源倫子(みなもとのりんし/ともこ)は、平安時代に天皇の外祖父として大きな権力を握った藤原道長の正妻。2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、黒木華さんが演じます。
摂関家の五男として生まれ、出世の見込みは薄いと思われていた道長の大躍進は、倫子との結婚から始まったと言っても、過言ではありません。
男の価値は、妻次第で定まるものだ by藤原道長
道長と倫子の長男・藤原頼通(よりみち)が、天皇家ゆかりの姫君と結婚することになったとき、道長は「おそれ多い」と言いながらも「男(おのこ)は妻(め)がらなり」と喜んだ。そう、平安時代の歴史を綴った『栄花物語』には記されています。
「男というものは、妻の家がらによって良くも悪くもなる」
その言葉のとおり、道長自身も天皇家につながる貴族の姫を妻としてから、大出世を果たしました。その姫君というのが、道長の北の方(正妻)となった倫子。通称を土御門(つちみかど)の姫、あるいは鷹司殿(たかつかさどの)といいます。
昔は本名は神聖なものとされていたので、女性であれば父親の役職や、住居のあった場所などにちなんだ通称で呼ばれるのが一般的でした。
お后候補として育つも、天皇とのマッチングは不成立
倫子は、のちに鷹司左大臣あるいは一条左大臣と呼ばれる源雅信(みなもとのまさのぶ)の娘として、康保元(964)年に生まれました。父・雅信は宇多天皇の孫にあたり、倫子はその血筋から、将来は天皇の后にと期待されて育ちます。
しかし、年頃を迎えたときにはすでに摂関政治の真っ只中。貴族たちの思惑が交錯して天皇がバタバタと変わり、倫子は后となるタイミングを逃してしまいます。
道長と結婚したのは永延元(987)年、倫子が24歳のとき。
道長は倫子よりもふたつ年下の22歳で、朝廷でもまだ下っ端でしたが、とてもハンサムな青年だったので、倫子の母がほれこんで父の反対を説得し、許された結婚でした。
前年に花山天皇が19歳で退位して、次に即位した一条天皇はまだ8歳でしたから、倫子が后となる道は、あきらめざるを得なかったという事情もあったでしょう。
「妻の実家」がものをいう平安貴族の結婚
平安時代の貴族の結婚は、現代の結婚とは違い、妻のところに夫が通う「通い婚」です。正妻となれば同居をしますが、その際も妻の家で暮らすケースが少なくありませんでした。
結婚後の道長も、妻の実家が所有していた邸宅のひとつである土御門殿(つちみかどどの)で、倫子とその家族とともに暮らしています。
のちに倫子の両親ときょうだいは隣接する一条殿に移り、土御門殿は倫子と道長の本宅となりました。
倫子は道長との間に2男4女をもうけ、そのうち3人の娘が天皇の后となって、道長を天皇の外戚へと押し上げました。一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)、三条天皇の中宮・妍子(けんし/きよこ)、後一条天皇の中宮・威子(いし/たけこ)という、一家三后の偉業です。
道長の娘たちが続けざまに入内できたのは、藤原摂関家の圧力もあったでしょうが、天皇家に連なる倫子の実家・宇多源氏の家格も、ものをいったに違いありません。
道長が待ち望んでいた彰子の出産は、土御門殿に里帰りして行われました。
天皇の后たちの実家となった土御門殿は、内裏が火災にあったときなどに政務を行う里内裏としても機能し、のちに後一条天皇・後朱雀天皇の母として政治を後見した彰子に譲られています。
倫子は穏やかで社交的な「できる妻」
平安時代の女性の記録は、そう多くありません。彰子に女房として仕え、『源氏物語』を執筆した紫式部ですら、その本名も生年も伝えられていないのです。
倫子がどのような性格の女性だったのかについては、推測の域を出ませんが、『栄花物語』は、道長が醍醐天皇の孫にあたる源明子(みなもとのめいし/あきこ)をもう一人の妻としたときの倫子のようすを、次のように記しています。
「道長は倫子と、水も漏らさないほど仲睦まじく過ごしていたが、やがて源高明の末の姫君(明子)と親しい仲になられた。土御門の姫君(倫子)はつらいお気持ちながらも、とても気性の穏やかな方なので、おっとりとなさっている」
また『栄花物語』には、よく宮中に参内する倫子の姿が記されています。
娘たちが中宮という立場を得ても、宮中で威厳を保つには細やかな実家のサポートが欠かせません。おそらくは倫子もそのために働いていたのであり、気配りのできる賢さと行動力を持つ倫子は、道長にとって後宮を制するための重要なパートナーだったことでしょう。
紫式部に嫉妬した? 疑惑の場面とは
彰子の妊娠・出産を綴った『紫式部日記』には、そんな「できた妻」の倫子が紫式部に嫉妬したのではないかといわれる、疑惑のシーンがあります。
彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産すると、道長はお祝いの儀式を盛大に催しました。誕生五十日を祝う『五十日(いか)』の宴の席で、酔っぱらった道長は紫式部にふざけかかり、着物の袖をつかんで、歌を詠めと迫ります。
いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)のあまり久しき君が御代をば (紫式部)
紫式部が誕生五十日とかけて「いかにいかが……」と親王の長寿を願うと、道長は「実に上手い」と紫式部の歌を二度口ずさみ、次の返歌を詠みました。
あしたづのよはひしあれば君が代の千歳の数も数へ取りてむ (藤原道長)
「葦の水辺にたたずむ鶴のように千年も生きて、親王を見守りたいものだ」そう歌に意欲をこめると、彰子にむかってこう話しかけます。
「中宮様、どうです。上手く詠んだでしょう。中宮様の父として、私はふさわしいでしょう。中宮様も、私の娘として恥ずかしくないですよね。母上(倫子)も幸せと笑っておいでだ、良い夫を持ったと思っているのだろう」
道長はどうやら、酔うと気が大きくなるタイプ。紫式部は酔っ払いの戯言だと思って聞いていますが、「北の方(倫子)はうるさいと思ったのか、部屋を出て行かれてしまった」と続けています。道長はしまったとばかりに妻の後を追いかけていきました。
平安時代の女性は意外と強かった
道長と紫式部の掛け合いを見て、倫子が不機嫌になったことから、道長と紫式部が愛人関係にあったのではないかと考える説もあります。
しかし、『源氏物語』などを研究する山本淳子氏は、道長にはすでに多くの女性がおり、倫子が紫式部に嫉妬して退出したとは考えにくい、倫子が怒ったのは、道長が調子に乗って「自分のおかげで妻の倫子も幸せだろう」と言ったからだろう、と分析をしています。
倫子にしてみれば「あなたが出世できたのは、私と娘のおかげでしょう」とでも言い返したいところだったのではないでしょうか。
平安時代の貴族の出世や、権力争いを支えたのは妻や娘たち、女性だったのです。
参考書籍:
『日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『日本古典文学全集 紫式部日記』(小学館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『源氏物語の時代』著:山本淳子(朝日新聞社)
『日本の歴史 平安時代 揺れ動く貴族社会』(小学館)