締める帯の一つに、「石帯(せきたい)」というものがある。原則として牛革製で黒漆塗り。端には刺金(さすが)という金具がついており、帯のところどころに空いている穴にそれを通して腰に提げる――つまりは現在の我々が知るベルトと、まったく同じ構造の帯である。

狩野〈晴川院〉養信筆『源氏物語図屏風(絵合・胡蝶)』より一部を抜粋。貴族が腰に巻いているのが石帯。(出典:ColBase[https://colbase.nich.go.jp/])

石帯はその名の通り、ベルト部分に四角形や丸型の飾りの石がついており、身分の高い貴族は銅に金銀のメッキを施した石がついた帯、低位の貴族や役人は銅に黒漆を塗った石がついた帯を使っていた。前述の「延喜式」には、「馬瑙(めのう/瑪瑙とも)御腰帯」を作る際の詳細が記録されているが、これは天皇が用いる瑪瑙つきの石帯で、主材料の革は長さ七尺(約二一〇センチメートル)、幅六寸(約十八センチメートル)。瑪瑙は方四寸(約十二センチ四方)の石を用いるとあるから、恐らくかなり重いベルトだったに違いない。

平安貴族が愛したペルシャ産の瑪瑙(めのう)

 時代は「延喜式」の時代から二百年近く遡るが、奈良時代後期に生きた聖武天皇の遺愛の品々を中心とする正倉院宝物の中には、「紺石帯残欠(こんせきたいざんけつ)」という品がある。もともとは五つに断裂していたものが、昭和四十九年の修復でつなぎ合わされたものの、それでも足りぬ部分があるため、現在も二つに分かれた状態で保存されている石帯である。長さは百五十六センチ、幅三・三センチ。「紺石」と名前の通り、青色に白い斑の入ったラピスラズリで飾られた非常に美しい帯である。
 ラピスラズリは現在でも、九月もしくは十二月の誕生石として愛されるメジャーな石。ただし日本では産出せぬため、この紺石帯残欠を飾る石たちはシルクロードを通って、はるばる中東から運ばれてきたものと考えられている。

 正倉院にはこの他にも、「斑貝御帯残闕(はんばいおんおびざんけつ)」という品も残されており、こちらは夜光貝から作られた帯飾り。本体であるベルト部分は失われており、端正な形に加工された貝飾り部分だけがかつての帯の華やかさを偲ばせている。

国宝「興福寺鎮壇具 瑪瑙玉」。奈良時代のもので、興福寺中金堂須弥壇の下から見つかった。(出典:ColBase[https://colbase.nich.go.jp/])

 史料をひもとけば、石帯にはこの他にも黒い犀の角や水牛の角を切り出したものを飾りとする「烏犀角帯(うさいかくおび)」や斑の角をあしらった「斑犀帯(はんざいのおび)」、白玉を飾った「白玉帯」など、様々な種類があったらしい。これらの帯は飾られている石に応じて格が異なり、白玉帯は最上の帯の一種。また犀角の帯は白玉帯・瑪瑙帯など玉をあしらったものよりは格が低く、その中でも斑犀帯の方が烏犀角帯よりも上質だと考えられていたという。

 「竹取物語」から少し後に記された物語「うつほ物語」の中には、ある家に先祖代々伝わる石帯が行方不明になるシーンがある。この帯は時の帝までもが羨ましがり、譲ってほしいと言い出したほどの逸品だそうだが、確かに様々な奇石で飾り立てた石帯ともなれば、その価値は現在の我々にはおよそ想像もつかぬほどだっただろう。

 ところで瑪瑙は古くから、富山県や島根県など各地で産出し、勾玉や管玉にも多く加工されてきた品。ところが「和名類聚抄」という平安時代の辞書には、「波斯(はし)瑪瑙帯」という言葉が確認できる。「波斯」とはササン朝ペルシア、現在のイランを指す地名。つまり当時の日本には国産瑪瑙ではなく、わざわざ外国産の瑪瑙を使った瑪瑙帯もあったわけだ。

(同上)

 平安時代後期に記された『新猿楽記』という書物には、当時の大陸からの輸入品の一つとして「瑪瑙帯」の名前が挙がっている。そうなると「波斯瑪瑙帯」は帯の形で輸入されたとも考えられるが、一方で瑪瑙だけが輸入され、日本で加工された可能性も皆無ではない。もしそうだとすれば貴重な外国産瑪瑙の加工には、当然、腕のいい技術者が選抜されたであろうし、もしかしたらそれは「蓬莱の玉の枝」を作ったのと同じ、内匠寮の工人だったかもしれない。

 高価な帯を用いた貴族や天皇たちとは異なり、一介の技術者に過ぎぬ工人の名はほとんど史料には残らない。だが古しえの人々の華やかな生活を偲ばせる宝石類の向こうには、確かに名もなき多くの人々の活躍があったのである。

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澤田瞳子

1977年、京都生まれ。同志社大学文学部卒業、同大学院博士前期課程修了。同志社大学客員教授。2010年に『孤鷹の天』でデビュー、中山義秀文学賞を受賞。2016年『若冲』で親鸞賞、2021年『星落ちて、なお』で第165回直木賞受賞。近著に平安時代を舞台にした『のち更に咲く』。
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